第41話 一つのアドバンテージ

「――どうして止めたんだ?」


 波止場で海を眺めていた道地君が言った。既に日は落ちて、月の光だけが海面の静かな盛り上がりをぬらぬらと白く染めている。


「まず、僕は暴力には反対だ。相手が<伝道師>とは言え……一応女性だからね。止めに入らないわけにはいかないよ」


 道地君が木戸に向かって殴りかけた時、僕は慌てて道地君を止めに入ったのだった。結局彼の拳が木戸に届くことはなかったが、次の瞬間に聞こえたのは気が狂ったような子供の叫び声だった。


 最初に僕が遭遇した、あの子供だ。あの子が、扉の影に隠れて僕たちの様子を見ていたらしい。それからは木戸も慌てたように子供を宥めに掛かって、話合いはうやむやなうちに終わってしまった。


 そして、外は夜。暗い山中を抜けるわけにも行かないので、仕方なしに僕らはここら辺の家屋を借りて朝、発つことにしたのだった。


「それに、多分木戸を殴ったところで無駄だと思うんだ――そもそも道地君にそんな力があるかも知らないけどね」


 道地君は鼻をふんと鳴らして言った。「悪い奴は取り敢えず殴れば解決するってのが親父の教えでね。しかし、無駄だと何故分かる」


「まず、道地君は勘違いしているようだけど、木戸は<伝道師>であって<ミトリさま>というわけではない」


「じゃあ、一体あいつは――木戸は何だってんだよ? 口振りからすれば、あいつが<ミトリさま>を作った張本人なんだろ」


「それを作るのと、それに為ることは違うんだ」僕は木戸の話を、僕の推測を交えて説明した。「木戸の目的は、<ミトリさま>を作ることだったんだ」


「<ミトリさま>を作る、ねえ」


 道地君は頭をボリボリ掻きむしって言葉を繰り返す。


「そんなことが出来るのか?……いや、実際に出来ているから今があるとして、それじゃあ<ミトリさま>は結局誰なんだ」


 前に義堂君が言っていた。――祈祷や呪いで現実の人間に影響を与えるのなんてのは相当なものなのだ。呪術師にしても、五百年に一人生まれるかどうかといったところだ。しかし、彼はこうも言っていたのだ。


「昔は、村単位で人を集めて祈祷や呪術が行われていたんだってね」


「ああ。……例え呪術師に及ばなくても、ある程度の頭数があれば人を呪うことは不可能じゃない――待てよ?」


義堂君ははっとしたように僕の眼を見た。


「すると――そうなのか? 今の<ミトリさま>っていうのは、そういうこと、だったのか?」


「少なくとも、僕はそう認識している」一つ頷いて続けた。「<ミトリさま>は大量に――少なくとも、あの掲示板に書込をしている能戸の数だけ存在しているんだ。<ミトリさま>の儀式は、実際には<ミトリさま>っていう怨霊を呼び込んでいるわけではない。自分を<ミトリさま>に変えるための儀式、なんだろうね」


 僕が初めて木戸と顔を合わせたとき、彼女は僕のことを<ミトリさま>と言った。彼女は、熱心にもこの村を訪ねてきた能戸であると勘違いしていたのだ。


「ちょ、ちょ、ちょっと……待てよ……」道地君は困惑した様子で目許を抑えた。「じゃあ、……じゃあよ……椎葉や井崎は――一体どれほどの人間に恨まれて――呪われたっていうんだ?」


 そう。この話が正しいとすれば、実際に<ミトリさま>に呪殺されたという人間――椎葉、井崎、結婚直後の新妻――は、相当数の人間から「恨まれた」、「呪われた」ということになる。議員の椎葉は人から恨まれて不思議はないとはいえ、この世界には、それほどの憎悪と悪意が跋扈していた、ということになってしまう。


 これは――恐ろしいことだ。


 <ミトリさま>は世の中に蔓延る悪意を――嫉妬、憎悪、軽蔑、ありとあらゆる悪意の種類に形を与えるシステムなのだ。<ミトリさま>になった能戸は、各々の小さな呪詛を集めて固めて、その対象が善人であれ悪人であれ殺してしまう。


「……だから、無駄だと言ったんだよ。道地君が木戸を殴ったとしても、世の中に散らばった<ミトリさま>の憎悪が消えるわけじゃない。やるんなら、<ミトリさま>の儀式を行った人を片っ端から、徹底的に殴り飛ばさなきゃいけないというわけだ」


「くそが」道地君は苛立ったように地面に靴底を擦った。「それは、不可能だろ。掲示板にいる連中だけでも一体何人いて、どこのどいつなのか検討も付かないんだぜ」


「それだけじゃない。恐らく、これからも<ミトリさま>は増え続ける。これは、言うなれば原始的な知性のネットワークに新たな計算資源が無尽蔵に追加されていくということだ。そうなると、呪殺は急速に……下手をすれば、加速度的に増加していくだろうね。……これは、感染する『呪い』ではなく、感染する『呪術』そのものなんだから」


「……その、悪さの元凶は要するに霊界みたいなネットワークそのものなんだろ。俺はよく分かんないけどよ、ネットワークを壊すことは出来ないのかね」


「それは、もっと現実的じゃないよ。現実のインターネット掲示板と同じようなものさ。ネットワークは単なるインフラ……通信手段でしかない。そこには悪意も実体もないんだから」


 道地君も、そろそろ<ミトリさま>の非破壊性が呑み込めてきたようで、絶望的な顔付きになってきた。


「それじゃあ、<ミトリさま>を止める手段は、存在しない――のかよ」


「いや、まあ、あるんだけどね」


 僕は目の前の男がずっこける所を見た。これほど見事なずっこけは、生まれて初めてだ。「――あるんかいっ!」という典型的なずっこけワードまでおまけで付いてくる。


「そりゃ、あるよ。インターネットというものが世の中に誕生して、急速に発展して、一体どれだけの歴史を積んできたと思ってるのさ」


 それはあらゆる攻撃手段と防衛手段のイタチごっこの歴史でもある。ソフトウェアの脆弱性を突いたクラッキング行為に始まり、コンピュータウイルスの拡散、標的型攻撃、システムの最大の脆弱性と言われる人間の心理を突いたフィッシング――それらの攻撃手段は、何だかんだ言っても対策され続けてきたのだ。ソフトウェアはアップデートされるし、ウイルスは検知・駆除されるし、不正な通信にはアラートが発砲されるし、通信経路はより秘匿性が高く安全なものに差し替えられてきたのだ。……まあ、未だにフィッシングに有効な対策はないにせよ、だ。ともかく、インターネットは何だかんだで一定の安全性は保たれ続けてきたのだ。


「……それに、僕たちには一つだけアドバンテージがある」


「アドバンテージ?」


「木戸は――僕が元ハッカーであることを知らない。仮に霊界と呼ばれるものがネットワークであるなら、僕が霊界をクラックする」

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