灯台守と鯨の夢

空烏 有架(カラクロアリカ)

01---珊瑚と水母---

 形は三角、色は褪せた朱。掲げてみればかすかに向こうが透ける。

 一枚の布切れを手に、私は今日も海へ行く。



 かれこれ二十年ほど前のことだ。もうそんなになるかと嘆息したくなるのはさておいて、私もかつては夢多き学生わかものであった。丘の上に見える校舎は今より一回りは小さく、制服は男女ともに上下つまらぬ灰色で、模様ひとつ入っていなかった。

 女生徒のみに許された唯一の差し色が、この朱色のタイだ。

 ともかく我々は多感で青臭い人生の春を、ほとんどが無味無臭の灰色に包まれて過ごした。そのころ出逢ったのが彼女である――名前は、思い出せない。


 もともと彼女と私に接点はなかった。私はあの日たまたま、くさくさした気分を宥めるために海岸をほっつき歩いていた。不機嫌の原因は覚えていないが、思春期によくある無用な気遣い疲れとかその辺だろう、たしか。

 砂浜の先にそびえ立つ白亜の塔は、当時すでに百年以上の歴史があると郷土史の授業で聞かされていた。夜も煌々と彼方の海原を照らす海辺の守りびと、灯台はこの町の象徴シンボルであり、ここに生まれ育った私もほぼ無条件に親愛の情を抱いている。

 その根元、岩礁地帯のごつごつした黒い岩のところに彼女は腰掛けていた。打ち寄せる波が制服のスカートを濡らしていても気にするそぶりはなく、また背後から近づく私にも気づかぬようで、じっと一心に空の彼方を見つめている。


 すこぶる機嫌の悪かった私は、初対面の彼女に挨拶もしなかった。制服を着ているから同じ学校に通う生徒なのだとだけ理解し、己の不快を無関係な彼女に押し付けるように、刺々しい声でその鼓膜を殴りつけた。


「何してんの」


 潮風に揉まれて黒髪が揺れる。校則に従って頭頂でひと塊にまとめられたそこに、細い珊瑚の死体がかんざしのように刺してあった。

 苛立ちも露わな私の声にも彼女は頓着せず、空を眺める目も逸らさないまま、ぽつりと返す。


「星を見てるの……」

「……昼間に? 何も見えないけど」

「見えないから、見てるの」

「はあ?」


 しつこいようだが私は不機嫌な加害者だった。彼女にはなんの咎もないと知っていたが、あまりにも掴みどころのない言動に嫌気が差して、むらむらと悪い感情が込み上げてきた。

 どこの学級クラスの誰とも知らないが、それはあちらも同じ。まして向こうはこちらの顔も見ていないのだから、今ここで何をしようと責められる謂れはない、誰かわからない相手を訴えることなどできるまい。

 何しろ私たちは一様に灰色に塗りつぶされ、髪型も持ち物もすべてが揃えられ、客観的な区別のない無個性であるよう強要されている――誰に? いや、それはどうだっていい。大事なのは私が彼女にとって特定の個人ではないということだ。


 前置きが長くなったが、私は彼女の襟元からタイを抜き去った。さすがに目の前の海に突き落とすほど落ちぶれてはいなかった。なけなしの善意という意味ではなく、水面の下にも尖った岩が山ほどあることや、そこに人を落としたらどうなるかくらいは想像がついたからだ。

 それにタイを留めるのは襟の下の小さな輪であったから、解いて奪うのは造作もない。余談だが、タイ盗りは当時の学生にとってはありふれた悪戯のひとつだった。

 風に遊ばれてひらめいた朱色を、私はなんとなく美しいと思った。

 あるいは閉塞感に潰れたちっぽけな自尊心プライドをくだらぬ嫌がらせで慰めただけだったろう。そんな私の幼稚を諌めたのは思いもよらぬ異様だった。彼女はか細い悲鳴をあげて、その場にのだ。

 さながらそれは、解けたタイのごとく……。


 今度は私が悲鳴する番だ。今の今まで人の形をしていたものが寒天ゼリーのような不安定な軟体へと変わり、ぐじぐじゅと絶えずその身を重力になぶられながら、そのとろけた手指をこちらに伸ばしてきたのだから!

 私は逃げようとしたが、慌てるあまり足元が不安定な岩礁であるのを忘れていた。容易に踏み外したあとは、真下の尖りすました黒々しい岩へと身を投げたも同然で、当たりどころが悪ければ死んでもおかしくなかったろうし、良くても一生涯を病院の寝台で過ごす羽目になろう。

 けれども実際はこのとおり、今に残るような傷もない。

 なぜなら彼女がその柔らかい身体でもって、私をぬるりと包み抱いてくれたからだ。あのなんとも言えない感触だけはよく覚えている。よく砂浜に水母くらげの死体が落ちているけれども、あれが人ほどの大きさであったなら、近しい体験ができるのではなかろうか?

 ぶにゅる、と表現し難い擬音を伴って私を受け止めた彼女は、そのままずるずると灯台の方へ這っていった。一方、実のところ肝の小さい私はとうに気を失っていた。



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