純情な男

 お互いに謝り、心を入れ替えてからは、夏希なつきと衝突することはなくなった。喧嘩のしこりが全くなくなったわけではないが、音楽をするのに支障はない。

 本番まで一週間がきった。

 福岡ふくおかくんを見かける時もあった。でも、一度も話しかけることはなかった。

 そして彼もまた全く知らない人のように、私へ目を向けることもなかった。

 賀翔がしょう高校の全ての部活動が終了し、校舎に生徒の影はない。職員室と音楽室以外は真っ暗だ。

 音楽室には、私一人。

 暗闇に包まれる中、音楽室は窓から光を漏らす。周りに気配がない中の広い音楽室は、少し不気味な雰囲気が漂っていた。

 グランドピアノに置きっぱなしのフルート。

 その近くで、トートバッグからいくつかの紙を取り出していく。

 夏希なつきは用事があると言って、職員室に篭っている。終わったら音楽室に来るそうだが、いつになることやら。

 九月になったとはいえ、残暑は続く。一人の為に、勝手に音楽室のクーラーをつけるわけにはいかず、音楽室に籠る熱が暑くて、流れ落ちる汗をタオルで拭いた。

 開けた窓から入ってくる風がとても気持ち良い。虫の鳴き声が聴こえる。鈴虫やコオロギ。他にも名前を知らない虫の声もする。

「よいしょっと」

 数枚の紙を持って、パイプ椅子にどしんと座った。天井に掲げるように紙を持って、目を通す。

『カルメン幻想曲』

 ビゼーの歌劇『カルメン』だ。

 スペイン南部が舞台。

 タバコ工場で働くカルメンという名の女性が酒場で歌を歌い、踊っていた。その歌に魅了されていく男達の中で、唯一、竜騎兵隊の伍長ドン・ホセだけが関心がない態度。そんな彼にカルメンは花を投げつけて去ってしまう。

 実は、ここでホセは、彼女の態度に怒りながらも惹かれてしまっているのだ。

 そんなカルメンが原因で、タバコ工場で働く女工達が喧嘩をしてしまう。

 兵隊達に捕えられた彼女は、ちょうど見張り役だったホセを誘惑して脱出。

 カルメンを逃がしたことで牢に入っていたホセだったが、自由の身になる。

 それからいろいろあって、一度はホセを好きになったものの、気の変わりが早いカルメンは闘牛士のエスカミーリョに恋をしていた。

 出所したホセはカルメンとよりを戻そうとするが、彼女は彼から贈られた指輪を投げ捨てる。

 嫉妬に狂い、逆上したホセはカルメンを刺殺。『ああ、カルメン』倒れた彼女を抱え、泣いた。

 純情な男の悲劇。

 恋が叶わないなら殺すことを選んだ彼の気持ちが、私にはあまり理解できない。殺したら、自分だけのものみたいな思考? 男が考えてることって、よくわからないなぁ。

 そもそも最後が死で終わるなんて残酷だと思うが、ただそう思うだけでは演奏には繋がらない。

 それに、

「そもそもホセには許嫁のミカエラがいるんだよなぁ」

 ミカエラは健気にホセを連れ戻そうとしている。一番可哀想だと思うのだが。

 曲のイメージを作るべく、印刷した歌劇『カルメン』の物語を繰り返し読む。だが、なんだかしっくりこない。なにが足りないのだろうかと頭を捻ってみるが、やはりピンと来ない。

 酒場で歌い、カルメンはホセに投げつけた花だが、この紙に書かれているのはアカシアだ。ちなみに、花は諸説ある。オペラだと、よく赤い薔薇とかを投げてたりする。たぶん見栄えがいいのだろう。

 黄色い花、アカシアとはなんだろう。すかさずスマートフォンで調べた。なんとまあ便利な時代になったものだ。

「花言葉は『秘密の恋』『気まぐれな恋』……ねぇ……」

 数ある花の中で、どうしてこの花を投げつけたのだろう。

 自分に興味を持たなかった男が、今までにいなかったから珍しい、みたいな?

 カルメンはホセになにを見て、どう感じたのだろう。そこに純真な愛が見えたのだろうか。

 私なら危ない遊びはしない。遊びの恋もしない。求めるのは、ただ純真の愛だけ。

「『秘密の恋』と『気まぐれの恋』って、結構どちらを選ぶかで意味が変わってくるような……。カルメンなら『気まぐれの恋』なのかな」

 もしも、の話だ。

 私を純粋に愛してくれそうな人が、もし目の前にいたら。カルメンのように花を投げつけなくても、もっと別の形で彼を求めるのだろうか。それともなにもできずにいるのだろうか。

「……いないなぁ」

 愛している人。

 そう思ってるのに、頭の隅でチラチラと見える福岡ふくおかくんの顔。そして思い出す度に申し訳ない気持ちでいっぱいになって、心が苦しかった。もう思い出したくないのに。

 スマートフォンが鳴る。メールだ。メールと言うことは、きっと彼だ。

 嫌々ながら画面を見ると、その嫌な予感は的中する。困惑しながら読み進めていくと、思わず目を疑った。

「えっ⁉︎ 今日アパートに来るの⁉︎」

 美味しいケーキを買ったから一緒に食べよう。

 こちらの都合を聞かずに誘う言葉が、ずらずらと並んでいた。

「ハア……」

 思わず、溜息が出た。頭を抱えるほどの案件に、顔を紙で覆い、呟く。

「こっちの都合はお構いなし……練習が終わった後なら別に来てもいいけど、全然掃除してないし……急すぎる……」

 ホセのように先輩が私に興味がなかったら、私もカルメンの気持ちがわかっていたのかな。

 ……無理だな。

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