私の不可侵領域



   ■ ■ ■



 八月に入った。

 さすがにそろそろコンサートの練習をしなければ、取り返しがつかなくなる。

 前もって夏希なつきには連絡をした。今日から練習再開をしようと。

 残業を終えた後、一ヶ月ぶりの学校へ行くからか、妙な緊張感に襲われる。行かなくていいなら行きたくない。が、そんなことはいってられない。

 会社のデスクで楽譜の確認をする。音やリズム、フレーズの表現をどう演奏すべきか、再確認する為に読んでいく。今更、演奏を間違えることは言語道断だ。

 そこに奈良栄ならさか先輩が缶コーヒーを飲みながらやって来た。

眞野まのさーん。今からデートしよ?」

「すみません。今日は用事があるので……」

「はあ? 用事?」

 え、機嫌が悪い?

 私から断られると思っていなかったからか、彼は面食らった顔をする。ピクッと顔をひきつらせながら、肩を竦めた。

「しょうがないな。じゃあ、明日は?」

「明日も。しばらくの間、無理だと思います。折角誘ってくれたのに、ごめんなさい」

「えー? 明日も? つまんないなァ」

 つまらない?

 先輩の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった——最初はそう思っていた。

「先輩……」

 実は何度か一緒に食事へ行ったり、遊びに行ったりと親睦を深めていた。

 最初は本当にいい人だった。レディファーストで優しかったし、ご飯を食べに行った時は、いつも先輩がお金を出してくれた。彼が車を運転してくれて、海を見に行ったこともあった。

 だが、三回目のデートくらいだろうか。異変に気づき始めたのは。

 初めはほんの些細なこと。歩道を歩く時は、いつも車道側を歩いていた先輩が、いつの間にか私になっていた。

 それからお金をおろすのを忘れたと言って、支払い全てが私になっていた。最後は「これが欲しい」と強請ねだってきた。

 たまたまだ、偶然だと思っていた。でも、そう思い切れない違和感がずっと心の中で燻っていた。

 今回の件は、折角の先輩からの誘いを断ってしまい、私が悪いと思っている。

 だけど、演奏会に来てくれるみんなが、私の演奏を待っている。その気持ちに応えたい。その為の練習なのだ。

 笑顔を作りながら、楽譜をトートバッグに片付けた。

「すみません。今度埋め合わせをしますから」

 急ぐようにシャイニーケースを肩に掛け、トートバッグを持つ。

 逃げるように先輩に会釈して歩き出した時、彼は急に歩み寄ってきた。

 私の目前で腕が伸びる。壁を殴るような鈍い音。いわゆる壁ドンという奴なのだが、なんだろう。息が詰まるような苦しさが、じわじわと迫ってくる。

「その用事って」

 彼はそう言いながら、顔を近づけてきた。

 嫌な気分がする。周りに助けを求めようと見渡すが、こんな時に限って姿が見えない。みんな、もう帰ったの?

「そんなに大事?」

 彼の吐息が顔にかかる。普段より濃い、ホワイトムスクの香りを吸い込んだ時、ゾワゾワッと身震いした。

 それは彼に初めて抱いた不愉快な感情。

 しかし、それを表に出すことは、今後の会社での生活に支障をきたすような気がして憚られた。押し返そうとした手も引っ込める。

「えっと、その、コンサートがあって」

「コンサート?」

「私、フルートを吹いてるんです。そう、そうだ! 先輩も是非聴きに来てください」

 ニッコリと微笑んでみせた。だが、彼の反応は——

「ふるーと? なにそれ。知らないんだけど」

 溜息混じりに言う。いかにも興味がないといった様子。

「あ、そう、なんですか」

「ごめんねー。俺、そーゆうクラシックっていうジャンル、興味ないからさ」

 そう言って、体が少し離れる。

「!」

 今しかない!

 そう思って、腕を潜り抜けた。

「コンサートが近いから、もう練習しなきゃ……ごめんなさい、先輩!」

 気を悪くしないように笑顔を作る。でも、彼の反応を見たくなくて、腰から深々とお辞儀をした。


 初めて彼は怖いと確信した。


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