どうして

 熱湯は夏希なつきの顔面へ降りかかった。

 その顔を覆った手はピアノの鍵盤を叩く、命より大事なもの。

 その大切な両手を、熱々の湯が濡らす。日に焼けた肌が、一瞬で赤く変色した。そしてその肌に浮き出る白いものが、時間と共に広がっていく。水膨れがところどころできていた。

 これがどの程度酷いものかわからないけど、火傷を負ってしまったことだけはわかる。

「ああぁああぁあああああああぁぁ‼︎」

 喉から絞り出すような叫び声。熱さというよりも、両手の激痛から逃げるように身をよじらせていた。

 目の前で痛ましい肌、熱傷の痛みに苦しむ声と姿を見て気が動転し、呼吸が速くなる。

「どうしよう、どうしよう」

 歯をガチガチと鳴らしながら、必死に声に出して考えた。

 一方、先輩はただ呆然としていた。口をあんぐりと開けて、見開いた目を瞬きするだけ。

「は? は? はあ?」

 なにが起こったのか、理解が追いついていない様子だった。

 どうしてなにもしないの。どうして動かないの。あなたが火傷を負わせたくせに。あなたが夏希なつきを押し倒していなければ、こうならなかったのに。

 彼に無性に腹が立ってくるが、そんなことどうだっていい。

 すぐに夏希なつきに視線を戻した。苦しむ彼女をこのままにしていられない。どうにかしてあげないと。

「や、火傷なんだから、まずは冷やさなきゃ。冷やす……冷やす……氷! 冷凍庫にあったかな……」

 急いで私は冷凍庫を開けた。しかし、こんな時に限って氷がない。なにもない。

「他に冷やすにはどうしたらいいの……」

 氷以外に冷やせるものを探す為に、立ち上がった。足を引いた時に、ピチャッと水音がした。

「あつッ……お湯……」

 電気ケトルに入っていた湯が床に広がっている。それを見て、その視界の隅に風呂場のドアが目に入った。ハッと気づく。

「お湯……シャワー……シャワーの水で冷やせば……!」

 夏希なつきの上半身を抱えて風呂場に入る。

 シャワーヘッドを掴んだ。思い切り蛇口を捻り、出せるだけ水を出す。身を縮める夏希なつきを引っ張り、両腕に水をかけた。

「い、痛い……水がっ、痛い……弱くして」

「ごめん! すぐに弱めるから」

 水圧を弱めると、夏希なつきは少しばかり顔を上げた。

「し、ほり、お願い、顔も……顔も痛い」

「え……」

 夏希なつきの言葉に、彼女の顔をよく覗き込んだ。

 よく見てみると、顔もところどころ赤く爛れていた。腕をすり抜けていった湯が、顔に掛かってしまったのだろう。

「ちょっと我慢してね」

 水が口や鼻に入って、呼吸ができなくならないように気をつけながら、肌を冷やす為に水を掛ける。しかし、これはただの救急処置だ。きちんとした治療を受けさせなければ。

 救急車を呼ぼうと、シャワーヘッドを持っていない手でスマートフォンをポケットから取り出そうとした時だった。

「俺は……俺じゃない、俺じゃないんだ! 俺はなにも悪くないッ。女が勝手に転んだんだ‼︎」

 酷く動揺した様子。跳ぶように彼女から離れた後は、腰が抜けたようだった。尻餅をつき、震える四肢で後退しながら、口は責任転嫁しようと動く。

 テーブルに背中がぶつかると、今度は床を這うように逃げ始めた。カバンを掴み、急に立ち上がる。

 足が空回り、転んでも「俺は悪くない」と繰り返しながら、私達の横をすり抜けていった。

「先輩⁉︎ 待ってください! どこに行くんですか⁉︎」

 奈良栄ならさか先輩、一回も私達のことを見なかった。謝ることもなく、ただ自分の罪から逃げた。

「無責任……最低、本当に最低……!」

 遠ざかっていく足音。彼はもう戻らないだろう。

夏希なつき夏希なつきっ。ごめん、こんなことになるなんてッ……こんな、怪我をさせて、ごめんなさいッ」

 涙しながら謝った。

「し、ほ、り……」

「い、今からすぐに救急車を呼ぶから、もうちょっと我慢してッ。大丈夫、きっと大丈夫だから!」

 震える指でスマートフォンの画面をタッチし、救急車を呼ぶ。

 なんと説明したのか覚えていないくらい、必死に場所と症状を叫んだ。早く来て、早く助けて。繰り返し、そう訴えた。

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