職業問答

 プリンセスの王女として稀有なところといえば、まずは人との付き合い方であった。

 それは例えば、言葉遣いである。彼女は王女という並ぶ者のなき高貴な身分になったからといって少しもその地位に毒されることなく、人に対する敬意と謙譲を忘れることがなかった。義母で女王たるマリエッタに対しては無論、義妹のカロリーナや近衛兵に対してすら、敬語を欠かしたことはない。彼女が敬語を省略するのは、エミリアに対してだけで、それも二人きりのときだけであるという暗黙の約束がある。

 人との関わりについてで言えば、言葉遣い以外にも、その対象や関わり方を限定しないという点もある。貴人は、そうでない人々に対しては容易に言葉をかけないものである。女王が公務以外で、女官や近衛兵に親しく話すことなどしない。仕える者に対しては命令するだけでよいのである。要するに道具に対してするような扱いをすればよく、個人的な関係などは生まれようがない。むしろ主従の枠を超えた親愛や信頼は身分秩序を乱すもとになるため、帝王学においては忌避されるのが常である。

 だが、プリンセスはそうした枠を飛び越えることが多かった。

 その代表的な事例が、「職業問答」と呼ばれる一連の逸話に含まれている。

 王宮レユニオンパレスには、多くの近衛兵が仕えており、その全員が王宮内に住み込みで勤務している。そのほとんどが近衛兵団の宿舎を拠点とし、エミリアやごく一部の幹部のみ王族とともにメインパレスに居住している。階級は兵団長、副兵団長、千人長、百人長、十人長、伍長、一般兵となっており、百人長以上は女王と王女に近い役職であることから女性が務めるべきものとされている。

 一般兵のなかでもある程度の序列があり、例えば女王を警護し、かつ戦時は本営の中核要員となる旗本は、序列が高い。また貴賓の目に触れる儀仗兵なども、当然ながら一般兵としては格が高いと言える。

 その逆に、調達番や飼育番と呼ばれる一般兵は、格が低いとされている。調達番は王宮内の物資の調達や保全、倉庫の管理をする仕事であり、飼育番は飼われている馬やロバ、ポニー、犬やウサギといった動物たちの世話係である。いずれも扱いは悲惨なほどで、王族や貴族は言うに及ばず、多くの身分ある者や役職者に対して直接に話す権利がない。明文化はされていないものの、無言のうちにそういった住み分けがされているのだ。

 その調達番に、ビセンテという男がいる。年齢はこのとき40を過ぎている。この時代の感覚では、すでに壮年の峠を超えた初老の域である。

 が、この男はなかなかに頑健で、同じ調達番の若者たちに交じって立ち働くことには少しの見劣りもない。何よりも勤勉であった。彼は20歳のみぎりより近衛兵を務め、以来ずっと調達番であった。重い荷物を担ぎ、夏の暑い日も冬の寒い日も働き、一度も体を壊したことがなく、一日たりとも休まなかった。来る日も来る日も、彼はただ黙々と荷物をあちらからこちらへと運ぶ。

 近衛兵団のなかでは最古参の部類だが、彼が出世もできず、帯剣も許されず、近衛兵ながら卑賤ひせんの身分のように扱われるのは、無学で文字や計算に不自由があることと、異様に無口であることであった。体力があり、不平を言わずに勤勉に働ける、そうした長所を買われて近衛兵が務まっている。その求められている存在意義はさながら牛馬家畜のようでもある。

 だから、誰にも尊敬されなかった。その名前を聞くたび、誰もがせせら笑った。ひどい者は、彼を公然と「牛」と呼び、雑務を押し付けていった。

 彼は文句を言わない。ただ、牛の扱いを受け入れるだけであった。

 そのような彼は、いつも荷物運びの仕事を与えられている関係で、王宮のあちこちに現れる。当然、プリンセスの目にも触れることとなった。

 プリンセスが初めてビセンテを見たのは、彼女が王宮の住人となってから5日目である。グラスや食器などの入った箱を抱え歩いているところへ、プリンセスが通りかかった。

「こんにちは!」

 プリンセスは躊躇なく近寄って、声をかけた。この時点でプリンセスが養女となった件はまだ公にされておらず、当然、ビセンテも少女の正体を知るよしとてなかったが、いずれにしても彼のような身分からすれば宮廷人は会話すらはばかられる貴人である。

 慌てて荷物を下ろし、黙って片膝をつき、こうべを垂れた。

「何を運んでいるのですか?」

 ビセンテは動揺した。これまで王宮を歩く貴族や貴賓に、そのようなことを聞かれたことは一度もなかったのである。というより、話しかけられたこともない。

 動揺しつつも、沈黙したままでいるのも無礼なので、彼は重い口を開いた。

「これは王宮で使われるグラスや食器でございます」

「重い荷物を運んでくださってるんですね。ありがとうございます」

 は、と思わず目線を上げそうになり、こらえて、足元の床を見た。

 宮殿のどこかに、ビセンテはいる。三日に一度ほどは、プリンセスと行き合った。その都度、プリンセスは荷物の中身を尋ねた。そして回答を得るたび、プリンセスは礼を言った。主人や客人が使用人に対し、その役目を果たしていることについて礼を言うという習慣は、宮廷にはない。

 プリンセスが、カロリーナ王女とともに王女として正式に布告されると、当然、近衛兵団内にその扱いについて通達された。今後、プリンセスとカロリーナ王女に対しては、女王も同然の接遇を守るように、と。

 だがビセンテの側がいかに恐縮し礼を尽くそうとも、プリンセスは何ら自重することなく、気さくに話しかけた。いつも、運んでいる荷物について尋ねる。什器、衣装、武具、食料、ワイン、家具や雑貨、様々なものを運搬している。ビセンテは問われるまま、ぼそぼそと荷物の中身を答える。プリンセスはたいてい、重ねて関連する質問を投げかける。

 エミリアは、この奇妙な交流について、特に止めるでもなく、いさめるでもなく、無言でいた。王女たる身分の者が、最下級の近衛兵にこうも頻繁に声をかけるのは、身分秩序を保つ上で好ましくない。一般的にはそうだが、女王としてはなるべくプリンセスの自由に過ごさせてやりたい、という方針があるようなので、この件に介入しようとはしなかった。

 やがてプリンセスは、ビセンテの仕事を手伝うと言い出した。運搬用の荷車を押して、自分も荷物運びを始めてしまった。

 プリンセスがずいぶんと楽しそうにしているので、エミリアはなおもその姿を見守るのみであったが、この異様な光景はすぐに見かけた別の近衛兵から、近衛兵団副団長のレジーナのもとへと通報された。

 レジーナは兵団長のブランシュとはおよそ対照的な性格で、謹厳実直にして質実剛健、わずかな誤りも必ず追及し正さねば気がすまないところがある。プリンセスがビセンテ近衛兵に頻繁に話しかけ、しかも荷運びの真似ごとまでしていると聞いて、彼女は由々しき事態であると思った。第一王女が王宮で下級近衛兵と肩を並べて働いているというのは、到底、彼女の秩序意識の許すところではない。

 レジーナはプリンセスの警護と宮廷生活に責任のある身として、善意でもって直接の諌言かんげんを試みた。必要があれば、彼女はプリンセスに対して意見を言う権限がある。

「プリンセス、臣民や兵卒に慕われることは重要ですが、近づきすぎると王室の権威に関わります。調達係などは卑賤のお役目。どうかご自重ください」

 プリンセスは不快というよりは不思議そうな表情を浮かべた。首を横に傾けて、得心のいかぬ様子を示している。

「荷物運びは卑しいお仕事なのですか?」

「職業は、身分です。政治を行う者、神官になる者、教師になる者、畑を耕す者、商いをする者、人の家の洗濯や汚物の始末をする者。それぞれの職業が階級として機能し、秩序を保っているのです。階級を飛び越える交わりが多ければ、この秩序が崩れる恐れが」

 レジーナの言うことは、この時代にあっては当然の、至極真っ当な論理であった。教国では女王がおり、王女がおり、貴族がいて、あとは平民がいる。だが貴族のなか、あるいは平民のなかにも多少のグラデーションはありつつ、レジーナの述べたような身分格差が厳然として存在する。政治家や教師を務める平民は、汚物を片付ける者よりも人の尊敬や信頼を得られるであろう。そうした身分の違いこそが、すなわち社会と王朝の安定に寄与している。王女たる者が近衛兵団の末端に連なる荷物運びに親しく声をかけ、あまつさえその手伝いに及ぶなどは、身分社会という国家の土台に自らひびを入れるようなものであろう。

 しかし、プリンセスはなおも首をかしげている。

「それはおかしいです」

「は……?」

「仕事は、人が能力と希望に応じて自由に選択し往き来できるようにした方が、世の中はよくなると思います。それに誰もが自分の仕事に誇りを持っていいはずで、人の仕事を蔑むことも、自分の仕事を蔑まれることもありません。お互いを尊重し、お互いの仕事に敬意を持つのがよくないことですか?」

 レジーナは絶句した。プリンセスの反論はなるほど人間という生き物の摂理に照らして考えれば、充分に理がある。だが当世、平等という概念は存在しないのである。もし人と人が平等であるなら、そもそも身分などというものは存在しない。逆説的には、身分があるということはすなわち、その世界に平等などという論理は成立しえないであろう。人と人との平等をよしとするのであれば、まず王が民衆の上に立ち、民衆の生殺与奪の権利を得ているその体制から破壊しなければならない。絶対王政における平等論者とは、革命分子とほぼ同義になる。

 だが、プリンセスの発言はある種、この平等の概念を言語化したに近い。少なくとも、職業による身分差別を否定している。荷物運びをする者が差別されぬ世の中が正しい、という考え方は、その根底にある思想を拡大し発展させてゆくところ、やがては王政の否定という発想につながるであろう。

 危険極まりない。

 そうした危機感のもと、レジーナはありのままをマリエッタ女王に報告した。レジーナは女王のプリンセスに対する寵愛を知っているだけに、かろうじて口には出さなかったが、プリンセスの王女としての資質には小さくない疑問を持っている。その底には、やはり平民出身の王女だ、というぬぐいきれない差別的な蔑視が潜んでいる。確かに貴族出の王女、例えばカロリーナ王女であれば、荷物運びの仕事をさげすむのはおかしい、などとは間違っても言い出さないであろう。カロリーナは押しも押されもせぬ侯爵家の正統な令嬢であり、平民の労働と負担と奉仕によって編まれた毛布に包まれ育ってきた。そのような出自の者が、現在の身分制社会のありように疑義を抱き、自らの地位や権威を揺るがせにするような行動をとるはずがない。

 その点、プリンセスは平民の家庭に生まれ、孤児院で拾われて一躍、王女となった。だから、宮廷と宮廷外とを問わず社会をあまねく支配している身分格差というものに違和感を持つのであろう。

 女王の物好きによって抜きん出られ、プリンセスと呼ばれてはいるが、所詮、平民は平民である。血は争えないものだ。

 レジーナはそこまで言わなかったにしても、言外に含ませつつ、今後もプリンセスを名乗らせるのならば身分の何たるかを教示する必要があることと、さらにエミリアの解任も考えるべきだと主張した。プリンセスの補佐役ならば、誤った行動を正すことがあるべき忠誠というに、荷物運びをする様子をただ黙って見ていたというではないか。そのような補佐役など無用である、交代も検討してしかるべきだと言った。

 一方、マリエッタ女王も愚かではない。レジーナの意見も頭では理解できる。だがそれ以上に彼女が重視したのは、レジーナがプリンセスのその資質に疑問を呈したというその点であった。プリンセスはマリエッタにとって我が腹を痛めた娘ではないが、それでも近頃は自分自身よりもいとおしいほどにこの養女を愛しきっている。

 マリエッタは不興を顔色に出し、しばらく黙った。彼女はもともとが人との衝突を嫌う性格で、臣下の意見に対しても、それがどれほど愚かな提案であっても熟慮を重ねるところがある。ただし、ことプリンセスに関する件となると、まるで別人のようにその人柄の切れ味が鋭くなる。

 ようやく口を開いた。

「エミリアを呼びなさい」

「承知しました」

 解任を通告するか、あるいはお咎めがあることを期待しつつ、レジーナはエミリアを呼んだ。

 しかし、実際にマリエッタ女王が口にした言葉は、レジーナの予想を大きく裏切るものであった。

「エミリアよ、余はあなたの働きに満足している。そして改めて命じる。プリンセスの好きなようにさせてやりなさい。そしてプリンセスを見守るも諫めるも、あなたの判断で行ってよい」

 レジーナの言い分は無視された。彼女の進言は完全にしりぞけられたのである。問題の焦点としたプリンセスの言動もエミリアの資格も、女王からは一切の言及がなかった。女王のプリンセスに対する愛情は、すでに彼女のごとき者が口を挟めるような程度をはるかに超えていたのである。

 マリエッタはこの際、宮廷の内外に、プリンセスがこの国においていかに尊貴でいかに特別な存在であるかを、女王の権威によって知らしめることを決意した。一部ではプリンセスとカロリーナは同格であり、同格だからこそ比較して、カロリーナ王女こそ第一王女たるにふさわしい、と考える者さえいるという。

 そういった連中に、はっきりと思い知らせる必要がある。

 マリエッタは信頼する近衛兵団長ブランシュを呼び、密談して、少しの知恵をらした。

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