第33話 ヘレン・オースティン嬢登場

「でも、お気になさらないで。今はなんでもないんです。ただ、久しぶりにお会いしただけですの。後ろから誰かが声をかけてくれて、思わず振り返ったら、ゴードンだったんです」


ゴードンって、誰だっけ?


あ、そうそう。旦那様、ゴードンって言ったっけ。アーサーって呼んでくれって、いつも言われているので、わからなくなってしまった。


お気になさらないでって、どう言う神経かしら。


それと……さっきの旦那様の説明と食い違う部分がありますよね。


旦那様は、オースティン嬢から話しかけられたって言ってましたわ?



一瞬だけ、ボケた顔をしてしまった。


相手は話、聞けよ、みたいな顔をしている。


「あ、申し訳ありません。旦那様の名前呼びに慣れていなくて……」


「あら、まあ」


ヘレン嬢が花がほころぶようににっこり笑う。


「この結婚は、父から話を進められたもので」


「まあ、そうでしたの」


どうしてこう変な返事をしちゃうのかしら。まるで、私は旦那様を好きじゃないみたいな……。


「では、あまりゴードンのことはご存じないのねえ」


うわあ、キター。


なんかキター。


よくありましたよねー、こう言うの。


学院時代にも、敵派閥にいました、いました。


なんかウソ教えたり平気でする人。



でも、一応、本当かどうか聞かなくては。


だって、なんのメリットがあるのかよくわからないわ。今はもう結婚した後なのですもの。妻の座は満席です。先着一名様ですからね。


旦那様に直接話をするならともかく、私になんの話があるって言うのかしら?


「私たち、相思相愛だったんです。ゴードンから、結婚しないかとずっと申し込まれていました」


おお。直球。こんな球投げて来る人、初めて見たわ。


「……全然、存じ上げませんでした」


なにかガセっぽい。


一体何が目的かしら。


「それで久しぶりに旧交を温めたいの」


「……そうだったんですか」


私が信じたような返事をするので、彼女は調子に乗ったらしい。


「席、代わってくれないかしら?」


「どの席ですか?」


芝居の席だろうなあ。


「お芝居の席に決まっているじゃない。チケット、持ってらっしゃるでしょう?」


彼女は熱心に言った。


「あなたのお席、見せてくださいな」


「私のチケットは、主人が持っていますわ」


見せたら、取り上げられるパターンだ。


「まあ」


明らかに彼女はがっかりしたらしかった。


「旦那様にお聞きになってはいかがですか?」


提案してみた。


「あなたに遠慮するに決まっているじゃない。伯爵家の令嬢なんでしょう? 家柄なんかに魅力を感じる人だと思ってなかったけど。今度は伯爵になるらしいし」


そこへ旦那様が急いで戻ってきた。


「待たせて、すまなかった」


「大丈夫よ、ゴードン」


隣のヘレン・オースティン嬢が返事した。


どっち宛の謝罪だったのかしら。


「それでねえ、シャーロット夫人が席を代わって欲しいんですって」


「え?」


「え?」


私も旦那様も、さすがに驚いて声を上げた。


「席って、なんの?」


「まあ、いやだ。今日のオペラよ」


「すみません。今日はお一人で来られたのですか?」


私は口を挟んだ。


席代わったらですねえ、私は誰の隣になるの?


知らない方の横なんかいやなんですけど。


「いいえ。知り合いのご婦人と」


「初対面の方とご一緒するのはちょっと……」


「楽しい方ですの。ぜひ、お知り合いになるといいわ」


「ヘレン、今日は妻と来たんだ」


たまりかねたらしい旦那様が口を挟んだ。 



ところが、そこへ立派な衣装だが、どう見ても一世代は前のドレスに身を包んだ老齢のご婦人がヨロヨロとやってきた。


「ヘレン! どこ行ってたんだえ?」


「伯母様!」


ヘレンの伯母様は、ヘレンの年にしてはだいぶん年上に思えた。


「どうして頼んだものを持ってこないの? 私は喉が渇いたから、飲み物を持ってきてって言いましたよね?」


「それが、こちらの男性に呼び止められてしまって」


ヘレン嬢は旦那様を指した。


伯母様とやらは、旦那様をギロリと睨んだ。と、いうか値踏みした。


「おや、そうかい」


彼女の声の調子はすっかり変わっていた。ずっと大人しく、猫撫で声になっていた。


「どちら様かね?」


「今度、伯爵位を継がれる方なの」


すかさずヘレンが答えた。


「それはまた。ご縁というものはあるのだねえ」


ないと思います。この場合。


「私、この方のお席に誘われましたの。その間、こちらの奥様が伯母様のお世話をしてくださることになりました」


「それは助かるね。あんた、名前はなんていうんだい?」


「ファーラー夫人ですわ。名前はシャーロット」


ヘレン・オースティン嬢がすかさず名前を教えた。


「そうかい、じゃあファーラーさん、飲み物を持ってきてくれるかい?」


どんなにえらい方の奥様なのか知らないけど、私はあなたとは初対面。そのような用事を頼まれるいわれはありませんわ! (激怒……のつもり)


「私は、あの方の妻でございます」


ヘレンは、はしたなくも旦那様の腕にしがみついていた。その相手の旦那様を私ははっきり指した。


「おやあ!」


伯母様はケタケタと笑い出した。


「旦那様を取られそうって言うわけかい!」


…………。


この一族の感性、疑うわ。


ご自分の姪を、叱るなり止めるなりしたらどうなの?


「ハハハ、何をおかしなことを!」


旦那様が堂々と割り込んだ。


そしてヘレンの腕を振り払うと、私の手を取った。


「さあ、席に行こう。オースティン嬢も芝居を楽しみたまえ! では、伯母様とやらも、失礼するよ!」


私は、なんだかよくわからないままだったが、旦那様の腕に吊り上げられて自分達の席へ運ばれていった。




席に着くと旦那様は、周り中が振り返るくらい大きなため息をついた。


「あの、あの方は一体?」


私は小声で聞いた。


「うん。説明通り、新入り時代の先輩の妹」


「すみません。どう言う方なのでしょう?」


旦那様が惚れ込んで結婚を申し込んでいたって言ってたけど。


そして、それはあり得る話だと思います。


先輩の妹ってアリだと思うわ。


旦那様はとても気まずそうだった。


「先輩の家には何回か遊びに行ったよ。当然、紹介されたことがある」


そうなんですか……。


そう。……旦那様はヘレン嬢を好きだったのかもしれませんね。


旦那様が、私を気に入って探していた話も嘘かも知れない。


実際には話をしたこともない私を、そんなに真剣に追いかけるとは思えない。おかしいと思っていたのよ。たいていの男性は、言い負かすような女性を好きではないと思うの。


姉も母も折に触れ、私にそう言い聞かせていた。


それよりも、何度も会ったりすれ違ったりした先輩の妹の方が身近で、インパクトはあるでしょう。

その頃の旦那様は、今よりずっと若かったはず。多感な時代だっただろうと思う。


強烈な思い出として、私のことを覚えていたことも事実かも知れない。でも、同時に、ヘレンに惹かれていたかも知れない。


結婚を申し込まれて、承諾してもらえなかった。

それもまた、当時の状況次第だったろうと思う。ヘレンさんに、もっといい縁談が来ていれば、なかなか「はい」と言わないでしょうし。



お芝居が始まってしまったので、旦那様と私は黙って舞台を眺めていた。



なんだか、ストーリーが頭に入ってこない。


どういうわけか、今回の演目は、『忘れ去られた恋』って言うタイトルなんだけど。


問題は、その当時の話じゃなくて今とこれからの話。


でも、もやもやはするわ。



結婚して以来、毎晩のように旦那様は(自分でもそう言っていたように)一生懸命口説いていた。


最初は旦那様がただただ怖かったけど、だんだん馴染んで話を聞くようになった。

旦那様の話は面白いことも多かった。

大根調査だとか、伯爵家を継ぐ話だとか、興味が湧いた。

そんな話をしている時は、旦那様が男性だってことを忘れていた。


男性かどうかはとにかく、特別な人になりつつあった。


だけど、そうじゃないかもしれないんだなあと私は初めて気がついた。


お芝居のストーリーが断片的に頭へ入ってくる。


ちょっといいなあと思っただけのほのかな恋の思い出は、ある日、友人の婚約者という形で現れる。


自分もちょうど親に勧められた婚約を、気が進まないながら、結ぼうとしているところだった。


友人が以前、あまり気に入らないのだけど、親が強く勧めるからという理由で、婚約するんだと言っていたことを思い出した主人公は、蓋をしていたほのかな想いに気がつく……


そして、偶然、オペラ座のチケットを贈り間違えられて、友人の代わりにその婚約者の隣の席に座ることになった主人公は、お互いの気持ちに気がつく。



嫌がらせか。


結局、友人も元から思いあっていた恋人と縁を結び、二組ともハッピーエンドなのだが、いまいち楽しめなかった。


横を見ると旦那様は……なぜだか、内ポケットからハンカチを出してきて涙を拭いていた。


「ステキだね……」


「そ、そうですか?」


「やっぱり、思いを貫くっていいよね」


「………………」


今から、恋を貫くつもりですか?


そして、それって誰が対象なのですか?

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