第18話 暴走者

「うーん! 今日もいい天気!」


 女の子の明るい声が、冷たくても爽やかな早朝の空気に響いていきました。

 やっぱり晴れた日は気持ちがいいな、と女の子は清々しい気分で体を伸ばします。快活な笑顔は、少しだけ顔を出した太陽にも負けていません。


 彼女の名前は井本いのもとぼたん。十七歳の女子高生です。

 顔つきや性格は子供っぽいとよく言われ、少しドジなところがたまにきずですが、何事にも一生懸命ないい子です。


 今はまだ朝の早い時間。太陽がまだ上りきっていませんが、新聞配達は既に済んでいるような時間でした。

 そんな時間に散歩に出かけるのがぼたんの日課なのです。

 それには彼女の家の愛犬、柴犬のわっふるも同行します。薄茶色の毛並みがふわふわしていて、素朴な瞳の可愛らしい、ぼたんも大好きな家族の一員です。


「わっふる、行くよ!」

「ワン!」


 尻尾を振って応えてくれたわっふるを連れ、ぼたんは元気に出発しました。

 軽いペースで町内を回っていきます。親しいご近所さんに挨拶をしながら、のんびりと朝の散歩を楽しむのです。その人柄からか、ぼたんに向けられる笑顔は少なくありませんでした。

 体を動かすのは頭を動かすより好きな事もあって、この散歩はとても気に入っています。


 ぼたんが家に戻ってくると、玄関前で寝ぼけ眼の女の子に出迎えられました。


「おはよ、お姉」

「あ、ゆうちゃんも起きたんだね! おはよう!」


 ぼたんがゆうちゃんと呼んだ女の子は彼女の妹です。

 少し控えめなところもありますが、お姉さんと違ってしっかり者です。ぼたんにとっても自慢の妹でした。

 見たところ、ポストまで新聞を取りにきた様です。お母さんに頼まれたのでしょう。


「いつもいつも朝から元気だね。もうちょっと声抑えてよ。近所迷惑だから」

「そんなのもったいないよ! ゆうちゃんこそもっと元気出しなよ! 早起きして散歩するとお得なんだよ!」

「……お姉が好きなのは知ってるけどお得って……あ。もしかして三文の徳? それ意味が違うからね? お姉に必要なのは散歩じゃないからね?」

「散歩じゃない? やっぱり走った方がいいんだよね? うん、思いっ切り体を動かさないと運動不足になっちゃうよね!」

「明後日の方向に突っ走らないでよ、お姉……」


 ゆうちゃんの将来を心配していたのに、当人は何故か疲れた顔をしてしまいました。やっぱり体力をつける必要がありそうです。押しつけはよくありませんが、明日こそ誘ってみようとぼたんは思いました。


 ……と、その時です。

 不思議な感覚が訪れてきたのは。






 ぼたんが気づくと一瞬にして周りの景色が変わっていました。

 家の前にいたのに、なるべく長居したくないような気持ちの悪い感じの風景になっています。

 結構前から起こるようになった、エンカウントとかいうおかしな現象のせいでした。これが起きると、家に帰る為には魔物という生き物と戦わなければなりません。

 ぼたんは争いが嫌いです。なるべくなら平和的に済ませたいと思っています。ですがエンカウントでは、戦い以外の解決方法はありません。

 魔界の王様はひどい人です。


 この場所でのぼたんは、ほとんど水着のような露出の多い防具を着ていました。彼女は知りませんが、俗にビキニアーマーと呼ばれるものです。

 武器は棒とトゲトゲの鉄球が鎖で繋がったものでした。彼女は知りませんが、モーニングスターと呼ばれるものです。

 おかげでぼたんは非常にインパクトの強い見た目となっていました。

 ゆうちゃんの方は丸みを帯びた金属製の鎧に、長い槍。派手ではなくてもかわいくてカッコいい姿だと、姉は思っています。

 ただ、この場所を魅力的に思える理由にはなりませんでした。


 朝ごはんはまだですし、わっふるもお腹を空かせているでしょう。だから早く帰りたいのです。

 その為にも、可哀想だけれど倒さなければいけない魔物を見ます。


 今回現れたのは、薄茶色の毛を逆立てた大きな犬みたいな魔物でした。


「あ……ああ……」


 それを確認した瞬間、ぼたんを満たしたのは真っ暗な感情でした。決して登れない深さの穴に落ちてしまったような、諦めにも似た絶望です。


 でも、それを感じていたのはぼたんだけだったようです。


「何? どしたの、お姉」

「ゆうちゃん……あれを見ても分からないの!?」

「え、何が? まさかまた何か変な勘違いしてるの?」


 ゆうちゃんは事態が分かってないのか、落ち込みもせずにドジを責めるような顔で聞き返してきました。


 しっかり者のゆうちゃんらしくありませんが、気づいていないようです。

 こうなっては仕方がありません。

 ここはわたしがしっかりしないと、とぼたんは張り切ります。

 まずは物わかりが悪いゆうちゃんへ、分かりやすいように説明を始めました。


「わっふるがあんな怖い感じに変身しちゃったんだよ!? 魔物だからって倒せないよ! まずは戻してあげないと!」

「いや違うよ!?」


 ゆうちゃんは首を凄い勢いでこちらに向け、激しく否定してきました。

 気持ちは分かります。ぼたんも認めたくありませんから。

 ですが、そこにある現実は変わらないのです。

 まずは正しく認識してもらいましょう。


「だって、あの色の毛並みとかそうじゃない! それに、さっきまであの場所にはわっふるがいたんだよ!?」

「確かに犬みたいで毛色も似てるし、出た場所も近いけど! そんなの偶然だから! わっふるとは関係無いから! 魔物なんだから倒さないと!」

「ううん、倒さなくてもきっと戻す方法はあるはず!」

「無いよ! 元々違うんだもん無いよ! 倒してもわっふるには影響無いよ! いつになったらエンカウントのルール覚えてくれるの!?」

「ゆうちゃん、どうしてそんなに冷たい事言うの!? わっふるも私たちの家族なんだよ!? 簡単に諦めないでよ!」

「お姉こそ話聞いてよ!? あたしも家族でしょ!?」

「このっ、ゆうちゃんの分からず屋ぁ!」

「お姉だけには言われたくない!」


 頑固なゆうちゃんは「倒さないと」の一点張り。全く話を聞いてくれません。

 ここまで冷たいとは思っていませんでした。


 もういい。でも、わたしだけでは諦めない。

 ぼたんは一人でわっふるへと歩み寄ります。


「わっふる……わたしだよ。分かる? 落ち着いて、ね?」

「お姉、そんな事止めてよ! 絶対無駄だから! 絶対通じないから!」

「ううん。気持ちは伝わるよ。だって、どんな姿になっても、わっふるは家族なんだから」

「無理だよ、家族じゃないもん! そもそもそういう問題じゃない……以前に危ないってばっ!」

「ゆうちゃっ……!?」


 ぼたんはいきなり飛び込んできたゆうちゃんに突き飛ばされました。汚い色の地面に尻餅を着きます。

 その直後でした。

 突進してきたわっふるが鋭い爪を光らせたのは。


「きゃっ!」


 ゆうちゃんは姉を庇ったせいでわっふるに爪で引っかかれ、大きな傷を負いました。倒れて体を打ち、ぐったりしています。


「あ……」


 傷ついた妹を見た瞬間、ぼたんの中には罪悪感が膨れあがりました。それと同時に、疑念も生まれます。


 本当にわっふるは戻らないの?


 わっふるはもう、倒さなければいけない敵なのでしょうか。

 ゆうちゃんの意見が正しかったのでしょうか。


「わっふる……もう、本当に、わたしたちが分からなくなっちゃったの……?」

「……そりゃ、そうだよ……だって、最初からわっふるじゃないんだもん……」

「ゆうちゃん、そんな怪我してるのに無理して喋らないで!」


 ぼたんは無理をするゆうちゃんに厳しく注意をしました。

 恐らく姉の身を案じて言ってくれたのでしょうが、それで怪我が悪化しては嬉しくありません。命は大事にするべきなのです。


 そう、ぼたんにとっては、ゆうちゃんも大事な存在なのです。大事な大事な妹なのです。


 このままじゃ、いけない。

 わたしが、救わないといけないんだ。ワガママを言ってはいられないんだ。

 悲しみの中、どちらかを選択する決意しました。


「わっふる……せめて私が、開放してあげるから!」

「……うん、分かった……もうそれでいいから早く倒して……」


 ゆうちゃんの声はかすれて弱々しく、ぼたんにはよく聞こえませんでした。ですが多分ゆうちゃんも応援してくれているのでしょう。そう解釈しました。


 躊躇いは胸の奥に隠し、ぼたんは怪物になってしまったわっふるへと立ち向かいます。

 勉強は苦手ですが、体を動かすのは得意でした。今の高校もスポーツ推薦で入学したのです。争いは嫌いでも、不本意ながら苦手ではありせん。


 わっふるは牙を見せて唸っていましたが、凄い勢いで突撃してきました。動きは速く、爪や牙は鋭く、正に怪物のような攻撃です。

 それでもぼたんは恐れません。

 両手でしっかりトゲトゲの鉄球を、武器を持ちます。そして背中に届くまで大きく振りかぶりました。


 そしてわっふると衝突する寸前。

 躊躇を、気持ちを、振り切るべく誤魔化すべく叫びます。


「うぅっええぇい!!」


 ぼたんはわっふるの顔面へと、思いっきり全力で鉄球を叩きつけました。

 鈍くて嫌な音が響きます。固い物が砕ける感触が伝わります。強烈な打撃を受けた体は地面に倒れて動かなくなりました。


 無意識に力が抜け、鉄球が落ちます。ドシャッと大きい音を立てました。次いでぼたんの体も崩れ落ちます。

 なんとか膝立ちを保ったまま、誠心誠意謝ります。


「わっふる、ごめんね。ごめんねぇ……戻す方法を見つけられなくてごめんねぇ……こんな方法しか取れなくて、ごめんねえ……」

「だから、お姉……間違ってるところが多すぎるよ……」


 ゆうちゃんがか細い声で何かを言いましたが、謝罪に精一杯だったぼたんには届きませんでした。






「ああ……わっふる……」


 姉妹は自宅の玄関先へと戻ってきていました。


 ですが、とても喜べる状況ではかりません。庭に膝を着き、ぼたんは思い出に浸ります。

 散歩して、遊んで、わっふると一緒に暮らした幸せな日々を。決して、もう戻ってこない日々を。

 決して忘れないように、再び胸に刻みつけていきます。


「ワン!」


 空耳が聞こえてきました。

 これはもしかすると本当に空で鳴いているのかもしれません。

 そう思うと自然に涙がポロポロと落ちてきます。


「ワン!」


 またわっふるの鳴き声が聞こえました。もうわっふるはいないのですから空耳のはずです。

 はずです、が、


「……あれ?」


 ふと、ぼたんは違和感を覚えました。空耳にしては、やけにハッキリクッキリと聞こえたのです。

 もしかして……。


 希望を見つけたぼたんは、ガバッと勢いよく顔をあげました。

 ですが、視界は涙でぼやけています。これでは見えません。

 急いでグシグシと顔をこすり、涙を拭ってよく見えるようにしました。


 するとそこには――


「ワン!」


 薄茶色のふわふわした毛並み。可愛らしいクリクリした瞳。怖い見た目ではない、ちゃんとした姿のわっふるがいました。


「わっふるぅ!」

「キャンッ!」


 ぼたんは全速力で走り、思いっきり抱きつきます。わっふるに悪いと思いつつも、勢いを抑える余裕はありませんでした。

 腕の中のわっふるに顔をギュッと押しつけ、思いの丈をぶつけます。


「元に戻れたんだねぇ! よかったねぇ! よかったよぉ! わたしも嬉しいよぉ! まだ一緒にいられるんだねぇ! 今度はずっと一緒だよお!」

「ワン! ワワン! ワフンッ!?」


 わっふるも同じ気持ちなのでしょうか?

 大きく激しく、何度も吠え返してきます。

 そんな鳴き声を聞きながら、ぼたんは温かな体温を感じられる幸せに浸っていました。

 またもボロボロと流れてくるものがありましたが、もう気にしません。


 何故なら、今度は嬉し涙でしたから。






「二人ともー、朝ご飯ならもうできてるから早く食べにきなさーい! ……って……ちょっとゆうちゃん。あの子は一体、何をやってるの?」

「ごめん、お母さん。あたしにもお姉劇場の説明はできない」

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