雨の冷たさ
次の日。
駅を出ると、雨が降っていた。
「わー……傘を持ってきてない日に限って雨なんだもんなぁ」
見上げると空は暗く、当分の間、雨は止みそうにない。
雨が降ることで少しは夏の暑さも和らぐかと思えば、湿気も加わって更に蒸していた。これではサウナと変わらない。
「でも、これくらいの雨なら走っていけそう」
それに、そのうち雨は弱まるかもしれないと思い、コンビニでビニール傘を買わずに急いで走り出した。
ギュッと楽器の入ったシャイニーケースとトートバッグを抱き締めて、
来る途中、雨が弱まるどころか強くなり、「こんな予定じゃあなかったのに!」と半べそをかきながら走り抜いてみせた。そのおかげでワイシャツやスカートを絞れば水が出てきそうだ。
来客用の靴箱にヒールを入れる。ハンカチで先にシャイニーケースを拭き終えてから、濡れた体を拭く。
「ビチャビチャだぁ」
あっという間にハンカチが濡れてしまい、水を絞りたいと悩んでいると、視界の片隅に最も気まずい人が映った。
「わっ、
靴箱前を歩く
慌てて靴箱に隠れながら様子を伺った。
「彼女……?」
彼は悩むような顔を、黒いショートボブの彼女に見せている。その眼差しは真剣で、とても重要な話をしているように見えた。——それは、私には一度も見せたことのない顔だった。
すっと心のモヤモヤが引いていくような感覚に。いや、モヤモヤが全体に広がった感じだ。
顔を引っ込めて、靴箱に全身を隠す。
「ハハッ」
彼女がいるなら、私のことなんて構わなければいいのに。
私なんて所詮、ゲームとかでいうモブなんだよね。私に言った言葉も、みんなに言っているものと変わらない。特別なんて価値はない。
視線を下に落とす。
ボロボロになったストッキングで、生徒玄関のタイルの上に立っている。
彼に気づかれないように隠れてるなんて、ああ、凄く惨めだ。
「主人公のヒロインになんて、元からなれないんだよなぁ」
ポタッと、濡れた髪から水が落ちた。
■ ■ ■
それは長い溜息だった。
「しほり」
私達二人しかいない音楽室。
名前を呼ばれたけど、私は楽器に息を吹き込む。
「アンタさぁ、集中力が全くないけど」
更に息を吹き込む。
「ねえ! 聞いてる⁉︎」
とうとう
「……なに」
聞こえてる。
「『なに』じゃなくてさぁ!」
「なんでそんなに怒ってるの?」
そして、手に持つ楽器も冷たい。
一曲通したはずなのに、フルートの管は氷のように冷たかった。普段なら曲を吹けば、温かい息が通り、管そのものが金属特有の冷たさがなくなるのに。
どうして、こんなにも冷たいの?
そんな私に苛立ちが隠せないのか、
「そりゃあ怒るでしょ! 本番まであと一ヶ月くらいしかないんだよ⁉︎」
「……ごめん」
もうそんな時期なんだね。
そう呟いた瞬間、
でも、私はそれをテレビで見ているような気分だった。そんなつもりは全くないのだけど、どこか他人事のように感じていた。
「コンサート、中途半端な状態じゃあ出られないよ」
「うん」
「今のまま変わらないなら、中止にした方がマシ」
「中止?」
「それぐらいしほりの演奏が下手くそってことだよ?」
「そんな言い方しなくても……」
ムッとする。冷たい場所にポッと火がついたかのように。
「するよ! じゃあ、しほりはなんとも思わなかったの? 今の演奏、どう思ったか言ってみなよ!」
窓を見ると、外は雨がザーザーと降っていた。
私は黙った。
雨の音はしない。ただ、時計の針が動く音が耳に入る。
カチカチ
カチカチ
そこに、もう一つの音が加わる。
ブーブー
スマートフォンのバイブ音だった。
「ッ!」
その瞬間、心臓がバクンと鳴り、体が震えた。口を固く閉じ、フルートを握る手に力が入り、更に体を縮こませた。
二回鳴って、止まる。それは電話ではない。メールだ。
「よ……」
よかった、と思わず口に出しそうになった。
スマートフォンがあるトートバッグに一瞥していると、
私はトートバッグの中からスマートフォンを取り出すと、そこには
「先輩……」
それを見ていた
「新しい彼氏?」
そう切り出すと椅子に座り、納得したように笑い出した。顔は笑っているのに、目は笑ってない。
「あー、そーゆうことかぁ」
「……」
「新しい恋に夢中で練習に集中できない、と」
「それはッ——」
しかし、彼女の言葉の方が早い。
「ふむふむふむ。そうですかそうですかぁ」
そう言って、思い切り鍵盤を叩いた。
「ッ⁉︎」
加減のない力で鳴るピアノの不協和音。それはピアノの怒りと苦しみを表しているかのようで、私は
俯く
「音楽、なめんなよ」
低い声。
そして顔を上げて合う目からは、射殺さんばかりに鋭い眼差し。
「別に恋愛すんなって言ってるわけじゃない」
「……」
「やる時はやれって言ってんの!」
誤解してる。恋に盲目で、音楽の練習をしたくないわけじゃない。
「
もう、
「なにを? 惚気を聞けって?」
「違う。お願い、話を聞いて」
私は首を横に振った。そして、離れて行こうとする彼女の腕に向かって、手を伸ばす。
「ねえ、
指先が触れた瞬間、思い切り振り払われた——痛い。痛い、痛いよ。
「え……」
「甘ったれんじゃないよ!」
全身に電撃が走ったようだった。ビリビリと痺れ、目の前が真っ暗闇になった。
甘えるなって、言うの?
つらい気持ちを吐き出すことは甘えなの?
私は……どうしたらいいの?
「なつ、き」
苦しい。暗い。寒い。海の底に沈んでいくみたい。
「今年は初めての満員なの! わかるでしょ? 満員を目指して何年も頑張ってきた。今までの努力を無駄にしたくない! わざわざチケットを買ってくれたみんなに、私達の演奏を聴いて感動してほしい。満足して帰って欲しいの!」
「わかってるよ。私も同じ気持ちだもん」
「じゃあ、なんで集中してないの?」
「ごめん。気をつけるから」
「今さらぁ⁉︎ 遅いよ! 何回も言ってるのに!」
「気持ち、入れ替えるから。だから」
一緒に音楽しよう?
わかった。もう甘えないから、
だから、一緒に音楽したいよ。
「
もう一度手を伸ばす。すると、明らかに彼女はその手を叩き払った。
「あ」
「ごめん、しほり。今日の練習は、これで終わりにしよ? あたし、頭を冷やしてくるから。また明日から頑張ろう」
私に背中を向けたままそう言うと、足早に音楽室から出て行った。
右手が痛い。
ジンジンする。
二回も叩かれた。
二回も、叩かせてしまった。
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