6. 少しだけ特別な仕事上がり

「何でまだおるんかって? 土砂降りやったから七時まで店で雨宿りして、そのあとドラッグストアとATMとコンビニ寄ってただけやん。あんた何してたん」

「返品と、万引犯捕まえてました」

「ああ、アイツやっと捕まったんや。良かった、お疲れさん」

 経緯を詳しく聞くこともなく、青木さんは極めて自然な動作でズボンのポケットから煙草を取り出した。たぶんピアニシモだ、店長とは違う味の。僕は反射的にライターに火をつけて差し出した。

「ありがと」

 火をつけてから、しまったと思った。青木さんは病気をしてから禁煙していたはずだ。

 でも、僕は咎められない。スモーカー同士で『健康に害を及ぼす』可能性に言及することはタブーだから。

 青木さんは興味なさそうな顔で僕の指の間に挟まったハイライトをちらりと見た。

「それ、何なん」

 箱を見せると、青木さんは顔をしかめた。

「メンソール入り不味くない? てか大槻くん、新入社員の時は吸ってなかったって店長が言ってたけど。なんで吸っちゃったわけ? かっこいいと思ってる?」

 僕は曖昧に笑っておいた。接客業に慣れる前の自分なら、否定するか俯くかしていたかもしれない。

「違うんや? まあ、女やな」

 面白そう、と言わんばかりの顔である。

「あんな完璧なんも、なかなかおらんわな。褒められたらニヤつくんも、しゃーない。でもレジでは、やめとき。キモいから」

 やっぱり青木さんはエスパーなのかもしれない。それとも女性みんな? いきなり刃を向けて、男が動揺するのを見て楽しむのは悪趣味だからやめてほしい。

「店長は完璧のふりをしてる普通の人です」

 去勢を張った。少なくとも青木さんよりは店長のことを知っているつもりだ。つもりに過ぎないが。

「ようわかってるやん」

 青木さんは珍しくバカにしなかった。

「でも、普通とちゃうから惚れたんやろ? 世の中不平等やな」

 最後は独り言のように聞こえたので、僕は相槌を打たなかった。何がどう不平等なのかも分からなかったし、彼女が僕の中で燻る劣等感に気付いていたのなら、深掘りされたくもなかった。

「青木さんはどこ出身ですか」

「このタイミングで聞く? 京都。山ん中。猪とか鹿とかが出るような」

「なんでまたこんなとこに?」

「ここ、割と有名な工業大あるやん。でも卒業しても契約社員にしかなれんくて、ここと掛け持ちしてた。で、病気してさ。そのうちこっちの仕事のほうが楽しなって。田舎やから家賃安いし、ギリギリ生きてける」

 青木さんは、とっくの昔に夕陽が沈んだ方角を見ていた。たぶん、遠い故郷の方を。病気になっても帰らなかった故郷に、彼女は何を思っているのだろう。

 この土地では太陽は山ではなくて海に沈む。その前に、大して高くもない建物の向こうに。僕は四方を山に囲まれていないことへの不安を未だに抱き続けている。夜の山なんて黒々して怖いだけのはずなのに。

 青木さんは、あんたこそ何でこんなとこに来たんよ、と僕を横目で見ながら言った。

 実は僕も、どうして自分が縁故もゆかりもない土地に住んで働くことになってしまったのか、三年経っても不思議で仕方ない。本も本屋も好きだけど、最初から志望してたわけじゃない。就活で残ったのが、ヤケクソで受けたこの会社だけだった、それだけ。人生は自分の意思で決められないって事実に、僕はまだ納得いっていない。

 妙に真面目な青木さんの雰囲気に乗せられて、僕は余計なことを口走った。

「僕、面接で社長にやりたいことを聞かれた時に、ミシシッピ川を筏で下りたいって言ってもたんですよ。ハックルベリー・フィンみたいに。僕はハックが羨ましくて。ちょっとアウトローだけど、自分が正しいと信じたことを貫くところが」

「へえ……大槻くんて、大人しい、いい子ちゃんかと思ってた」

「僕にとって、本の中にあるものこそが真実で、外にあるものは全部嘘なんです。……って言ったら、最終面接で堂々と変なことを言う学生は君くらいだって社長に笑われました」

「うっわ、想像つくわぁ。マジで使えへん不思議くんか、ホンマの逸材か、よう得体の知れんヤツ採用しはったな」

 青木さんは苦笑していたが、別に僕のことを使えないヤツだとは思っていないみたいで、ホッとした。

「あんな、あんたホンマのことしか言わへんやろ。やから口数少ないねん。黙ってたら誤解されるで。うまいこと嘘つきや」

 人と親密になるには、お世辞や中身のない雑談のジャブを延々続けて腹の探り合いをしないといけないみたいだ。そんなことは知ってるけど、僕はその入口でつまづいてしまって先に進めない。

 それに失敗なら、もう経験済みだ。


 研修の二店舗目、チームワークの良さで有名な店に僕は全く溶け込めなかった。はっきり言えば、ほぼ全員に嫌われていた。

 音楽や映像ソフトも扱う複合店で、若いスタッフが多かった。流行りの音楽にも映画にも興味がない僕は話題が合わず、やる気がないと見做された。同じ店に配属された三川君はすんなり馴染んでいて、彼と比較されたのも僕にとってはキツかった。

 必要なコミュニケーションは取っているつもりでいた。でも、人を傷つけない言い方や、正しい気遣いの方法を知らなかった。

 コミュニケーションがうまく取れなければ、青木さんの言う通り、有る事無い事悪いほうに取られてしまうものだ。気の強い女子フリーターさんに突然キレられたり、一人で黙々とやる単純作業を回されたり、人手不足の他店の応援に飛ばされたりと、お荷物になっていることをひしひしと感じた。

 そんな時、斉藤店長(当時は店長じゃなかった)から偶然、在庫の問い合わせの電話を受けた。そのあと店長は、僕の声に元気がなかったからと、仕事終わりにわざわざ電話を掛けてきてくれた。

 店長は言った。仕事は頼り合いながらするもので、迷ったことやツラいと思ったことを伝えることも仕事に含まれていること。同期でも自分でもいいから頼ってほしいってこと。迷惑をかけると思って何でも飲み込むなってこと。

 書店員になる人の中には、僕みたいに人付き合いが苦手な人も結構いる。その中には自分の仕事だけすればいいやって内に籠る人もいる。でも、僕はそれを治そうとしていた。そのことを店長は知ってくれていた。だから、焦って自分を追い詰めて、ある日突然消えるなんてことにはなって欲しくないって、ちょっと泣きそうな声で言われたものだから僕は吃驚した。

『仕事って、好きなだけじゃだめだよね。一緒に働きたいと思える人がいなきゃ。私にとって大槻くんはそういう人だったけど、きみにとって私はそうじゃなかった? 頼ろうと思えるほどじゃなかった? 私がだめになりそうな時は、私がいい指導をしたって、嘘でもいいから励ましてよ』

 もしかすると、店長の周りでも何人か辞めてしまったのかもしれない。

 この業界は沈みかけの船のようなものだ。好きという気持ちだけが支えだと、誰も口にしないけど、みんなわかっている。だからこそ、薄給で頑張ってくれるスタッフの足手まといにはなりたくないと思っていた。まだ辞めたいとまでは思ってなかったけど。

 僕はそれから、店のみんなに自分のコミュニケーション不足について謝った。状況は変わらなかったけど、何もしないまま日々を過ごすのは嫌だったから、人にモノを伝える上手な方法を観察して真似することを毎日続けた。

 その甲斐あって、次の店からは、馴染むのに時間は掛かってもスタッフに頼ってもらえるようになったと思う。そう思いたい。


 青木さんは僕の失敗談をひたすら黙って聞いていた。そして最後に「なんや、惚れた話か」と、つまらなさそうに呟いた。

「それは置いといて、僕は早く青木さんが社員に上げてもらえたらなって思います。いい会社かっていうと微妙ですが」

「持病持ちのフリーターに頼んなや。あんたが会社良くすんねん。そしたら、あんたがおる間は続けてもええわ」

 いつも通りのキツい言い方。その割に、とても弱々しくて頼りない、自信のなさそうな顔だった。

 なんでそんな顔をするのか。僕は煙草を指に挟んだまま暫く青木さんの顔を見ていた。

「そこで僕が出てくるのはおかしくないですか」

「関西弁って他の土地で聞いたら妙に安心するやん」

 青木さんは肩をすくめると、腕を組んだ。

「はよ店長に告白しいや。傍におれたら十分とか気持ち悪いロマンチックなこと考えてボヤボヤしてたら、すぐ取られてまうで」

「釣り合わないんですよ」

「ほな、さっさとやめとけ」

「やめたくてやめられるもんと違いますよね」

「そういうんがキモいねん。あんた、コンプレックスの塊みたいな奴やもんな。あんな、他人が幸せになってもあんたは不幸にならへんで。他人が不幸になっても、あんたは幸せになられへん」

 肺の奥がチリチリと痛むような気がした。まだそんなに多く吸っていないはずだってのに。

 たしかに兄貴は完全無欠だけど、僕には本と本屋とハイライト・メンソールがある。両親は初孫に夢中になっているから、その間、僕が彼女いない歴=年齢だってことをつついてきたりしない。

 だからどうだっていい。どうだっていいと思い込もうとしてる。

「僕はいま、幸せですよ」

「まー、はよ告白してフラれるんやな。男は三十からやって」

 青木さんは短くなったピアニシモを吸殻捨てに放り込んで、愛車の軽トラに乗って去っていった。


 変な青木さん。いつも変だけど、あんなに真面目なのは変だ。

 だいたい、この片思いの結末がどうなるのかは僕自身が一番よく分かってる。他人に口に出して言われたら現実味が増すじゃないか。

 でも僕は不思議と、青木さんに対して少しも苛立っていなかった。

 明日になれば、青木さんはさっきの横顔なんか嘘だったみたいに、凛々しい顔で舞台に立つのだろう。一方の僕はコンプレックスの塊みたいな顔で舞台に立っているんだろうか? そんなのが嫌だから、ネクタイを締めて煙草を吸って、その辺のサラリーマンを演じてみようとしているのに。

 ほとんどフィルターだけになったハイライトを灰皿に投げ入れて背を向けた。

 するとタイミング悪く、顔や頭にボトボトと太った水滴が落ちてきて、あっという間に豪雨になった。慌てて軒下に入る。

「あ、傘」

 事務室に置き忘れていた。今さら取りに行くのは恥ずかしいけど、一本しかないから明日のためにも取りに行くしかない。

 スカスカの骨組みだけになった風除室をくぐる。朝の会話が、ずっと遠い昔のことみたいに思えた。

「大槻くん。忘れ物」

 ポン、と頭上で傘が開く音がした。振り返ると、なぜかそこに店長がいた。

「もしかしたら、まだ外で一服してるかもと思って見に来たの。間に合ってよかった、また降ってきちゃったね」

「あ、ありがとうございます。まさか外にずっと?」

 青木さんとの話、聞かれてないよな? 店長はニコニコ微笑んでいる。

「ううん、まさか。雨きついから気をつけて帰ってね」

 ふと、店長が川向こうから自転車で通勤していることを思い出した。十時の退勤の頃には雨は収まっているだろうか?

「店長は、自転車で大丈夫ですか?」

「んー、予報だと、いったん弱まるっぽいよね」

 言えよ、僕。車で送りますって。

 もしこれが小説なら、店長は僕に優しく微笑みかけて次の言葉を待ったり促したりしてくれたかもしれない。

 でも現実の店長は、固まっている僕を不思議そうに見てから軒下に入った。

「あの」

「ん?」

「店長、前にストーカーに付き纏われてたんですよね。ここ、バスも少ないですし、良かったら家まで送ります」

「えっ……、ありがと、でもちょうどのバスがあるから大丈夫。大槻くん、君は早くゴハン食べて寝て休まないと」

 笑顔で言われると、それ以上は言えない。

「……そうですね。お先に失礼します」

 僕は頭を下げると、ずぶ濡れになったフィットに乗り込んだ。店長と話している間は感じなかった疲れが、急に重力が戻ってきたみたいに押し寄せる。

 帰るまでが仕事、仕事。エンジンをかけ、ワイパーをオンにする。疲れた後の運転はしんどいけど、僕はけっこうルーチンワークが好きみたいで、車は正しい操作法に従えば機嫌良く走ってくれるから、運転は性に合うみたいだ。

「家までよろしく、フィット」

 ライトを点け、ハンドブレーキを下ろす。ウインカーを点け、ブレーキからアクセルに踏み替え、ハンドルを切る。

 明日こそは平和な一日になりますように。

 ……なんて、呑気に祈っていた僕は、店長が僕と青木さんの会話を盗み聞きしてしまっていたことなんて、ちっとも知らなかったのだった。

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