私のエスコート

 第一幕『ハバネラ』。

 私達が冒頭で再現したシーンだ。

 カルメン幻想曲という曲名を知らなくても、一度は誰もが耳にしたことのあるメロディだろう。

 伴奏のみのテンポはまるで妖しいカルメンが出てくるかのよう。タバコ工場から女工達が現れてくる。

 煙草の煙が薄ら漂う中、手拍子と男と女の歌声がどこか官能的で、カルメンは艶のある声でハバネラを歌いながら、情熱的な踊りでドン・ホセを誘う。

 私が吹くメロディに大人の色気を乗せて、ホセを挑発する。

『私に惚れると危ないわよ』と言わんばかりに、そうくんに目を細める。

 どんな男でも落とす魅惑的なカルメンだが、彼だけが見向きもしなかった。

『なんで一度もこっちを見ないのよ!』

 メロディの音域は上がっていき、シのフェルマータで気持ちが頂点になる。興味すら示さなかったホセに、黄色い花を投げつけて去った。

 彼は地面に落ちた花を拾い上げる——カルメンに惹かれていたのだ。

 それを表すように、そうくんが編曲したハバネラは、メロディが私から、伴奏をする彼へと移る。しかしそのメロディはとても呆気なく、短い。


『ジプシーの踊り』に入ると、二人の音がハーモニーを奏でながら、私は旋律を紡いでいく。テンポを少し速くして、軽やかさを出す。

 そうくんの伴奏も、私の表情を見ながら合わせ、音を確実に当てて綺麗にハモる。

 そして、メロディは変わり、一層甘く、色っぽさを濃くした。

 Pressez plus vite(プレセ・プリュ・ヴィト)に入り、ホセを急き立てるようにテンポを速くしていく。

 だが、一度rit.(リット)でだんだん遅くし、フェルマータで落ち着かせた。このまま落ち着くのかと思えば、カルメンはそこで終わるような女性ではなく、再び急き立てていく。

 ソロならまだしも、フルート二重奏で、このテンポで演奏できるのは、私とそうくんだからこそだと自負する。

 そして、楽譜に書かれている8分音符、16分音符、装飾音符まで、まるで一本が演奏しているかのように合わせられるのも、二人だからこそだと。

 同じ風を感じ、同じ呼吸をし、同じ音の形を出す。

 お互いが考えていること、感じていること、感覚を共有しているような一体感。

 息を吸うブレスも。

 指を動かす速さだって。

 体の揺れもまた。

 まるで私がそうくんに、彼が私になったかのようになにもかも——そう心で感じた瞬間、全身に鳥肌が立った。肌を電気が走ったかのように。

 それは畏怖いふに近く、一方では感情がたかぶり、心臓が高鳴る。バクンバクンと、体そのものが鳴り響くように。

 だから、思った。


 今からだよ——


 Allegro moderato(アレグロ・モデラート)に入ると、曲のテンポがゆったりとする。

 合っていたブレスをわざと一秒にも満たない時間で前にのめり込む。

 もちろん彼はすぐに気がついた。だからこそ、戸惑いを隠せない表情をした。まるで整備不良の列車だと思っただろう。でも、違う。

 彼のその手を強く掴んで、今から私は駆け出すよ——そんな合図だ。

『エスコート、してあげる』

 そう伝わったかのように、彼はすぐに顔を引き締めた。そして、その一瞬で彼の音に、演奏に、芯が生まれる。

 歌を支える土台の伴奏者としてではない、同じ旋律を吹く者として、舞台に上がったのだ。

 その変貌に気づくのは容易で、体はすぐに反応した。まるでそれは畏敬いけいの念を抱いたかのようだった。萎縮し、彼の演奏に飲み込まれそうになるのを、目を閉じて踏みとどまる。

 追いかけ合うようなメロディ。

 私は私だ。

 目をそっと開けて、delicatamente(デリカタメンテ)の「繊細な、優美な」の指示に合わせて表現していく。poco rit.(ポコ・リタルダンド)、だんだん遅くして、追いかけっこしていた時間に終焉しゅうえんをもたらす。

 そして、その後に続くのは、Presto(プレスト)——極めて速く。

 その文字はスタートの合図だ。


 さあ、ついてきて!


 力強く目を開くと、彼も今まで以上に顔を引き締めた。

『音を介して、愛し合いましょう』

 どちらも本気。どちらも妥協は許さない。

 それなら、テンポを緩くするわけにはいかない。彼ならこの速さに付いてくるはず。いや、むしろそれ以上を望む!

 ありったけのスピードで16分音符を鳴らした。音が転ばないように、そして、ひっくり返らないように。伴奏である彼の音——裏拍のタイミングを合わせる。

 二人のリズムが交わる。同じメロディ、刻む16分音符。一つの音もずれなければ、綺麗なハーモニー。

 しかし、一回でもタイミングが外れてしまえば、曲が崩壊するのは避けられない。速いテンポに、16分音符、決して立て直しができない緊迫感。

 息一つ乱すわけにもいかない。どれだけお互いが息を合わせられるかに懸かっている。

 そこは、最後に書き直した楽譜の箇所だった。そうくんがわざわざ設けた同じ舞台。ここを逃すわけにはいかない。逃げるわけにはいかない。

 そう思うと、緊張感が増す。心臓が煩い。不安はある。でも彼は私を信じて書き直したのだ。

 なら、それに答える他、存在しない!

 フィナーレ中のフィナーレ。最後の8分音符——16分音符で刻めと指示されているフレーズに入る。ここでズレてしまえば、全て台無しになる。

 最も盛り上がり、最後まで勢いを殺さずに走り抜けていけるか。

 思い出して。

 昨日の朝、上手くフルートの音が出せなくなって、休憩をしようとそうくんが窓を開けた時のことを。そこで楽譜を撒き散らしながら、駆け抜けた風を。心を掻っ攫っていくような爽やかな風を。

 さあ!

 聴け! 音楽を!

 感じろ! 風を!

 世界の中心に——私達はいる!

 瞬きせずにそうくんを見つめる。そして彼も同じように見つめ返した。考えることは同じ。

 そして、最後の音、ミのフェルマータが飾る。音を閉じるまで、音の響きを耳で聴く。

 余韻を残して曲を終えた。

 終わった。

 全て出し切った。

 そっと目を閉じる。

 誰かが手を叩く音がした瞬間、空気の流れがドッと変わった。

 自然と湧き起こる拍手喝采。

 そして目を開けてから気づく。それは今までにない達成感を生んだ。

「スタンディング、オベーション……?」

 乱れた息を整えながら、観客席を見渡した。初めて見る光景に涙がうっすらと浮かぶ。

 これを目標にしていた。

 スタンディングオベーションを見ることは難しい。でも、満足してもらう姿をこの目で見たかった。込み上げてくる感情が、更に涙を誘う。

 その時だった。

「お疲れ様、しほりさん」

 そうくんの優しい声が耳をくすぐる。そしてポケットに挿してあった黄色い花を、ヘアピンで私の髪に飾ってくれた。スッと右手を差し出される。

「えっと、え?」

 急な出来事に戸惑った。

「今度は俺がエスコートする番だから」

 そうくんは楽器を持っていない手を握って、観客の前に導いてくれた。

 そして私達は深く一礼をした。

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