第11話 前科

 愛朱夏はもう、僕と共に蒼依を死なせる決意をしているわけだから、先ほど蒼依に向けていたしおらしい態度に演技が含まれていたのも当然だ。でも、僕とは違い、愛朱夏は別に蒼依を嫌いになったわけではない。自分の存在か蒼依の命か、どちらかを選ぶ必要性に迫られた末、苦渋の決断を下さざるを得なかっただけだ。

 それなのに、あの蒼依に対する、愛情でもなければ憎悪でもない、無の瞳は何だったのだろうか。

「今日も、ここに座りましょうか」

 愛朱夏が昨晩と同じ、自販機横のベンチに腰を下ろす。考え事をしながら愛朱夏に手を引かれて歩いていたら、いつの間にかここに来てしまっていた。

「いや、普通に僕のうちでよかっただろ。この時間ならまだ親も帰ってきてないし、別に不都合はないぞ」

「うーん、行きたいのは山々なのですが、正直ちょっと遠いので。この時代に来るためにかなり体力を消耗してしまったせいなのか、短時間で往復するのはまだ辛くて。足とか痛いですし」

「そうか? ならまぁ、いいけど」

 最近の若い奴、というか未来の若い奴はこんな距離を歩くのもキツいのか……。もしかしたら2022年では脚の力を使わないで済む移動手段が広まっているのか、そもそも家から出ずとも自宅で仕事も教育も娯楽も完結してしまうような世の中になっているのかもしれない。だから肌真っ白なのか、こいつ。

「疲れてるなら、いちごミルクでも飲むか?」

 120円で父親面できるなら安いもんだ。

「……すみません、今日はスポーツドリンクでお願いします。胃が弱っていて……ママのお家で調子に乗って食べ過ぎてしまいました……」

 最初から何か腹減ってるみたいだったけど、その割に食は細いのか。同じ歳の頃の蒼依と比べてもだいぶガリガリだもんな。父親である僕はずっと標準体型なんだが。

 まぁ、今はそんなことどうでもいい。

「それで、話ってのは……もしかして、あの女のあの態度の理由に何か心当たりが……」

 ペットボトルを手渡し、隣に座って本題に入る。とはいえ、そう都合良くこいつが何でも知っているわけもないだろうが。浮気相手が誰なのか見当もつかないような状態なわけだし。

「前科があるから……かもしれません」

「――は?」

 前科……? な、何の話だ……? 何に対する回答だ、それは……?

 わからない、だってこの話題の中で前科って、それじゃまるで……。

「ママが浮気を『絶対』しないと言えない理由――それは、前科があるから。大切な人を絶対裏切らないという確信を持っていたのにもかかわらず裏切ってしまった――そんな過去が、前例がある以上、もうママには『絶対』を使う資格がない……そういうことなんでしょう」

「な――」

 前科。前科。前科。前科。つまり……え……? 蒼依はもう既に、過去に、僕を裏切ったことが――浮気をしたことが、あるってことか……?

「は……は、ハハハハハ! なーんだ、そんなことか……って、そんなわけねーだろ!! さすがにそれはない! ありえない! ない! ない! ない……ない……よ、な……? え、ないよね……?」

「……明言は避けます……。今よりも前の時代の話、つまりわたしが生まれる前のことです。わたしが自身の目で見た情報は何もありません……」

「じゃあ言うなよッ!! ぶん守るぞ、このガキ!」

「だから今まで言わなかったじゃないですか……これに関しては本当にチラッと聞いただけの話で……でも、未来の浮気に対するママのあのスタンスを目の当たりにした今となっては、極めて信ぴょう性が高い情報としか思えなくなってしまって……この、今よりも過去に関する情報が、今よりも未来の浮気にまで関係を及ぼしている可能性があると判明したのであれば、パパに伝えておいた方がいいかと……」

「な、な、な、チラッと聞いたって……だっ、誰なんだよ、そんなこと言ってた奴は!?」

「……親戚です」

「だから誰だよ!? お前の親戚って僕の親戚でもあるだろ!」

「……おばさんです」

「おば……? って、ことは……姉さんが……?」

 愛朱夏のおば。蒼依にきょうだいがいない以上、それは僕の姉ということになる。

「はい、そうです。ママのお葬式のとき、『あの子には裏切りの前科があるから……』と悲しそうに呟いていて……そのときには気に留めている余裕がなかったのですが、あのママの頑なさがその前科から来ているものだと考えてみれば……」

「なん……だって……」

 姉さんが何か知っている?

 十年前、高校卒業と同時に上京してしまった姉。僕が蒼依と出逢ったあの十年前の夏にはまだ高三でこの村にいたから、その際に二人も一応知り合ってはいる。でもそれ以降は、帰省のタイミングで蒼依がこの村にいたら顔を合わせていた、くらいの関係だったはずだ。

 もしかして、僕の関知しないところ、つまり東京で会っていた? いや、そんな素振り、蒼依にも姉さんにも全くなかった。会う理由もないし、それを僕に黙っている理由もな――理由……? 僕に隠している理由……?

 前科……?

 浮気……?

「嘘だろ……じゃあ、蒼依が高校入学前、東京に住んでいるときに、僕に隠れて浮気してったことかよ……! それを東京にいる姉さんは何らかのきっかけで気づいていたって……!?」

「そういうこと、なんでしょう……ママはきっと、ずっと前からパパのことを裏切り続けている……あの大切な約束を破り続けている……」

「あの女ああああああああああああああああああああっっっ!!」

 嘘だ。

 僕のこの叫びは嘘だ。

 なぜならこいつの言っていることが嘘だから。

 いや、嘘ではないのかもしれない。今こいつは本気で悲しそうで、本気で辛そうで――そして何より、本気で恨んでいるかのように歯を食いしばっている。

 でも、違う。嘘じゃないのであれば、勘違いだ。こいつのこの情報――蒼依が過去に僕を裏切って浮気をしていたという推測は、間違っている。

 だって、蒼依はそれを全否定していたから。浮気なんて一度もしたことないし、十年間僕一筋だと言い切っていたから。

 それが当たり前だ。当たり前のことを当たり前のように蒼依が言ってくれれば僕は当たり前のようにそれを信じる。

 愛朱夏という存在は、タイムスリップ云々関係なく僕にとって本当に不可思議で、その発言をどうしても疑えなくなってしまう。こいつのことを信じなければならないと、ずっと昔から脳に刻み込まれているような感覚すらしてくる。でも、蒼依が全否定してくれるのであれば、そんな愛朱夏の言葉でさえ、僕は嘘として払い除けてみせる。

 僕と蒼依の間には、百年後にまで通用する『絶対』があったはずなのだから。あいつの『絶対』を僕は何よりも優先する。

 なのに何であいつは未来のことを全否定してくれない?

 何か理由がありそうなことはわかった。「前科があるから」という仮定は確かにそれらしくもあるし、筋も通ってしまう。

 それに、こいつのこの表情――

「パパ……辛い、ですよね……これから十四年間もこんな現実と向き合い続けなきゃいけないなんて……全部、わたしのせいです……」

 この地獄に対するこいつの絶望にだけは、どうしたって嘘なんて色が混じる余地が見つからなくて。

「愛する人からの裏切りと向き合うのが、こんなに苦しいだなんて……想像していたつもりだったけど、想像以上です……」

 危険だ。

「……他に、ありますよね……ベストじゃないけど、もっと楽で簡単で、もっとママに絶望を与えられる復讐方法……。だって、パパはもう充分頑張りました。わたしももう、こんなの……だから、」

 僕はこいつの言葉をどこまで信じればいい? いや、どこから信じてよかった?

「わたしとパパ、いっしょに、ママの目の前で――」

「やる。蒼依をブチ殺す。言ってるだろ、復讐じゃないって。娘を守るためだ。だから引き続きお前も協力しろ」

「――……そう、ですか…………すごいっ! パパはわたしが思っていたよりもずっとずっと強いんですねっ! 頼もしいですっ! かっこいいですっ! 大ちゅきですっ……!」

 虚ろな目から一転、感激したように顔を輝かせるこの女児の言葉を、どこまで真に受けるべきか――今の僕にはわからない。わからないし、何も考えずにいたら、全てを受け入れてしまう気さえする。

 防衛策として取れるのは、せいぜい二つくらい。僕もこいつに本音を出し切らないこと。そしてもう一つは策とも呼べないような、でも結局一番有効性があること――ただただブレずに、自分の目的を果たすことだ。

 蒼依を心中に追い込むというゴールは何も変わらない。あいつが未来の、別の時間軸での浮気を否定できなかったことは確かな事実なんだ。

 そして、浮気ではないにしても、僕に対して何か後ろめたい秘密を隠しているというのも、あの言動からして間違いない。過去の行動のせいで未来の浮気を否定できないというのであれば、やはりその過去にも罪がある。

 基本的な方針は変わらない。あいつの真摯さに胸を打たれかけたが、そんな気の迷いを振り払う良いきっかけになったと思うことにしよう。

「ところで愛朱夏。万葉ばんば令和という名前に心当たりはないか? 一応今のところは間男の最有力候補なんだ」

「え……ばんば…………あっ……!」

「やっぱり何かあるのか!?」

 愛朱夏は目を見開いたまま、コクリと頷く。その顔には焦りのようなものが浮かんでいて。

「会ったことはないはずですが、その名前は耳にしたことがあります……。急ぎましょう。一か月以内と言いましたが、その日は想像以上に近そうです。いまだにママにそのばんばという男との浮気の気配がないのであれば危険です。このままの勢いで本当にママに未来を変えられてしまうかもしれません。パパのその手で、早くママに浮気をさせてください! パパが他の男に、愛するママを抱かせるんです!」

「…………っ!」

 心臓が、暴れ出す。その現実に頭がクラクラする。でも、愛朱夏の言う通りだ。正論だから効いているんだ。これは僕が決めたこと。成し遂げなければならない。

 でもその前に確かめなければいけないこともある。とりあえずまず、姉さんに連絡だ。

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