第12話 すいか
私は我が君の屋敷に
顔に薄く痣が残っていた。左手も不自由そうで、まだかなり腫れている。履柄守は我が君の
翻って、私が彼に話すことはほとんどない。
身体の具合はいいこと、この療養の小邸の者たちは気持ちよく世話をしてくれること、無聊を慰める手段はあまりないが、昼は書巻を紐解き、朝夕、すこし散歩に出歩くだけでも充分楽しいので日課にしていることなどだ。
彼が目の当たりにしたであろう、悲惨と比べれば、日々、なにも起きていないに等しい。
子虫たちのことを問えば、家臣たちは、身辺に不自由はあるがいまのところ死刑や流罪など、処罰された者はいないという。
――よかった。
履柄守ですら表立っての処罰はされぬのなら、ほかの者も大丈夫だろう。
彼に今後のことを問えば、
「長く
沈鬱な面持ちでそう答えた。
君の死が
私には言わぬが、我が君の家臣としての位は失われるのは間違いない。
いくらか蓄えはあるだろうが、これからのことを思えば心配だろう……けれど、私にしてやれることはなにもなかった。
しばらく話してから履柄守は「いつまでもご息災で」と去って行った。
私も他の者の心配より、そろそろ自分の心配をすべきだった。
私は二十一のこの歳まで、虚弱の心配こそすれ、生活にこころを砕くことがなかった。
我が君に生活の一切の面倒を見てもらっていて、自分の身体の機嫌さえとっていれば良かったともいえる。
宮廷のだれかが私のことを覚えていて、
もし、忘れ去られてしまっていたなら。
「どこへいこうか」
政治の世界に伝手もなく、経験もない私の思考は、そこで停まってしまう。
これ以上、なにをどう考えれば良いのか分からない。
そろそろ夕暮れが近かった。
が、まだこの小邸のまわりを散歩するくらいならできそうだ。
気を揉みようもない心配事は、身体を動かして払うに
吉野の冬は雪に閉ざされている。
さく、さく、さく、さく、と藁の滑り止めをつけた
魔除け、熊避けと、迷子鈴を兼ねて腕に巻いた鈴が、私の歩みに合わせて、りんりんと鳴っている。
しょうしょう恥ずかしくはあったが、ここにきたばかりのころ、一度、道に迷って迷惑をかけたゆえ、おとなしく身につけていた。
視線があちらこちらを彷徨う。
いるわけもない、と思っていても、どこかであの女が私を追ってこの吉野まで来てくれはせぬかと、探してしまう。
夕暮れ間近の吉野の山々は美しい。
雪の白と樹皮の黒に、一筆、朱が落ちて、山の峰にふわりと広がってゆく。
東の空は群青を帯び、刻々と濃くなってゆく。
まだ西には日が残っていたが、東の空の端には満月が姿を現していた。
かつての大王は、この吉野で自分の息子たちに「争わぬように」と願い、この歌を歌ったという。「淑」「良」「吉」「好」「芳」、さまざまな「よい」の意味はただひとつの「善い」に通じる。ひとりひとりさまざまに違いはあれど、こころをひとつにせよ、と。
――天孫でいらっしゃる大王のつよい
我が君は、どうすればお健やかに過ごせたのだろうか。
その問いは、いまとなっては無意味だと分かっていても、考えずにはいられない。
不意に、視界の端、左手にある竹藪が揺れた。
振り向くと、履柄守の姿が見えた。
剣を
「――なぜ」
逃げようとして、雪に足を取られ、滑らせた。
滑らせたゆえにうしろにのめり、横に滑って
履柄守に言葉はなかった。荒い息遣い。
血走って見開かれた目から涙が頬に流れ落ちていた。
地を
私に逃げ場はなかった。
逃げる手段も。
――来よ。
地から声が湧いた。
朗々とした男の声。
――来よ。
雪を掴み、震える私の手を
「たれぞ」
震える声で
履柄守の剣が私の胸に振り下ろされる、そのときだった。
――まったく、面倒な。
凜、と腕の鈴が鳴り、力強い腕に抱え込まれるようにして、私はうしろに引き倒された。
目を覚ますと、春草の茂る川辺に倒れていた。
満月の光に川面が眩く輝いている。
ここはどこかと思えど、答える者はいない。
吉野ではない気がした。ずいぶんあとになって分かったことだが、私は
私の手を牽いて助けてくれたと
立ち上がる気力もなく、空を見上げる。
魂が天へ吸われていきそうな月の夜。
――履柄守、なぜ?
答えは分かる気がした。
私はきっと、我が君の隠し子……実子であったのだ。
履柄守は幼い頃から君に仕えていたゆえ、そのことを知っていた。君の実子なら、相続の資格はある。
我が君は血筋を重んじる方だった。
見目好く、君のおこころに触れる資質こそあっただろうが、さほどの権門でもない家臣の娘とのあいだの子の私を、我が子と
どこでそれが政敵に漏れたのかは分からぬ。
北の離れに暮らしていた私の素性を怪しんだだれかが、履柄守を責苛んだのかもしれぬ。
履柄守は妻子を質にとられて、私を殺しにやってきたのだろう。
もちろん、推測でしかない。真実など、もはやどうでもよかった。
履柄守の無事を祈っていた。
ひよひよ、ひよひよ
ふと手元に気配を感じて見遣ると、一羽の
懐を見ると、あの女の呉れた勾玉の変じた卵が割れている。
――生まれたのか。
私は雛を掬い上げ、胸に収める。
あの勾玉に憑いたのが、だれの
けれど、胸に宿るちいさな温もりは、これまで私を支えてくれた御方……やはり我が君のような気がしてならなかった。
――父上とはお呼びしません。我が君……
雛のいた場所には月明かりに照らされて、ひっそりと履柄守の剣が輝いていた。
我が君が雛となって私の胸に宿るなら、履柄守も連れて行ってやらねば、そう思った。
代わりに、腕につけていた鈴が見当たらなくなっていた。吉野においてきたのかも知れない。
「どこに行きましょうか、主殿」
そうして、私は旅に出ることとなったのだ。
引用歌:万葉集より(天武天皇)
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