月星の下で



   ■ ■ ■



 校門に着くと、既に福岡ふくおかくんはいた。

 ゆったりとした白いティーシャツに黒のハーフパンツのラフな格好。彼は学校名が彫られた石門に背中を預けていた。

「あ」

 今まで制服姿しか見たことがなかった。その私服が新鮮だったからか、ドキリと脈打つ。

 まだ幼さが残る顔から、体が細いイメージをしていたが、両腕両脚には程よい筋肉が付いて、想像以上に大人っぽい。

 そう改めて見ると、頬が熱く感じた。

 高校生ってこんな感じだっけ。

 私が到着したことに気づくと、彼はポケットから手を出して、会釈した。

 その瞬間、本当に福岡ふくおかくんに会ってるんだと自覚する。誰もいない場所で、遅い時間帯での待ち合わせなんて、まるで密会だなと意識してしまう。

「ごめんね。急に電話しちゃって」

「いいえ、大丈夫ですよ」

 前に見た、変わらない笑顔。

 ズキンと痛む心臓。

「こんな夜中に……お母さん、怒ったでしょ?」

「あー、それは大丈夫です」

 私を安心させるように笑う。

 その笑顔を見た瞬間、心に突っかかっていたものが、じわりと溶けていくのを感じた。

「今、仕事中ですから」

 だから一言も話してません、と彼はハハハハと笑う。

 電話では誤魔化すと言っていたが、仕事をしているということなら、なにも言わない方が自然ということか。

「仕事? じゃあ、まだ会社にいるの?」

「いやいや。家にいます」

「あ、そうなんだ……遅くまでお疲れ様だね」

「ただの仕事馬鹿なだけですよ。仕事をしてる間は、家族のことなんて気にもしないし」

 ということは、福岡ふくおかくんが幼い頃から、そういう環境だったのだろうか。

 寂しいなと思ったが、彼は全く表情にかげりを見せない。それどころか、スッキリしたような顔。恐らく、そんな家族に対して負の感情は抱いていない様子だ。

 だからこそ、彼は柔らかく微笑むのだろう。心配しないで、と言っているかのように。

「それに、この時間帯はいつも練習しに出てるから、母さんからしたら俺がいないのが日常ですよ。だから、あんな人のことなんか気にせずに相談してください。泣いちゃうくらい、悩んでるんでしょ?」

 バレてる。電話の時に私が泣いてたの、気づいてたんだ。だからずっと優しくしてくれたんだ。

「うん、少し、いや、結構……すっごく悩んでる」

 重たい口を開く。

「みんなに連絡したけど、ダメだった。みんなの都合もあるし、無理強いはできない。でも、どうしてもやり遂げたいことがあって……でもそれは一人じゃ、できなくて……」

 言葉を間違えないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。外に吐き出す度に心を抑えていた突っかかりが消えていき、そして全て溶け切った。

 だからやっと言える。

 そう確信したのに、感情は後から追いついてくる。

「ふ、ふぇ……」

 鼻の奥がツーンと痺れる。

 目頭が熱い。目から温かいものが溢れる。

 ああ、ダメだ。

 泣いたら話せないとわかってるのに、目から溢れては、繰り返し筋を作る。何度も両手で拭っているのに追いつかない。

 唇を噛んで、嗚咽が漏れないようにしても、どうしてもうまくいかなくて。どれだけ隠したくても、隠しきれなくて。

 それでも福岡ふくおかくんに見られたくなくて、両手で顔を覆う。

眞野まのさん」

 名前を呼ばれた。でも、今は声が出せない。声が震えるとわかっているから。

「左手」

 左手?

 わけがわからなくて指と指の隙間から覗くと、福岡ふくおかくんは手を差し出していた。

「ほら、出して」

 促されるが、差し出されたその手を握るべきか躊躇ためらう。

 奈良栄ならさか先輩よりも、その指は細い。大きさも少し福岡くんの方が小さく見える。

「!」

 そして気づく。親指のタコに。長年培ってきたのであろうタコに、私は見覚えがあった。

 だからなのか?

 アパートに来て、暴力をふるった先輩と違って、彼の手が怖くないと感じるのは。

 その手は誰かを傷つける為ではなく、窮地を救う為に掴んでくれる手であり、音楽を奏でる大事な手だ。

「……うん」

 彼の手にそっと左手を添えると、ギュッと握ってくれた。

 私の手を引いて、彼はゆっくりと歩き出す。

 手が温かい。指先が氷のように冷え切っていたからか、彼の温もりがより伝わってきた。

 ああ、もう一人じゃない。

 私は声を押し殺す。福岡くんに導かれるまま歩いて、泣いた。

 その手は温かくて、どんなものよりも安心できて。導いてくれる福岡ふくおかくんの背中を半歩後ろから眺める。

「どうして、手を……?」

「両手で顔を覆って歩かないし、泣いてばかりでしょ」

「ッ⁉︎ 泣いてばかりじゃないよ!」

 空いた手で、さっと涙を拭く。

「今、しゃべってる間は顔を覆ってないじゃないですか。やっぱり手がない方がしゃべる」

「……まるで私が泣き虫みたいに」

「なんか言いました?」

「いいえ! なんでもないです」

 ぼそりと呟いたことが聞こえていたらしい。すかさず否定した為か、私も敬語になってしまった。

 それにしても福岡ふくおかくんはズバッと言うなぁ。心に刺さるような物言い。それでも、やっぱり福岡ふくおかくんのことは怖くないって、不思議。

 本当になんでだろう、と頭上にクエスチョンマークを浮かべた。

 空は真っ暗だが、街路灯で明るい道を歩く。

 会社帰りと思われる人とすれ違う。私達の背後を付き纏うような嫌な気配はない。

 すっと空気を吸い、ふーっと吐く。

 心は落ち着いた。

福岡ふくおかくん。私、夏希なつきとのコンサートを控えてるの」

「うん。先生が音楽室にポスターを貼ってたから知ってますよ」

「それがね、できなくなっちゃった」

「どうしてです?」

 蘇る記憶に、足取りが重くなる。

 道路のひび割れを跨いだ後、彼の手を握り締めた。記憶が蘇るから、口に出すのが怖い。

「楽器を……死ぬ前にお父さんが買ってくれたフルートを……会社の先輩に壊されちゃった」

「うん」

 福岡ふくおかくんは、ただ静かに聴いてくれた。

夏希なつきも、その先輩に怪我を負わされちゃって……四つ葉病院に……」

「うん」

 前からライトを点けた車が走ってくる。

「危ないから」福岡ふくおかくんは私を家側に寄せ、車は通り過ぎた。

 ここは道が細い割には、歩道と車道の間に防護柵はない。こうやって私に気を遣ってくれる姿を見ると、守られているんだなと実感する。

 彼はチラリと私を一瞥いちべつする。

眞野まのさんに怪我は?」

「私は大したことないから。化粧でアザを消せるくらいだよ」

 歩きを進めていくと、遠くに電柱が現れる。壁のように背が高くて、大きい。

「どうしよ……全部、なにもかも……私のせいだ。私がなんとかできていれば……」

 もっと私がしっかりしていればよかった。

「そもそも、奈良栄ならさか先輩をアパートに上げなければ、楽器を壊されることもなかった……」

 私が……私が……。

「もっとしっかりしてれば、よかった……私がもっと」

 自責の念から、自己嫌悪が止まらない。

 こうしていれば、もっと良い結果になったんじゃないか。そんな考えが溢れて、止まらない。受け皿のコップから溢れる水のようにダラダラと。しかし、

「大丈夫です」

 そのたった一言で、その蛇口が締まる。

 彼の足が止まった。

 それに釣られて私も足を止め、顔を上げると、福岡ふくおかくんはこちらを振り返っていた。

「俺がいますから」

 と、笑ってくれた。

「やれることは、全力でやりましょ」

 街路灯が照らすその表情を見て、安堵を覚えた。宝石のような緑の瞳を細める、朗らかな笑顔だから。そして、誰でもない福岡ふくおかくんだから。

「……ほんとに?」

「うん」

「……助けて、くれる?」

「もちろんですよ。それに」

 握り返される左手。

「原因は眞野まのさんじゃないですし。悪いのは、その会社の先輩でしょ。だから自分を責めたら駄目ですって」

「でも」

「今はコンサートをどうにかするのが先決です。こうなった原因を悔やむ前に、まずは必要なものを取りに、眞野まのさんのアパートに行きましょ。時間は待ってくれませんから」

 そう言って、彼は私の手を引く。電柱の手前で止まり、今度は後ろからやって来た車を避けてから、再び歩き出す。

 必要なものとはなんだろう。

 疑問に思いながらも、一秒も動揺を見せず、真っ直ぐ向けてくれたその眼差しを信じよう。

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