第35話 どれくらい時間がかかるか

とりあえず、今回の件は、ヘレン嬢にはお引き取り願って、その後、私はアンに叱られた。私がアンを叱るのではなく。


「なんであんなものと知り合いになるんです。家を訪ねてくるだなんて」


家に入れたのはあんたじゃない……と言いたかったが、辛抱した。


今度、ほとぼりが覚めた頃、訪問客は主人が必ず事前に伝えるから、それ以外の人物は家に入れないことという侍女の心得を伝授しておこう。

この前、思ったんだけど、実行するのを忘れていた。


「それにしても、あの女、奥様を蹴落として、自分は旦那様の奥方に成りすますつもりなんだわ。あんな女にくれてやるくらいなら、私が貰い受けるわ」


アンは爪を噛みながら言った。


「旦那様を不用品みたいな言い方しないで」


私は考えに沈みながら言った。


ヘレンは、私の噂には証拠があるのだと言った。


証拠とは、おそらく家に入った本人、モリス氏の証言だろう。


オペラハウスに行った時も思ったのだけど、どうしてモリス氏はあんな不安定な生活を続けていられるのかしら。


アンは旦那様に浮気がバレて、私の結婚生活は破綻することを前提に話をしているけれど、きっとその前の段階があるんじゃないかしら。


つまり、モリス氏が私から口止め料をむしり取るという段階が。


横で、アンが熱弁をふるっていた。


「奥様を脅すだなんて、勘違いも甚だしい。旦那様が信じるはずがありません」


「うーん……」


多分、昔、先輩の家に遊びに行った若かりし頃の旦那様が、金髪のきれいな妹に心惹かれたという点は本当かもしれない。ヘレン嬢も、今ほどすれた感じじゃなかったろうし。


思うとちょっと悲しくなってきた。


怒るより、悲しい。


「なんですか、奥様。旦那様が信じられないとでも言うんですか?」


男性って、二人いっぺんに好きになれるって言うからなあ。


私は、屋根裏部屋に積んだままになっている旦那様のエロ本を思い出した。


どの本も、複数女性に好かれて迫られて関係を結ぶ話だった。他の本もあったかもしれないけど。全部読む気にはなれなかったから、読破してない。読むべきだったかしら。

ただし、エロ本に純愛は無用の長物だろう。話、複雑になるし。





「あなたは男性を誤解しています」


帰宅した旦那様が、真っ赤になって宣言した。


そんな話、するつもりがなかったのだけど、アンが言いつけたのだ。


そして、男性は同時に二人を好きになれるっていう説を流れで披露したところ、旦那様に叱られた。


「そんなにお怒りになるような話ではないのでは?」


私の浮気はさすがに旦那様は信じないだろう。だってモリス氏は知らないだろうけど、ヘンリー・バーティがこの家の周りをうろつき回って、監視していたのだ。


もしかすると、バーティ様だけではなかったかもしれない。騎士団が好奇心がてら、この家の周りをウロチョロしていた可能性もある。


「誤解されたくはない」


愛人を抱えている人もいるし、ご夫婦でも政略結婚で相性が悪かったりしたら、二人ともが浮気をしてそれぞれが黙認しているケースだってあるし。


「僕に適用されたくない」


だって、あのヘレンがあなたから求婚されたって言うんですもの。


適用されても文句は言えないと思うわ。

時期的にあなたが私を探していたと言う時期と重なると思うの。


種類の違う二つの恋心とか言われたらどうしよう。私にはわからないし。


確認したらいいんでしょうけど、確認して事実だったら何かものすごくショックな気がする。


知らない方がいい気がする。


だって、過去のことですしね。気になるけど。


ヘレンの嘘だったら? でも、過去のことだから、今の私たちとは関係ないしね。それに聞くのが嫌だわ。




だいぶ、じめじめしてしまった。


「ねえ、ヘレンに何か言われたの?」


むーんとしている私に旦那様が心配そうに聞いた。


「そうですねえ。お聞きになった通り、私が浮気していると」


絶対、アンが説明しているだろうからこれは説明しなくちゃ。


「僕は信じないよ」


旦那様は心を込めて即答したが、多分、旦那様が信じる信じないの話ではないのでは?

社交界でどう噂されるかが問題なのでは。


「ヘレン嬢は、モリス氏が私の噂を流しますと宣言しに来られたのじゃないかと思ったんです」


私は渋々言った。


「噂を流す? どんな噂を? あなたが浮気してるって?」


「そうらしいです。それと私とお友達になるのだと言っていました」


「お友達? なんで?」


いや、本当になんでお友達になりたいのかしら? 別に私のことが気に入ったわけではないだろうに。


用事があるってこと? 旦那様を狙っているとか? それとも私のお友達をモリス氏が狙うとかかしら?


「でも、お友達の線は無くなったと思いますわ。アンが潰してしまったから」


「どんなふうに潰すんだ。女中なのに」


旦那様が心底不思議そうにつぶやいた。


ですよね。


今度は、侍女の躾がなっていないと言われるんじゃないかしら。


「でも、多分、私が男を引き入れているって噂を流すつもりなんだと思います」


旦那様が息を呑んだ。


「それはすごい。モリス氏が言い寄ったんじゃなくって、あなたがせまったって? 知らないんだな、あなたが男性……」


ちょっと待って。その先は言わないでいいわ。今、何を言おうとしたか、少し分かった気がするから。


「こんな奥手で、男性恐怖症のあなたが、複数の男性の相手なんかできるわけがないよ! 本当に人を見る目がないな!」


どこかで聞いたような。


私がむっつりしてると、旦那様が続けた。


「こんなに努力しているのに、キス以上進めないだなんて、どれだけ酷い女だと自分のことを思っているの? さらに、別の男性だなんて」


熱心にベッドの横に座り込んできて、旦那様は言い募った。


「絶対に、あなたの身の潔白を証拠立てるよ」


「え?」


「大丈夫。僕には方法がある。今から教えてあげるよ」


「ちょっと待って、ちょっと待って! 何をする!この旦那様」


手首を掴まれて、私は仰天した。怖い。怖い。


「アーサーだ」


呼び方を訂正した上で、旦那様はべったり張り付いてきて、キスした。


「約束のペナルティだ。大体、僕のことを、人間だと思っていないんだろう」


「そんなこと、ありませんわ」


「だから、名前を呼んでくれないんだ」


旦那様は恨みがましく言った。言いがかりだわ。


「そんなこと……」


「いつだって、旦那様だ」


茶色の目が急に見つめてきた。


「僕は人間で、あなたのことが大事なんだ。あなたと僕は一緒なんだ」


目は口ほどに物を言うという……


「もし、誰かがあなたの悪口を言うなら、それは僕の敵だ。たとえ、先輩の妹だろうと」


旦那様は手にキスした。


「もし、あなたが男を引き入れているというなら、僕がそれは嘘だって立証してみせる」


「立証?」


のしかかってくる。重い。目が熱をはらんで、知らない情熱を伝えてくる。


「今から、証明できる。なぜなら、あなたは男を知らないからね。どんなに、間男がいるなんて言われても、誰もあなたを訪れてはいないんだから。この僕が初めての男だから、大丈夫」


今、理屈は理解しました! なんの証明だかも理解できました!


「証明してほしいだろう?」


旦那様が手を握り締めてくる。


「それ、今じゃなくてもいいやつだから!」


「今がいい」


「後の方がいいから! 噂が出揃ったところで、証明してもらった方がいいです! それに旦那様の証明なんて、世の中に通用しない……」


「これは、夫婦の問題だ。僕が信じればそれで終わりだ。もし、誰かが訪問済みだったら、僕は怒るよ」


「え?」


「そんなことを言うだなんて、怪しいな」


旦那様はあごをつかんだ。


「ええ?」


「まず、何より僕に証明してほしい。それともできないのか」


脅迫に回りやがった!


「こ、心の準備が!」


「もう結婚して一月以上経つよ。十分だろう。それとも、僕には言えないような事情が?」


ある訳ないのに、どうしたっていうの?


「お願い、やめて」



「傷つくなあ……」


旦那様が手を離した。


あ、でも、手を離さないで。それは寂しい。


「旦那様……手は……」


「アーサーだ」


「アーサー……」


旦那様は、ちょっと目を見開いたけど、嬉しそうにキスした。


「アーサーって呼んだのに……」


「その前に旦那様って呼んだ」


ゴマ化されないのか……。


それなら……


「あのヘレン嬢は、モリス氏と関係していると思うんです」


「え?」


急に話題が変わって、旦那様は目を丸くした。


「関係している?」


「その関係ではなくて、私に向かって自信満々に間男を呼び入れているっていうだなんて、おかしいと思いましたの」


旦那様は、また私の手を握っていたが、そのままの状態でうなずいた。


「まあ、あなたのことを知らないのだろうけれど、既婚婦人に向かって失礼な言い分だね。下手をすると名誉毀損だと訴えられそうだ」


「相手に疑われるだけの事実があるか、気が弱くて反論してこないと思われたので、脅しにかかってきたのだと思います。モリス氏は確かに一度この家を訪問したことがありますし」


「大丈夫だ。いかに訪問して来ようと、あなたの体の中に盤石の証拠があるから」


その話、ちょっとやめてもらっていいいかしら。せっかく話題をらしたのに。


「証人になれそうな人にヘンリー・バーティ様がいますが」


「ヘンリーか? 彼はこの家に後から説明に入っただけで、何も知らないと思うよ? 逆にモリス氏が訪問したことの証明はできると思うけど」


「ではなくて、時間です。モリス氏の滞在時間は半時間程度です。モリス氏が入っていったのを見て、慌てて私に注意しに来たと言っていました。だから、いつ入っていつ出たか彼なら証明できるはず」


旦那様は、すごく驚いていた。


「ほおお……」


私、頭がいいでしょ?


と思ったら違っていた。


「すごいね。あなたにしてはよく知っているね。確かに、半時間では足りない。人の家を訪問するには、それなりに時間がかかるからな。使用人に取次ぎを頼んだり、それだけでも時間がかかる。突然の訪問ならなおさらだ。家に入って、あなたに入って出して、この家から出ていくには、半時間では時間が足り……痛ッ」


もうっ。最低な男だわ。














  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る