第23話 三月ウサギのお茶会
ラムゼイ伯爵邸は、遠くからみた感じでは何も変わった点のない、普通の邸宅だった。
しかし、近づくにつれ、点々とおかしなところが目立ち始めた。
さすがの旦那様も落ち着きがなくなってきた。
「シャーロット、あれはなんだろう?」
門から邸宅までの並木道の両脇には、ずっと車輪のようなものが並べて置いてある。見たことのないものだ。
「車輪?」
「……にしては小さいな」
「確かに」
何に使うのかよくわからない、理解のできないものばかりを見ていると、人間は落ち着きを失うものらしい。私もちょっと動揺し始めた。
このお屋敷、何なのかしら?
異様だわ。
それから、普通の邸宅なら正面玄関前には庭があるはずなのに、その場所には、花はおろか、木一本生えていなかった。
殺風景を通り越して、異常だった。工事現場みたい。
樹木の代わりに土山が盛られていたり、穴が掘ってあった。穴の中には水を溜め込んでいるものもあった。
「あれは何かしら?」
ここまでくると旦那様にはわかったらしかった。
「塹壕だね……」
「ざんごう……」
「最近はやっていないらしいけど、そういう研究もしていたらしい」
おかしい。ウマは火なんか大嫌いなはずだ。力いっぱい脱走を試みると思う。危険極まりない。
旦那様は説明を省略して、代わりにため息をついた。私は、思わず心配そうに旦那様の顔を覗き込んでしまった。
邸宅の玄関に降り立つ。
建物は昔風の立派な造りだったが、あちこちにゴミの山が出来ていた。
「ようこそお越しくださいました」
執事はどういうわけか大歓迎だった。
家の中でシルクハットをかぶっている執事なんか初めて見た。
彼の黒服は旧式の立派なものだったが、気のせいか薄汚れて見える。
私は執事を疑わしげに眺めたが、目が合った途端に彼はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「ようこそ!」
私はちょっと引いて旦那様の影に隠れるように身を潜めてしまったが、これではいけないと慌てて挨拶した。
「お招きに預かりまして……」
「さあさあ、どうぞ。さあ、どうぞ」
なんなのかしら、この家。私の手をとって、客間に連れて行こうとした執事の手をパシっと音を立てて、旦那様が払った。
そりゃそうだわ。こんな執事、見たこともない。奥方の手を取ろうとするだなんて。
「おや、残念」
客間に入ってすぐに、噂のラムゼイ伯爵が、車椅子で運ばれてきたが、こんな汚らしい老人は見たことがなかった。
白髪頭はボウボウで、着ているガウンは、刺繍のあるいかにも豪華そうな絹製だったが、汚れていてずっと着っ放しなのではないかと疑われた。
ついでに言うと、こんなに汚らしい客間も見たことがなかった。
どうしてなのかソファーは花柄だった。もっと男性的な無地か縞模様あたりを想像していたのだけど。家主の趣味がソファーに関しては他と違うのか、それとも家主がぶっ飛んでインテリアに興味がないのか。そして、数十年にわたって付けられた汚れや食べ物、飲み物のシミが点々と残っていて、元の生地の色目がわからないくらいだった。
伯爵はいかにも気に食わないと言った様子で、私の顔をモノでも見るみたいな目つきでジロリと観察した。
「結婚したそうだな」
「ええ」
旦那様は口数少なく答えた。伯爵が挨拶しないのには、驚いたが、もしかしてよく知っている間柄なのかしら? そんなことは言っていなかったと思うけど。
「こんな女か。なんで知り合った?」
「僕の講義の問題点を全部指摘してくれたんです。素晴らしい頭脳の持ち主なんです」
私は大慌てで、旦那様の顔を見た。姉との約束で黙っておくことにしたじゃない……て、それは私と姉の間だけか。
伯爵はジロリと私の顔を見た。
「生意気だな」
「そんなことはありません。感激しました。いっぺんで惚れ込みました」
旦那様は突然変なことを言い始めた。
「それから、僕は彼女を探し求めました」
伯爵の顔がみるみる不愉快そうになっていく。
私は身の置きどころがなかった。執事は、お茶のお盆をテーブルに置いたまま、配ろうともせずに私たちの話をさも感心したように聞いている。
「でも、社交界嫌いだった彼女はどの会にも出ていなくて、僕は何年も探し続けました。先頃ようやく探し出して……」
旦那様は、私をふわっと抱きしめた。
「結婚できました。諦めなくてよかった。この通り、僕のものです」
伯爵の顔が苦笑いになっていった。
「お前はバカか」
旦那様はうなずいた。
「バカでもなんでもいいんです。彼女、樋を登れるんです。活動的で、活発で、ドレスよりも本が好きなんです。文章を書かせたら、論理的です」
伯爵は黙り込んだ。
旦那様も黙った。
なんだか地獄のように、居た堪れない時間が流れていった。
「お前は、伯爵位が欲しくはないのか」
ついにラムゼイ伯爵が聞いた。
旦那様はにっこり笑った。そして答えなかった。
伯爵は唇を歪めると、今度は私の方を向いた。
ぎゃー、やめて。なんか怖い。女嫌いだって言うじゃないの。私、まだ何も言ってない。というか、口を挟む隙がなかった。
「お前、そこの女、どうなのじゃ?」
「伯爵、この人は私の妻です。お前ではありません」
旦那様が、私を守るように割り込んだ。
「どうでも良いわ、返事をしろ。この若造が言うほど優秀なら、答えてみろ。答え次第では、手に入りかかった伯爵の身分が逃げていくぞ?」
私は思わず旦那様の顔を見た。
「私は……いわば部外者でしょう。旦那様がどうお考えになるかです」
「お前は、欲しくないのか?」
「爵位がなくてもあっても、旦那様は旦那様。変わりはありませんわ」
性別、変えられないし。女だったら、大好きな友達になれたと思うの。
またもや沈黙。
うーむ。
なんと答えればよかったのか。
旦那様は伯爵位が欲しくなさそう。あったらあったで色々あるのかな。親戚間の折り合いとか。私にはわからないから黙っておこう。
「じゃあ、帰れ!」
旦那様がさっと立ち上がったので、私も慌てて立ち上がった。
執事は座ったまま、その様子を眺めていた。この執事、本当に変。結局、お茶にはありつけなかったし。
でも、あの調子じゃ、お茶に何が入っているか
誰も送りに来ないまま、私たちは自分の馬車に戻った。セバスが仏頂面をして御者台に乗っていた。
「旦那様、早かったですね」
セバスはびっくりしたらしかった。
「まあな」
旦那様は苦笑していた。
「旦那様、この家って、本当に変わってますよ。普通、お供の者は同じ御者仲間か女中の案内で、台所とかどこかに招かれて、主人を待っている間、お茶や軽食をご馳走になるもんなんですが、この家は馬に水さえくれないんですよ。自分で馬に水を飲ませに行きましたがね。訳がわからない」
「そうだろうな。私たちも、お茶の一口ももらえなかったよ。もっとも、出されても困るだろうな。客間のあの様子だと、衛生面では期待できないからね」
私も深くうなずいた。
かつて、トイレを拭いた雑巾で皿を拭こうとした私だが、今ならわかる。あれは間違いだったと。
「さあ、帰ろう」
「伯爵様の相続のお話はあったんですか?」
セバスは聞いたが、旦那様は首を振った。
「こちらから願い下げだよ、セバス。見てごらん?」
旦那様は家屋敷を指した。
「敷地は広いが管理はめちゃくちゃ。売ってもお金にならないだろう。家の中もすごかった。あれでは、家具も売れないと思う。伯爵領からの上がりはほとんどないと言われているから、収入は、昔、伯爵自身が発明した兵器の特許料くらいなものだろう。伯爵が死ねば、その収入も途絶えるから、金銭的には値打ちはない。爵位が好きな人間の方がいいと思うよ?」
「へええ?」
旦那様は私の方に向き直った。
「見てごらん、シャーロット。厩舎が鍛冶屋になっている。でも、伯爵はもう動けないから、廃屋になっている。伯爵ともなれば、あれをどうにかしなくちゃいけないんだ。しかも資金はないしね」
「貧乏くじだとおっしゃりたいのね」
「うん。シャーロットは賢いな」
いつもと違って、旦那様にそう言われても悪寒はなかった。
ラムゼイ伯爵はちょっとばかり怖かった。
だけど、それ以上にあの執事が怖かった。
私の手を取ろうとするんだもの。
旦那様がいてよかった。
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