3.約束のカケラ —謎—-2

 灯台に火を入れた後、彼女は桟橋を進む。

 月のない暗い夜。

 もう黄昏の気配は消えて、グラデーションを引きずって、夜の色に染まった空には星が輝く。

 汚染された海を望むその場所は、人気もなく寂しいが、夜には星空が広がり、底知れぬ黒い海は、えも言われぬ神秘的な美しさをたたえていた。

 魔女の衣装を引きずりながら桟橋に辿り着くと、ウィステリアは歌を歌う。

 前任のマルチアがどうしていたのか、引き継がれていないからわからないが、灯台の火だけでは泥の獣は鎮められない。

 彼女の場合は、"歌う"。

 彼女の声には、悪意ある泥を鎮める力がある。

 艶やかな声を響かせていても、生き物すらすまぬそこでその素晴らしい歌を聞くのは、穢れた汚泥だけだったが、彼女は全身全霊をこめて歌う。

 そうすると、荒ぶる海が静まりかえる。

 人気のない桟橋。

 満天の星空。

 黒く澱んだ海。

 ときおりそれを照らす聖なる灯台。

 魔女の彼女のすんだ声が、夜の気配を漂わせた空気に響きわたる。


 一通り歌い終えると、彼女は息をついた。

 海はやはり静まり返り、穏やかだ。汚泥や囚人達が現れ、荒れる気配はない。

「ふう。今日も大丈夫みたいね」

 ウィステリアはグリシネからの通信を思い出す。追加でメールが来ていて、新月の夜はことさら危険なので十分に留意せよ、との命令が来ていた。

「確かに新月の夜は、もっと彼らの活動的だったと聞いたけれど、あたしが来てからあんまり荒れてないのよね」

 ウィステリアは小首を傾げた。

 ヤヨイ・マルチアが失踪した後、守りのなくなったこの海は荒れに荒れ、泥の獣の襲撃を受けていたらしい。しかし、彼女が歌い始めてからは、もっぱら静かだった。

 わからない。グリシネが、話を盛っているだけかもしれない。彼女はまじめだが、慎重すぎるきらいもある。

(グリシネは、データだけで、実際、この海を見ているわけじゃあないからなあ)

 ふと息をついて、彼女が踵を返そうとした時、突如、海面がぶくぶくと泡立った。

 は、とウィステリアが身構える。

 彼女の鎮静が効かない相手もたまにいる。そして概してそれは大物なのだ。

 そういう相手は逆に歌に刺激されて、攻撃的になることもある。

「ちっ!」

 ウィステリアは、腰の、対囚人用の銃弾を込めた銃に手を伸ばし、海面に撃ち放った。ぎゃああっと悲鳴のような音が上がり、黒い破片が飛び散った。

 ウィステリアはそのまま灯台の方へと走る。今ので仕留めたとも思えない。桟橋から離れて宿舎の方まで行けば、彼等が嫌うもっと強いショックを使える。

 とにかく、この場を離れなければ!

「さっきまで、あんなに穏やかだったのに! どこからっ!」

 と、その時、目の前の桟橋が、突然下から突き上げられて崩壊した。

 黒い、八つの目を持つ、三メートルほどの蜘蛛のなりそこないのようなものが、黒い液体を撒き散らしながら現れた。

「なんてこと! こんなやつが出るなんて聞いていないわ!」

 ウィステリアは戦闘訓練を修了していたが、流石にこのサイズは対処できない。

 ウィステリアはグリシネに連絡を取る為、通信用端末に手を伸ばした。

 自分を助けてくれるかわからないが、グリシネだって強い獣の襲撃には対応する。居住区への侵入はもっとも避けるべきだからだ。うまくすると護衛の白騎士を派遣してくれる。

 しかし、蜘蛛の獣が、さらに桟橋を壊しながら迫ってきた。その破片がウィステリアの手に当たり、その勢いで後ろに倒れ込む。銃と端末がこぼれ落ちた。

「しまった!」

 ウィステリアは慌てて銃だけでも拾おうとしたが、蜘蛛型の囚人が銃と彼女の間に飛んできて立ちはだかる。

 その真っ黒な、虚無のような瞳と目が合った。

 飲み込まれると光も拝めないような、真っ黒な闇。

 ぞわ、と彼女は全身が総毛だつのを感じた。反射的にペンダントトップを握りしめる、

(ネザアスさん!)

 助けも来るはずがないのに、何故か不思議といないはずの彼に縋ってしまう。

 と、その時、目の前に黒い影が踊った。

 それが噛み付くように突然蜘蛛の獣にかぶさる。鋭い刃物状の形状を持つ腕が蜘蛛を引き裂く。

 獣は元の汚泥に返り、びちびちと水面に破片を飛ばした。

 黒い影は容赦なく、蜘蛛の獣に追撃し、首筋に刃を走らせて噛みちぎり、海に蹴落とした。

 大きな飛沫が立ち、やがて泡とともに真っ黒な海に沈んでいく。

 ウィステリアは息を飲んだ。

 今度は代わりにその黒い影が彼女の前に立ちはだかっている。

 蜘蛛を襲った黒いものも、また泥の獣に他ならないようだった。

 人型になりきれない、不定型な虫みたいな細い体から、海水と黒いものが流れていた。

 その黒いものはひとつだけ大きな目があって、軽くそれを瞬いた。瞳の色は、燃え上がるような、夕日のような赤にも見える。

 はー、と呼吸音のようなものが聞こえる。

 座り込んだウィステリアが、恐怖の視線を向ける。

「あ……ア」

 ふと、目の前の泥の怪物が声を立てた。

 割れた不協和音のような音だが、それがぎこちなく言葉を紡ぎ、隠すように顔を覆った。かろうじて人のような姿だったのが、ぬるりと溶けてスライムのような不定形になる。

「す、すまナかッタ。コンな醜い姿ヲみせるツモりはなかったノダ」

 と、その黒い怪物は目を逸らした。

「そノ、おマえが、ようやク、モドッテきたのをシッて、見ていルだけノつもリダった。おレは、このとオリ醜いカラ、オまえをオビえさせテしまう。けれド、アイつが、おまエを食おうトシていタから、慌てテ。ツい」

 ウィステリアは目を瞬かせた。

(獣が口をきいた?)

 彼女はこんな泥の獣が話すのを、聞いたのは初めてだった。

 いや、まだ感染したてのものや、惑わすように人の声を真似るものはいるが。しかし、目の前の怪物はどちらでもなさそうだった。

 声こそ歪み、潰れているので聞き取りづらいが、それが話しているのは紛れもなく人間の言葉だった。

「コの桟橋ハ、アブなイ。何人もノ灯台モリガ食われテイル。それデ、おレは、お前ニ危険ガないヨウにと見ていタ。今日、新月。暗い夜ハ、コトサラ危なイ。でも、人魚ノ歌、綺麗デ、一瞬眠ってテ、アイツの侵入許しテしまっタ」

「お、お前」

 身を起こしてウィステリアは尋ねた。

「お前、言葉が話せるの? 囚人プリズナーじゃないの? お前は、ここにいたの?」

「ぷリズな? ナンのコトカは知らヌが、オれは、ズっとここにすんデいた」

「どうして海の中に潜んでいたの?」

「そ、そレは……」

 ウィステリアにきかれて、怪物は戸惑ったが、ぽつぽつと話した。

「おマえを近くデミタかったガ、コンな姿でハコワがらセてシマうから。悪イと思ったガ、隠れてタ」

 怪物は嘆くように俯いた。

「灯台ニ、ウツクしイ人魚ガいるノ見てカラ、トキどき、遠くから」

(ああ、そうか)

 ウィステリアは思い当たって、内心ため息をついた。

(こいつ、目が悪いのね。あたしとマルチアの区別がついていない。きっと、コイツがいうの、マルチアのことだわ)

 マルチアは、人魚姫と呼ばれていた、美しい魔女だった。きっと彼が言うのは、マルチアのことなのだ。

 ウィステリアは少し落胆した気持ちになったが、それを隠して礼を述べた。

「そうなのね。あたしを助けてくれたの。ありがとう」

 じっと、怪物はウィステリアを見やる。

「どうしたの?」

「イや、その」

 怪物は俯く。

「お前、キレイな声ダカラ……。歌ズッと聞いてタ」

 きょとんとすると、彼はそろそろと告げる。

「デモ、おレはこんなニ醜い。月ノヨルは、スガタがみえル。だカラ、月ノないヨルに、こうして見ニきていタ。お前ハ、歌を歌ウカら。今日ハ、おレの好きナ歌デ、モット聴きたクテ。それデ近づキスギた」

 怪物はため息をつく。

「人魚ハ唄ウ聞いてタ。オれ、オマえの歌、ずっトききたかッタ。きけテ良かっタ」

 怪物は悲しげに海に戻ろうとする。

「デモ、ここ来るノ、もうコレで最後ニする。オれは声モ穢れテいるカラ。オマえに嫌わレたくない」

「あ、待って!」

 ウィステリアは慌てて呼び止めた。

「い、いいのよ。あたし、お前が怖いわけではないの。ここにいて」

 怪物は動きを止めて、目を瞬かせた。

「お前のこと、嫌いにならないわ。もう少しいてくれる?」

「嫌イにナラなイ? おレ、コわクなイ?」

「ええ。あたしは、灯台守の魔女だから。お前たちはそれほど怖くはないの。あなた、あたしの歌を聞いてくれたのでしょう?」

 ウィステリアの様子を、そっと彼は伺っている。

「あのね、ここにはあたしの他は誰もいないのよ。歌は誰もきいてくれてないと思っていて。それで、あたしも少し寂しかったの。でも、あなたが、聴いてくれているなら嬉しいわ」

(何言ってるんだろう?)

 相手は汚泥の怪物なのに。

 それなのに、何故かウィステリアは彼を引き留めている。

「もう少し、付き合ってくれる?」

 怪物は一つの目を瞬かせ、ずるりと桟橋の上に上がる。

「ここ、イテもヨい?」

「ええ」

「ホント? イテもヨイのカ?」

 ええ、と彼女は頷いた。

「一人で寂しいし、さっきの後で怖いのよ。一緒にいて、くれるかしら?」

 怪物は目を瞬かせて、おそるおそるウィステリアの隣にやってきた。ふよふよしたウミウシかヒラムシといったような、漆黒の闇を思わせる存在だ。

 そして、彼女には、彼が黒物質ブラック・マテリアルでできていることがわかる。ただ、全く悪意を感じない。

(こいつ、普通の囚人プリズナーじゃない。黒物質ブラック・マテリアルの塊に違いないけれど、囚人でも汚泥でもないみたい)

 強いてわかることは、彼が、囚人、つまり泥の獣の一種であるということだ。だが、普通、こんな理性のある獣はいない。

 会話ができる相手なんて。

 ウィステリアは、その隣に腰掛けた。

(だとしたら、こいつは、一体、何?)

「オマえは」

 思考を巡らせていると、怪物がおそるおそる言った。

「どうしたの?」

 ふと怪物の大きな一つの目が細められた。笑ったのかもしれない。

 その笑顔とも言えない表情に、なぜか既視感を感じた。妙に懐かしい。

「おレは目が悪い。今までヨクみえてイなかっタ。おまエは、ズット綺麗だと思っテいたガ、チカクでみた方ガ綺麗なのダな」

 思わず、ウィステリアは頰が上気するのを感じた。

 彼女は魔女だ。存在は忌まれていても、当たり前のように美しく、見映えだけは褒められる。こんなおべっかは聞き慣れている。

 それなのに、たったこの一言で。

 相手は、こんな姿の汚泥の怪物。しかも彼は自分をマルチアだと勘違いしているはず。なのに。

(なんの気の迷い? あたしらしくない)

 ウィステリアは熱い頬に両手を当てた。

(ただ、あたしはこの島で感傷的になっているだけだわ)

「サっキの、モット聴いテみたイ。ヨい?」

 不意に怪物が話しかけてきた。彼は目を細めて微笑む。

「あレ、オれ、とても好キ」

 ウィステリアは動揺を悟られないように、そっと胸のペンダントトップに手をかける。

「いいわよ。さっきの、助けてもらったお礼に、歌ってあげるわね」

 ウィステリアがそういうと、怪物は隣でそっと目を細めた。

 ウィステリアには、その謎めいた怪物が、何故か好ましい気がした。


 人気のない桟橋。

 満天の星空。

 黒く澱んだ海。

 ときおりそれを照らす聖なる灯台。

 歌う魔女。

 そして、それに寄り添う漆黒の不定形の獣。

 

 透き通った歌声が響き渡る。

 

 そうして、歌に呼ばれて、ひび割れて沈んだ古い約束が、ゆっくりと海の上に浮上することを、まだ誰も知らなかった。

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