第36話 大嫌い

 黒ずくめのヴァルデマーと共にベアトリクスはホルシュタイン家に到着した。久しぶりに話すヴァルデマーはあっけないほどいつも通りで、彼女が避けていたのが馬鹿らしくなった。


「最近忙しくてな…今日でひと段落したので、明日は兄上とエリクと一緒にお昼でもどうだ?」


「もちろんですわ、オーロフ様もお喜びになります」


(…ヴァルデマー殿下ってばあの夜はお酒に酔ってらしたのですね。嫌ですわ、わたくしってば一人で騒いでしまって…)


 ホルシュタイン家の玄関に案内されながらぽっぽか熱くなる頬を両手で押さえていると、


「殿下とベアトリクス様っ!この度はこのようなことになり…」


とこの家の当主であるヘルヴィヒ・フォン・ホルシュタインが階段から転がるように降りてきて、二人に頭を下げられるだけ下げた。

 隣にはいつの間にかヘルヴィヒの上品な妻もいてこちらも平身低頭している。二人とも顔色が悪い。青からだんだんと土気色に変わっていく。


「めでたいことではないか、そのように謝ることはない」


 隣の王子はスンとして答えているが、ベアトリクスは全く意味が分からない。


(…?って、マルグレーテ嬢が殿下とめでたくなったのでしょうか…?聞いておりませんが…)


 ベアトリクスが王子をちらりと見上げると、彼は彼女を見てニヤリと笑った。


(ぎゃっ!で、殿下が…笑ったっ!!それも赤髭海賊のように得意げに…嘘でしょう?目の錯覚?幻覚?)


 ベアトリクスが先ほど目撃した異常現象に混乱していると、畏まるヘルヴィヒの後ろにマルグレーテ嬢とクローディアスもバタバタと現れて当主以上に頭を下げた。もう床に付くんじゃないかというくらいだ。


「ベアトリクスさまぁ…」「殿下、ベアトリクス様…妹が大変申し訳ありませんっ」


 マルグレーテ嬢はなぜか半べそである。とうとうベアトリクスはたまらず声を出した。


「あの…どういった状況なのでしょうか?殿下とマルグレーテ様にめでたいなにかがあったのでしょうか?わたくし全くわからないのですが…まさかお二人にお子ができたとか?」




「ベアトリクス様っ!娘を海賊から助けて頂いた上に殿下の妃にとお心配こころくばり頂きましたこと、誠に感謝しかございません。しかしながら…あの…申し上げにくいのですが…実は…ですね、私も昨日ご挨拶を受けて知りましたことで隠していたわけではないのですが…」


 場所はホルシュタイン家の落ち着いた色合いの応接間。程よく品がいいのでベアトリクスは感心しきりだったが、狼公女と言われているベアトリクスが大暴れするのを恐れてヘルヴィヒの声はか細くなって消えていく。

 それを王子がきっぱりと引き取った。ホルシュタイン家の誰もが声を出せなくなったからだ。


「マルグレーテ嬢とエリク殿が正式に婚約する事となった。昨日こちらに挨拶に来たそうだ。友と親友の妹の結婚だ、盛大にお祝いせねばなるまい。めでたい事であろう、ベアトリクス?」


「は…?」


(エリクがなぜ…?)


 そこでベアトリクスははっとした。オーロフは二人の度重なるデートを目撃していて、それを今朝バラそうとしていたのだ。


「ま、まさか熊のエリクっ?マルグレーテ嬢、殿下はどうなさるのよーっ!!」


 思わず立ち上がって叫んだベアトリクスを恐れているヘルヴィヒ夫妻と、ベアトリクスの町娘のような反応に笑いをこらえるヴァルデマー、申し訳なさそうなマルグレーテ嬢とスンとしたクローディアスを前に、彼女は崩れ落ちて床にへたり込みそうだ。


(ああ、わたくしの苦労が…こちらの床のカーペットはふかふかですし沈んでしまいたいですわ…)


「俺にはベアがいるから良い。いろいろ手間をかけてすまなかったが、俺はそなたが愛しいのだ。あの仮面舞踏会の言葉は戯言ではない」


 ヴァルデマーが無表情のまま突然不意打ちの告白をし、その場は謝罪の場から一気に二人の成り行きに注目の場となった。


「からかわないで下さいませ!それもこのような場で…っ」


 真っ赤になったベアトリクスはがたんと椅子を押しのけて逃げの体制をとったが、隣に座っていたヴァルデマーがぎゅっと右手首を握って走り出そうとするベアトリクスを止めた。するとすぐさまヴァルデマーの右頬にベアトリクスのスナップの効いた左手が叩き込まれた。

 バチーンという音が部屋に派手に響き、その場が一気に凍った。王子の頬が一瞬で真っ赤に腫れあがる。口の中が切れていないか心配なレベルだ。


「殿下など大嫌いですわっ」


 今度こそベアトリクスは部屋から飛び出した。




「エ、エリクー!なんてことをしてくれるのですかっ!!」


 怒り狂ってドアもノックせずに部屋に飛び込んできたベアトリクスを、平然とエリクは迎えた。スタツホルメン公国の次期公主に相応しい客間をあてがわれている彼は、彼女の怒りを覚悟していたらしく本を机に置いて椅子から立ち上った。


わりぃな、ベア。昨日ホルシュタイン家に挨拶に伺った。マルと婚約したんだ」


「…な、なっ!なんでそのような…ゆっくり本を読んでいる場合ではありませぬ。じゃあ、『ヴァルデマー殿下に相応しい婚約者計画』はどうなるのですかっ?あれほど苦労したのに…っ」


 こんな時にのんびり本を読んでいたエリクが憎らしくてベアトリクスは詰め寄ったが、殺気を感じたエリクは机の向こうに避難した。


「だからわりいって言ってるじゃねーか!大体、おまえが…他人の気持ちをわからな過ぎなんだよ!マルはヴァルデマー殿下を全然好きじゃなかったし、その殿下は明らかにおまえにぞっこんじゃねーか!そんな男を他人に勧めるな、マルに失礼じゃねーか!おまえのそういうとこだよ!」


「なんですって……ぇ?殿下がわたくしにぞっこん、って、どういうことでしょうか?」


「現在進行形でずっと前からおまえを好きだと思うぞ」


「そ、そんな…困りますわっ!」


 二人が机の周りをぐるぐる追いかけっこしていると、開けっ放しのドアをノックする音が聞こえて二人がピタリと止まった。


「何が困るのか、聞かせてもらおうか」


 先ほど殴られた上にホルシュタイン家に置いてけぼりにされたヴァルデマーが、右頬を布で冷やしながらドアにもたれて立っていた。普段であればカッコいいのに、右頬を腫らしておりなんとも様にならない。怒っているのか眉間には深い皺が刻まれている。


(きゃあ、今まで見たことないくらい怒ってますっ…!そういえば思いっきり殴ってしまいましたわ…)


「痛かったです、わね…?」


「もちろん」


「ま、まさかおまえ、殴ったのか?殿下を?グーで?」


「いや、パーだが」


 王子は何事もなかったかのように頬に当てた濡れ布を使用人に渡し、扉を閉め優雅に椅子に座った。頬は武器で殴られたと言われても信じられるくらいに腫れあがっていた。

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