漠夜

宮田秩早

第1話 黄昏

 ひでりがちの夏が二年続き、近郷の村々の水利争いの調停に疲れ果てていた。

「そのようなことをする役の者は別におりますから、放っておけばよいでしょうに」

 と、履柄守くつつかのもりなどは言うが、そうもゆくまい。

 彼は我が君の身辺の世話を焼く男だった。我が君の傅子めのとごで、歳は五十を過ぎている。私のこともすくなからず気にかけてくれていた。

 彼にしてみれば二十歳を過ぎたばかりの私が子供のように見えているのだろう。

 村のことは、子虫こむしの役割だった。

 民の困窮や揉め事の種、彼はそういうことによく気がつくたちだったから重宝している。揉め事はおおごとにならぬうちに収めるのがいちばんだ。

 ただ、子虫は収めることは不得手だから、まとまらぬことがあるたびに、下々のことに我が君のお心が煩わされることのないうちに、私が出て行くことになる。

 今日も、水利のことで不繰里ふぐりのさとへ出向くことになった。

 翡翠を施した麗々しい帯を締め佩刀をし、みずらを結って玉で飾る。鹿爪しかつめらしく着飾って輿に乗ると、肩が凝る。

 それを我慢してともまわりを連れて輿こしに乗るのは虚仮威しだ。

 大王おおきみに近しき我が君、私とてその親族ではあったが血は近くない。

 早々に両親を亡くし、我が君の屋敷の敷地に寓居ぐうきょしている私のことを「君の隠し子ではないか」という者もいるが、くだらぬ邪推だ。

 我が君の子らと、私の身分は厳しく隔てられていて、私は君の屋敷に上がることは禁じられていた。私の住むのは君の屋敷の北の離れ。衣食住に不便はなかったが、我が君と、君の直系の方々に会ったなら、道を譲って跪かねばならない。

 一族のほとんどがそうであるように、大王をお助けすべくこの葦原中国あしはらのなかつくにまつりごとにかかわっているわけでもない。

 要するに、輿に乗ってかしずかれる資格はあったが、こんなときでもなければ乗らない程度の分別は持った方が良い身分というやつだ。

 幸いにして輿は好きではない。大仰に構えるよりは徒歩かちで出向き、人と話すのが好きだ。

 が、揉め事を収めるのには、ときには権威が効くこともある。

 里へ向かう道すがらの松枝まつがえが美しかった。

 気ぜわしく蝉が鳴いている。

 真夏の陽射しが眩いが、気持ちの良い風がそよいでいた。

 くつ、くつ

 胸に不快な衝動が湧く。微かな痛み。幸いにしてどちらもちいさい。

 春に宿った咳が、いまだに胸を患わせていた。もともとすこし虚弱の質で幼い頃から時折、病に憑かれる。薬草を煎じてみても、祈祷を頼んでも効きが悪い。

 起き上がれぬような病に取り憑かれることはすくなかったが、みずから家を構えもせず、二十一を数えるこの歳まで我が君の家に間借りしていても外聞を取り沙汰されぬ程度には、この虚弱の質はひとに同情されている。


 里で、女に会った。

 秋の祭りでは炬火きょかを囲んで祭礼する社の前庭で、里の者に囲まれていた。

 手酷い扱いを受けているようではなかったが、歓迎されてはいない。取り囲んでいる里の者たちの表情にあるのは、警戒だ。

 水利の争いもあってこのあたりの村々はどこもよそ者には厳しい。

 女が攻撃されていないのは、女の足元にうずくまっている大きな灰狼のせいだと思われた。おとなしくしていたが尾の先から頭までを測れば人の大きさほどもあるその姿には充分、威圧感がある。なにより、里の者が女に手を上げようとすれば、すぐにも牙を剥きそうな緊張が漲っていた。

 女はといえば、取り囲む里の者たちのことをどう思っているのか、警戒しているそぶりはなく、困惑も感じられず、里の者たちを見回しながらなにごとか思案しているような表情だった。

 美しい女だ、と思った。

 目尻に紅を施し、日に焼けた肌に洗いざらしの麻布を纏っている。

 腰まで伸びた黒髪が、夜のように女を飾っていた。

北から流れてきたのだろうか、あるいは南からか。蝦夷地の者と似ている彫りの深い顔立ちをしている。

「あめは、ふる」

 不意に、輿に乗る私を見上げて女は言った。

 それは寿詞よごとなのか……?

 妖言を操る者は厳しく取り締まらねばならない。

 天地あめつちのことはすべて大王の執り成すことであり、余人がみだりに占って良いことではなかった。大王の威光が十全には届かぬ蝦夷の地ではいざ知らず、この都にほど近い里ではなおさら赦されない。

「女――」

 それはどういう意味だ、と、問いかけようとしたが、言葉が出なかった。

 女の声に魂振たまふりされたかのように……胸がかっと熱くなり手足の先にまで熱が通うここちがする。

 こみあげてくるものがあった。

 目の前が紅く、暗くなる。

 ああ、黄昏のいろだ――


 私は血を吐き、昏倒した。

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