第2話 ビージー


 ケルビンの部屋の前で行き倒れていた少女はパンを両手で持って食べようとかぶりついたが、パンが硬すぎたようで簡単には噛みちぎれなかった。


「スープにパンを浸してみろ」


 少女はケルビンに言われたまま、深皿に残っていたスープにパンを浸して食べた。

 少女の青白かった唇にも赤みが差し、頬にも血の気が戻ってきている。


「おいしい。これって、ハム?」

 少女がハムを指でつまんで臭いを嗅いだ。

「見ての通りハムだが、それがどうかしたか?」

「いい匂いがする。ハムってもっと変な臭いのするものだと思ってた」

 ケルビンは少女のその言いぐさが気になった。


少女はハムを一口食べて、

「おいしい。こんなおいしいハム初めて」

 少女はハムをあっという間に食べてしまい、台所に吊り下がっているハムの塊に目を泳がせていた。

 ケルビンはそれには気づかぬふりをした。


「スープはまだいるか?」

 ケルビンの問いに視線を戻した少女は「うん」と、答えた。


 鍋に残っていた最後のスープを少女の皿によそってやったケルビンは、空になった鍋を流しに運んでおいた。


 ケルビンはスープと一緒に残ったパンを食べている少女の向かいに戻った。

「お前の名まえは何ていうんだ?」

「ビージー。

 わたしたちを運んでいた男たちがわたしのことビージーって呼んでいたから。

 その前まで名まえはなかった。おまえとか、おいとか呼ばれてた」


 少女の答えにケルビンは先ほど少女の体を拭いていた時見た背中の鞭の痕を思い出したが、何も言わないでおいた。


 おそらくビージーと名乗る目の前の少女は、田舎から借金のカタか、人狩にでもあって帝都に売られてきたのだろう。

 それが何かのはずみで逃げ出してたまたまこのアパートの前で行き倒れたのだろう。

 少女の買主のことを考えれば、厄介この上ないが、いまさら放り出す気にはなれない。


 ケルビン自身、仕事・・の助手が欲しかったところだ。


 少女の歳がもう少しいっていればよかったが、今すぐ使い物にならなくても若いうちから仕込んだ方が伸びるのは確かだし、これまでの少女の受け答えを聞いている限りバカではないようだ。


「ビージー、お前、どこにも行くあてはないんだろ?」

 ビージーは黙って頷いた。


「それじゃあ、俺と一緒にここに住むか?」

「うん。うれしいけど、おじさん、なんでこんなに優しくしてくれるの? わたしみたいなガリガリじゃ、おじさん楽しめないよ」


「確かに楽しめないな。しっかり食べて大きくなって俺を楽しませてくれればいいさ」

「わかった。頑張る」

 ケルビンはビージーの答えに苦笑した。


「明日になったらお前の服を買って来てやる。

 男の俺が買ってくる服だから文句はいうなよ」

「うん」


 そのあと、ビージーは食事を続け、食べ終わったところで目をしばたたき始めた。

「ビージー、そこのベッドで寝ろ」

「ベッドは一つしかないけど、おじさんはどこで寝るの?」

「お前の横だな」


「わかった。がまんするけどなるべくなら痛くしないで」

「分かったよ。痛くしないから安心して寝てろ」


 どこでそういったことを覚えたのか知らないが、最近のガキはそんなものかもしれないと思ったケルビンは食器を片付け始めた。


 ケルビンが食器を洗っていると、すぐにビージーの寝息が壁際のベッドから聞こえてきた。

「妙なものを背負い込んじまったが、何とかなるだろ。

 さーて、そろそろ仕事を始めるか」



 部屋の戸締りを確認したケルビンは着ているものを脱ぎ、今はビージーの寝るベッドの横に置いてあった木箱から装束を取り出してそれに着替えた。


 ケルビンの着るその装束は、上は黒のニットのセーターで、筒状になった首の部分を上に伸ばせば鼻先まで覆うことができる。

 下はぴったりした黒のスエードのパンツ。

 足元は同じく黒のスエードのショートブーツ。

 手には同じく黒のスエードの手袋をはめ、ダガーナイフとスタブナイフがそれぞれ入った革製の鞘と、小型のポーチが何個か付いた幅広のベルトを締めている。


 最後にケルビンは、黒に近い焦げ茶の毛皮でできたフード着きのマントを上から羽織った。


 フードを目深にかぶり、最後にセーターの筒状になった首の部分を喉元から鼻の頭まで伸ばして顔の下半分を覆った。

 ケルビンの暗い瞳だけがフードの奥から覗いている。



 羽織ったマントの中に手を入れたケルビンは、ベルトのポーチの一つから薬入れを取り出し、コルクでできた蓋を開け、中から黄色の丸薬を一粒取り出し飲み込んだ。

 次に別のポーチから取り出した薬入れから、青い丸薬を一粒取り出し飲み込んだ。

 丸薬の大きさはどれも一(注1)ほどなのでかなり小さな丸薬だ。


 丸薬を飲み込んだケルビンは床の端の隙間に手を入れて床板を持ち上げた。

 床板のその部分は扉になっており、片側を持ち上げて開けるとその先には地下室に続く梯子が付いている。

 ケルビンは梯子を下り、床の扉を閉めて地下室に降りていった。



 灰を含んだ霧雨の上がった夜半過ぎ、ケルビンは床の扉を持ち上げて部屋に戻った。

 それまで着ていた装束から普段着に着替えて、寝息を立ててベッドで眠るビージーを壁際に押しやりベッドに横になった。

 暗がりの中、ビージーの髪から慣れているはずの灰の臭いがした。


 しばらくケルビンはそうやってベッドに横になっていたのだが、いかにもベッドが狭い。

 しかもビージーは真っ裸なので、何かの拍子で壁の方を向いたビージーの骨ばった裸の尻に手や太ももが当たる。


 どうも落ち着かないので、ケルビンはベッドの横の床に毛布を敷いてその上で眠ることにした。




 翌朝。

 ケルビンは朝食の支度を済ませて、ベッドの真ん中でぐっすり眠るビージーを起こした。

「ビージー、朝だぞ」


 ケルビンに起こされたビージーが起き上がった。真っ裸で寝ていたのでもちろん真っ裸だ。


「わたし、夢を見ないほどぐっすり寝てたんだけど、寝てる間におじさんの女になったの?」

「なってない。これからもならないから安心しろ!

 台所の扉の先は裏庭になってて真ん中に井戸がある。

 そこで顔を洗ってこい。

 トイレは出てすぐの右手だ。

 お前の服は乾いたようだからとりあえずそれを着ていけ」


 ケルビンはあい変わらずのビージーに苦笑しつつ、ビージーが着ていた貫頭衣と乾いたタオルをビージーに投げ渡してやった。



注1:一

8分の1インチ相当。約3ミリ

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