幸せな気持ちを持っていて良いんだろうか

 チョコレート屋の店員さんに手渡された青い紙袋。そこには二つの箱が入っている。

 私とそうくんが選んだチョコを別々の梱包でとお願いしたのだが、彼の方から「喫茶店で一緒に食べましょ」と言ってくれたので、私達のチョコを一つの箱に収めた。もう一つの箱は、マスターへのお土産だ。

 自ら荷物を持ってくれるそうくん。

 恋人でもなんでもないのに二人並んで歩くのは、少し照れくさい気持ちもあるが、嬉しかった。箱の中身を二人で食べるのも恋人っぽいかも。

 今だって、もし手を繋いでいたら、周りからカップルだと思われるのだろうか。

 頬がほんのりと朱色に染まる。

 全てなんちゃっての世界。幸せな未来を頭の中だけで作り上げられる中、不意に過ぎる暗い感覚。


 私、こんなに幸せな気持ちを持っていて良いんだろうか?


 不意に足が止まった。

 人々が行き交う中、彼の背中を見つめる。

 コンサートは無事に終わった。夏希なつきとの約束も果たせた。

 でも最も解決しなきゃいけない問題が、まだ残っている——奈良栄ならさか先輩のことだ。夏希なつきに怪我をさせ、私の楽器を壊し、暴力を振るった男。

「なにも、解決してない」

 彼と演奏して抱いた満足感。心が幸せな現状だからこそ、その未解決な不安要素はより暗く、より重たい。

 胸元に手を寄せると、不安の鼓動がした。この胸の奥で、ずっと淀んでいる。認識してからそれは、黒い雨雲のように覆っていく。

 今だけは見ないでおこう。

 頭を大きく振り、暗い感情を払い除ける。

 そして彼に追いつかなくちゃと前を見た時、既にその背中はどこにもなかった。

「あ、はぐれちゃった」

 人が多い中、名前を叫ぶのは羞恥心から憚られた。

 だから、前にいるであろう彼を慌てて追いかける。走れば、すぐに追いつけるだろうと思った。

 しかし駅前の人通りの多さが、私の行く手を阻むようだった。人にぶつかっては謝り、よく見渡しながら、彼の姿を探す。

「どうしよ……」

 たった一瞬見離しただけ。だからそこまで遠くには行ってない筈。なのに、どこにもいない。似たような人はあちらこちらにいるが、黒のティーシャツを着たそうくんが見つからない。

 普段からよく通る、慣れた道なのに、不安が心を占める。

 オロオロしながらも、目を皿のようにして探した。

 そこに、肩を優しく叩く手。そうくんだと思って振り返った。

そうく……どちら様ですか……?」

 見知らぬ、茶色の髪の女性。そうくんと同じ高校生だろうか、マスクをしていて確信は持てないが、若く見えた。香水の匂いが濃くて、思わず顔をしかめる。

「あのぉ、一人ですかぁ?」

「いえ、そういうわけじゃあ……」

「じゃあ、今ぁ、時間ありますぅ?」

「今はちょっと……」

「あなたみたいなぁ、綺麗な女の人に声を掛けてるんですけどぉ、接客とか興味ありません?」

 ぐいぐいと彼女は食い下がる。

 この手口。嫌な予感がした。

「接客は苦手なんで……」

 相手が悪い気にならないように愛想笑いをしていると、女性の後ろから男性が一人、二人。いや、いつの間にか背後にも男性がいる。完全に囲まれていた。

 冷や汗がじわりと出る。

「お姉さん、可愛いねぇ! ちょっとやってみない? 儲かるよ〜」

 黒髪の短髪で爽やかな青年を演じているのだろうが、ニコニコと笑っているのが逆に怪しい。

 突然、後ろにいた男性が両肩を掴んだ。ビクッと震え、体が強張る。私がイエスと答えるまで逃さないつもりなのか。

 怖い。あなたなんかに可愛いと褒められても、全然嬉しくない。

「嫌……嫌です。接客なんてしません」

 心臓が煩い。勇気を振り絞るだけ振り絞って、ハッキリとノーを突きつけた。どれだけ怖くても、こういう時はきちんと断らないとダメだ。

 悪い仕事の勧誘は、曖昧な返答では自分達に都合がいいように捉えるから。しかし、私の勇気を知ってか知らずか、男性は無視をして、勧誘を続けた。

「そんなこと言わずにさ〜、一回だけやってみなよ。アンタだったら、きっとたくさん客取れちゃうから」

「そうそう。大人はすぐに『何事も体験してみないとわからない』って言うだろ。俺らにもそういう姿を見せてよ」

 男達も女性と同じように高校生くらいなのだろうか。でもマスクとかで顔を隠していないし、二十代くらいにも見える。それにしても面倒な程、彼らは結託している。

 だからといって、私もこのまま負けられない。

「私には接客なんて必要のないものです。人を待たせているので行かせてください」

 表情を引き締め、堂々とした態度で挑んだ。

「わかったよ」

 一人の男がそう言った。

「あ、じゃあ——」

 解放してもらえると思った瞬間、肩を掴んでいた男が強く肩を揉んできた。

 首筋に、男の息がかかる——神経が凍結したような気味悪さだった。顔が青ざめる。怒らせたかな。

「もしかしてお姉さん、疲れてない? 肩が凝ってるよ。お試しにの薬をあげるから、使ってみて。で、疲れが吹っ飛んじゃうから」

 嘘だ。

 合法だとか、副作用がないと言って、実は覚醒剤みたいなそういう悪い薬に決まってる。前にニュースで警察官が言ってたもん。そんな口車には乗らないんだから。

 それにしても接客の次は薬だとか、どれだけネタを仕入れてるの。

「不安なことが無くなって、幸せになれるよ」

 その言葉だけは、よく耳に届いた。

 不安なこと——奈良栄ならさか先輩への不安も消してくれるだろうか。

 一瞬だけ、本当に一瞬だけ心は揺らいだ。しかし、

「私、今が幸せなので必要ありません」

 そうくんと演奏した時間がとても幸せだったのは間違いない。

 確かに問題は解決されてないし、不安がある。でもそうくんと過ごした時間は確かにあった。心が満たされた。不安だけど、幸せだもん。

 嘘はついてない。

 というか、最初に女性で安心させておいて、複数の男性で囲むなんて卑怯だ。逃げられない。首元に顔を近づけてこないで! キモい!

「お姉さん、良い匂いする〜! 食べちゃいたいなあ」

「いやいやいや! 触らないで!」

 怖い。

 助けて。

 誰か一人でもいいから助けてよ。どうしてみんな通り過ぎていくの? 見て見ぬフリしないで。こんな駅前のメイン道路を歩く人達は多いから、誰も気づかないわけがないのに。

「やめて、いやぁ……そうくん……」

「なになに〜? 彼氏〜? そんなの忘れてあげるよ〜? 薬でね」

 腰元を抱き、両腕を掴んできた。思いきり腕を動かしても離れない。このまま知らない場所に連れ去られたらどうしようと、恐怖が全身を襲う。

 股に見知らぬ脚が入ってきたのが見えて、ぞくりとした。これ、ヤバイ奴だ——

そうくん!」

 怖い!

 怖いよ!

 私に触らないでッ!

 誰か助けてよ!

「はーい。お兄さん達、すぐに俺の連れを離さないと警察呼ぶよ」

 聴き慣れた声はとても低くて、すぐにはその持ち主が誰かなんて気づけなかった。

 頭を上げると、110の数字を画面に映すスマートフォンを片手で持ち、男性達に見せていた。

 そしてその表情は額に青筋を張り、憤慨ふんがいしていた。

 鋭い目をいっそう細め、私の置かれている状況を把握すると、彼は舌打ちをした。演奏で見せた優しい彼とは別人のようだった。

 今にも飛びかかるような形相ぎょうそうで睨みつけると、

「さっさと手ェ離せよ」

 怒鳴ることなく、淡々と言ったが、憤激ふんげきの色が隠せていなかった。

 私の後ろにいる男が肩から両手を離し、軽く手を挙げる。

「誤解すんなよ。俺ら、まだ。でも、警察を呼ばれたら厄介だな。あーあ、撤収、撤収〜」

 そう言うと、その仲間であろう女性と男性達は簡単に離れていった。

 あくまでと言い切るもんだから厄介だ。とはいえ、これ以上事が大きくならず、解放されただけでもよかったというべきか。

 緊張状態から解放され、一気に全身の力が抜ける。

「はああぁぁ。助かった……」

「大丈夫? 怪我は?」

「ううん、大丈夫……」

 心配もしてるけど、まだ彼は怒っているようだ。薄くはなったが、眉間の皺がある。

「助けてくれて、ありがとう」

「どういたしまして。もう急にいなくならないでくださいよ」

「ごめんなさい……」

「心配しました」

「おこ、怒ってる?」

「そりゃ勿論」

「ごめんなさい……」

 二度目の謝罪。

「ていうか、電話に出てくださいよ」

「あ、ごめん。コンサートからずっと電源を切ったままだ。忘れてた」

「そりゃあ、何回かけても繋がらない筈ですね」

「面目ない……」

 身を小さくしていると、そうくんはスマートフォンをポケットに入れて、なにも言わずに私の手を取って歩き出した。

 突然のことに、慌てて彼の歩く速さに合わせる。一昨日よりスピードが速くて、駆け足になってしまいそう。あの時は、私の歩く速さに合わせてくれたんだ。

 彼の手が熱い。ずっと探してくれたのかな。

 助けに来てくれて、本当にありがとう。

そうくん」

 呼ぶと、すぐに足を止めてくれた。

「……すみません」

 パッと離される手。気まずそうな顔をして、視線を逸らす。

「また……また、はぐれちゃいけないから……」

 彼の言葉にドキドキする。

 言っちゃえと勧める自分もいれば、はしたないから言うなと言う自分もいる。でも心臓が高鳴るのは、もう答えが決まってるから。

「手、繋いでも……いいかな……?」

 甘えたい。

 大人っぽくない私だけど、年下の彼に甘えたかった。

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