悪魔は笑った
二十日、
もういい加減にしてほしい。そう言えたら、幾分か楽になるのだろうか。自分が情けない。もっと断る勇気があれば。
テレビを見ながら私の部屋の中でくつろぐ先輩を見て、視線を落とした。
告白してきた件だって、特に意識している様子はない。酔った勢いでだったら、正直告白なんてしてくんなと心底思う。
暑いのでアイスコーヒーを用意しようと準備していたら、先輩は「ホットで!」と言ってきた。ここは喫茶店じゃない! と叫びたくなるが、ぐっと堪える。
私は黙って、安い電気ケトルでお湯を沸かす。
テレビの画面が切り替わり、天気予報になった。
「あのさぁ」
「はい」
「二十二日、どうだったっけ? 暇なんだっけ?」
先輩は陽気に言う。
その瞬間、溢れそうになる怒りの感情を飲み込んだ。何回言っても頭に入らないんだ。
大切なコンサートがあると言っても、彼の頭には入らない。コンサートに時間も、情熱も、お金もかかっていて、一年の中で最も重要な日であり、私のフルート人生の中でも、絶対に無視できない日なのだと訴えたい。
でも、
言えない。
私にとってコンサートが大切だと言っても、それに興味のない先輩には理解できない。これが価値観の違いというものなのだろう。
悔しい気持ちを落ち着かせる為に、息を長く吐き出した。
「その日は演奏会……コンサートなんです」
精一杯笑ってみせた。
「へー」
生返事をしながら、彼はチャンネルを変えている。
「……」
「そんなにコンサートが大事?」
「はい?」
予想していなかった言葉に苛つく。
「あのさー。俺、その日以外はもう時間が取れないんだよね。海外出張なんだ。すぐ帰ってくるけど、今より忙しくなるし」
再放送のドラマが画面に流れると、投げるようにリモコンを置いた。そして私の方を見て、困ったように笑う。
「今、返事聞いていい? 俺、しほちゃんのことが大好きなんだ。付き合わない?」
やめて。
いやなの。
「あの、それ、は、今じゃなきゃ、ダメですか?」
血潮が逆流するような感覚と同時に、激しい苛立ちが襲う。そしてあらゆるものを体が拒否していた。だが、勇気を振り絞れず、逃げ回ってばかりの私は耐えるしかない。
もし拒否してしまったら、職場が嫌な雰囲気になるのは目に見えている。気まずくなって、仕事がやりづらくなるのは避けたい。
だからといって、彼と付き合いたいわけでもない。好きじゃないことに気づいたから余計に。
「きっとしほちゃんならオッケーしてくれると思うんだ」
そんなことを言うのは卑怯だ。断りづらくしている。
意志が強い人ならまだしも、私のようにノーと答えるのが難しい人間にとっては、脅迫以外の何者でもない。流されてばかりで、意見を言えないままでいた自分が悪いのだが。
彼みたいに、自分に自信があるわけでもない。
母親みたいに、将来を悲観しているわけでもない。
私はなんて答えたら良いんだろう。
そう押し黙っていると、先輩は立ち上がり、私の前に来る。
座っている時はあんなに小さかったのに、前に立つと大きい——抵抗したって無駄だと本能で感じる。自分より体が大きい人が、怖い。気のせいの筈なのに、目に見える大きさよりも、更に大きく見える。
「ねえ、しほちゃん」
ねっとりした声に聞こえ、不気味で。
「口を開いたらコンサートばっかりだよね。大事なのはわかるけどさ、俺のことも大事にしてほしいな」
近づいてくる。肉付きの良い大きな手が、近づいてくる。
——怖い。
「いやっ!」
思わず頬に触れようとする手を払ってしまった。
「あ……」
まずい。
「ごめんなさい」と言い切る前に、先輩の目を見て背筋が凍り、口が止まる。
「テメエ!」
「ッ!」
急に低い声を大きく出してきて、体が震える。恐怖心が体を駆り立てる。逃げろ、と。
玄関に向かって走り出した。だが、彼の長い腕が私の腕に届き、がっしりと掴んで離さない。そして、そのままベッドに叩きつけるように、体を投げ飛ばした。
「きゃああ!」
壁に頭を打ち付ける。
ベッドに横たわり、目を開けた先には、シャイニーケースに入っている楽器。
好きだと言うくせに私を投げて、乱暴に扱う。きっと先輩は
そしたら彼が楽器を……壊してしまうかもしれない。私はシャイニーケースを抱き締めた。これだけは守らなきゃ。
「大事そうに持ちやがって……お前が本来大事そうに抱かなきゃいけないものは、俺だろ?」
鼻で笑う。
髪が乱れようが構わない。この部屋から逃げなきゃと本能は訴える。ドアに視線を向けた瞬間、今度は頬を打たれた。
「痛ッ」
耳がキーンと鳴る。
遠慮のない力で叩かれた頬が熱く、ひりひりする肌に手を添える。冷たい手が心地良いと感じる間も無く、彼は抱いていたシャイニーケースを奪い取った。
「いやっ! やめてえ‼︎」
伸ばした手を叩かれる。
「こんなモンがあるからいけないんだろ?」
彼は乱暴にシャイニーケースを開けた。
「やめて」
心臓が鳴る。
心臓が鳴る。
「やめて」
心臓が鳴る。
心臓が鳴る。
「やめて! お願い! それがないとコンサートに」
私の言葉に覆いかぶさる先輩の声は、真っ黒な悪意に満ちていた。
「やっぱりこれがなきゃあ、いいんだよな?」
「壊さないで! 本当に本当にお願いだから! 本当にやめて! お父さんに買って貰った……命よりも大切なものなの!! それを壊されたら——」
立ち直れない。
お父さんに買ってもらった二本目のフルート。高校三年生の時に買ってもらった。そして同じ年の十二月、父は癌で亡くなった。
一本目を壊してごめんなさいと、二本目をありがとうと、お父さん死んだらイヤだの悲しみが詰まったフルート。
「こんな金属の塊が命よりも大切なわけねーだろ」
嘲笑う。私を冷たく嘲笑う。
「いや、いやいやいやいや!」
そんな言い方をしないで。あなたに楽器のなにがわかるの!
先輩は不慣れな手つきでシャイニーケースから楽器ケースを取り出し、それを開けた。
もう後がない。剥き出しになる銀色に、歯を食いしばり、思い切り両手を伸ばす。
「邪魔だっつーの」
頭を蹴られた。
それでも私は必死に手を伸ばした。
「ダメ! ダメェェ!」
でも楽器に届く前に、彼は開けた楽器ケースをひっくり返した。
「あ、あああ、あああああああああああ‼︎」
ぐらりと楽器は傾く。冷たい床へ、まっさかさまに落ちていった。
あと少しと、体を伸ばす。
あと少しと、伸ばした手。
その指先に触れないまま、悲しい音を立てて、転がった。その音に耳が悲鳴を上げた。心が悲鳴を上げた。
「なんで」
楽器の繊細なキィは曲がる。
「なんで……ッ」
銀色の管に抉ったような大きな傷がつく。
「なんでこんなことをするんですかッ!」
悔しい。
なにもできなかった。目の前にいたのに、なにもできなかった!
見てることしかできなかった。
悔しくて、悔しくて、初めて人を傷つけたいと思った。
考えるよりも先に体が動く。この人を引っ叩いてやろうと、右手を振りかざした。だが、
「
一瞬、そう言われて躊躇ってしまった。二、三秒という短い間に止まってしまったせいで容易に腕を掴まれ、そして食器棚の方へ投げつけられる。体の衝撃で収めていた皿やコップが揺れて、カチャカチャと食器の触れ合う音が鳴った。
体が、痛い。
心が、痛い。
「ちょっとしか傷ついてねえし」
先輩は身を屈めて、つまらなさそうな目で楽器を見つめる。「ただ落としただけじゃあ駄目かー」と呟いたと思ったら、バットでも持つかのように楽器を握った。
ダメだ。完全に壊される。へし折られる。
助けなきゃ。骨が折れてもなんとかなるけど、楽器はどうにもならない。
必死に先輩の体にしがみついた。
「お願いです、もうやめてください! それ以上傷つけられると直せなくなる……許して、お願い、もう、許して! 楽器はなにも悪くないの! なにも悪くないから‼︎」
「さあ、一発いきましょうか!」
先輩は、ただ楽しそうに笑った。
バットを振り下ろすように、楽器をベッドフレームに勢いよく振り下ろした。
「いやあああああああああああああああ‼︎」
金属の横笛は、針金のようにいとも簡単にくの字に曲がった。
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