第16話 倫理のライン

「そして、町から帰ってきた看護師を迎えたのは、谷底の夫の死体と、態度が豹変した村人たちだった。脱北者なんて、どんなトラブルの火種になるかわかったものじゃない。詳細は語られていないが、その後看護婦は村を追われて姿を消した。それからしばらくして、村人たちの間で妙な風説が流れたんだ」

 

「風説?」


 僕は、猪口に注がれた冷たい日本酒をぐっと飲み干した。熱い手応えが喉から鳩尾に流れる。


「――黒い何かがが見えるそうだ。初めのうちは、船から望む遠い海の上や、家の窓から見る山林の、木々の間にそれが見える。見え方は人それぞれではあるみたいだけど、目撃談を総合すると、どうやら人影だとか、視界の滲みのようなものではない。……こう表現して良いのか分からないけど、大きな黒い靴下を人に被せたような感じらしい」


「はあ?」


「だから、……黒くて大きな靴下を人に被せた感じなんだって。要は、全く実体のない影とかじゃなくて、もこもこした表面の、黒い人の形をしたものが太陽や月の光に照らされてぐねぐねのたうち回っているそうだ」

 

 これは僕が秋葉から聞いたままだ。


 道地君は、首を巡らして「そりゃあ、確かに黒い何か、としか言いようがないな。先が読めたぜ。その黒い影を見た人間に不幸が訪れる。そういうことだろ?」と言う。


「というか、亡くなるらしい。……ここまで来ると、うさんくさいような気がするけどね。家の窓から山の中に黒い影を見るようになると、次には畑のあぜ道、向かいの家の軒下と、段々と近づいてくるみたいだよ」


 その時、カウンターの向こうから枯れ木のような腕が伸びてきた。何かと思ったら寡黙な店主だ。刺身を盛った皿が、僕たちの前に置かれる。


「……来るのか」


「うん」


 言葉は少ないが、道地君の言わんとしていることは分かる。


 あの、横転する直前のバスで、亡くなったお婆さんが言った「来る」という言葉。


 もしかしたら、あの時、お婆さんには例の<黒い何か>が見えていたのではないか?……それも、極近い所――バスの車内に。


「けどよ、冷静に考えてみると、その<ミトリさま>と事件との接点なんて合って無いようなもんだぜ。聞いてみりゃ、椎葉の名前が一度出たから、ってだけなんだろ? ニッチな奇談を蒐集するのは結構だが、全く関係ないってこともあるぜ……」


 思案深げに呟いた。


 道地君の心配は尤もだ。


 全く手がかりのない事件の中で唯一見つかった接点が、うさんくさい都市伝説というのだから彼の心配は当然だ。それに、道地君はあくまで仕事としてこの事件を解決しなければならない。


 だが、僕は違う。


「確かにそうだけど、……でもね、気になるんだよ。単純に」


「興味本位かよ。ま、万が一、そのオカルト信者が今回の事件と関係無いとは限らないが……。それにしても、どうするつもりなんだ? 連中にアプローチするにしても、相手は匿名掲示板――それも、だ、だ、だーくうぇびゅ? なんだろ。普通の掲示板より相手は手強そうだぜ」


「ダークウェブ、ね。……まあ、何てことはないよ。<ミトリさま>は北海道の話だし。あの掲示板の利用者は殆どが道の人間だろう。それに、道議員の椎葉が話題に出たことからも、札幌住まいであの掲示板に出入りしている人間は少なくないと思うんだ。だいたいああいう掲示板の口コミは都市の方が出回るからね」


 僕がそう説明しても、道地君は腑に落ちないように首を傾げて、僕の方に体を向けた。


「いや。まあそりゃあ札幌の人間は多いだろうけどよ。結局相手の素性が分からないんじゃあ直接連絡を取ることも出来ないし、直接会うなんて、それこそ――不可能だろ?」


 僕は思わず苦笑した。道地君がそう思うのも無理はない。


「インターネットの世界で、やろうと思ってやれないことは殆ど無いんだよ。何より、僕は元ハッカーだしね」


「馬鹿野郎ッ!」


 突然道地君が低い声で唸った。


「犯罪歴を自慢するなんてつまらんチンピラみたいな真似を、俺の前でするんじゃねえ」


「別にそういうわけじゃ……。ただ、僕は普通の人が使わないような手段が使える、というだけの話だよ」


「犯罪じゃないだろうな?」


「当たり前だよ。僕は道地君に逮捕されるなんてごめんだからね」


「なら良いが……」


 インターネットで犯罪、もしくは犯罪すれすれの行動を起こす場合、気を付けなければならないのは四つ。一つは不正アクセス禁止法だ。これは簡単に言えば所有者の了解もなく他人の端末にアクセスすること。何もインターネットを介したものでなくても、机の上に置き忘れている端末を勝手に操作する、ということでも法に違反する場合がある。


 そして、次に考えられるのが電子計算機使用詐欺罪、電子計算機損壊等業務妨害罪。この二つは、不正アクセスの後に行うアクションによって付いてくると考えればイメージが付きやすい。他人の端末を不正に操作して、データを使用する・削除するという操作だ。

 実際には、不正アクセスなどしなくてもデータを弄れることも多いのだが。


 そして、最後に詐欺罪。これは別にサイバー犯罪に限ったものでもないが、インターネットが普及して爆発的に増加した犯罪の一つだ。


 まあ、他にも色々細かいのはあるだろうが……。


 重要なことは、一般的な人々はこれらの罪を無意識に恐れ、過剰な倫理観に行動を制限されているということ。


 罪を知り、ラインを見極めることで、安心して倫理のラインを踏み越えることが出来る、ということ。


「というわけで、スピアフィッシングをする積もりだ」

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