第17話 沼

「そんなにデーンに戻るのが嫌ならエリクはこのままスタツホルメン公国にいたらいいではないですか!わたくしは一人でも戻りますからっ!!」


 おでこから鼻まで白いラインが入ったお気に入りの栗毛の馬に乗ったベアトリクスは怒っていた。

 公国に里帰りして2か月、夏祭りはとっくに終わっている。その上、今はいとこ達10人ばかりと一緒に北の保養地に向かっている。そこで1週間程滞在する予定だ。

 そんな今さらの旅行にベアトリクスは苛立っていた。


「デーンが嫌だなんて言ってないだろ?ベアが柄にもなく沈んでるから皆が心配していろいろ企画してるだけだ。周りの気持ちも汲めよ!」


 馬上で白熱する二人を見守るいとこ達は苦笑いしている。以前はいつものことだったが、それがまた見られて懐かしくも嬉しい。エリクと同じくベアトリクスがデーン王国に帰って欲しくないという気持ちがあった。

 女性は皆馬車に乗っているが、ベアトリクスは当然のように馬上の人だ。彼女がお気に入りの馬で遠出したいと言ったばかりに、エリクがいとこ達を巻き込んで企画した小旅行だった。


「……」


 いつもなら一を言えば十が帰ってくるのに、黙り込む馬上のベアトリクスをエリクは心配そうに見つめた。

 彼女は銀髪を後頭部できっちり朱い紐でしばり、東方の騎馬民族からルーシを通じてスタツホルメン公国に伝わってきたばかりの朱色の上着と黒のゆったりしたパンツという軽装に身を包んでいる。

 貴族の子女はそのような野蛮だとされる民族服を嫌っていたが、ベアトリクスは目新しいものが好きな上に、機能性を重視して何でも取り入れる。要するに気取らない。そこも公国におけるベアトリクスの人気の一つでもある。


 異国の衣装が似合うベアトリクスをうっとり見るエリクのそばには友人のオーラヴがいて、不憫な恋を見守っていた。


(エリクってば本当に不器用な…!今がチャンスなのだから告白すれば良いのに…ベアトリクス様はエリクに一番心開いてるし、勝算がないわけじゃないと思うんだよなぁ)


「まあまあ、お二人とも。せっかくのいい気候です、楽しみましょう!」


 オーラヴが朗らかに言う通り、今は一年で一番いい季節だ。スタツホルメン公国はデーン王国より北に位置するが、暖流の影響で比較的暖かい気候帯にある。そうはいっても冬は雪に閉ざされることもあり、家に籠る事が多い。

 その分、夏の自然を楽しむのだ。

 公国には自然享受権という考えがあり、誰の領土・敷地であっても自然を楽しむ権利が守られている。常識の範囲で果実を採ったり、薪を採ってキャンプしたり通り抜けたりできる。


「…そうね、オーラヴの言う通りです。エリク、ごめんなさい。わたくしの為に皆が来てくれているのに我がままを言ってしまいました。さあ、気持ちを入れ替えてこの旅行を楽しみましょう!」


 公女の宣言で一気に皆が盛り上がったが、エリクはベアトリクスのカラ元気が気になって仕方なかった。




(わたくしったらダメね、周りに気を使わせるなんて…)


 ベアトリクスは小さな頃からよく訪れている沼地のほとりに一人でいた。ロッジから歩いて結構あるので皆馬で来るような場所だ。


 彼女はヴァルデマーの事件以来気が滅入っていた。

 王子がベアトリクスの傷を気にかけており、申し訳なさそうな風情でいるのが嫌だった。彼女はスタツホルメン公国の為に仕事しただけで、彼の為に傷を負ったわけではない、はずだ。そうはっきりと言えない自分に腹が立つのだ。

 そういったわけで、デーン公国では王子を徹底的に避けた。もし謝られてもなんと答えたらいいのかわからない。

 

(エリクに勧められて里帰りしてみたのですが、どうもいけませんわ…)


 公国に帰っても憂鬱は変わらない。

 ベアトリクスは森の切れそうなほど鮮烈な空気を胸深く吸い込み、深く呼吸した。この沼で一人ぼんやりしているうちに考えはまとまってきたように思う。


「はあ…わたくし伯父様をあんなに大好きだったのに!お母様、わたくしってば本当は面食いの浮気者なのかしら?だって、殿下が顔だけの男性だと思っていたら違うんですもの…」


 沼に聞いてももちろん返事は返ってこない。母親が生きていて欲しかったと心底思う。


 目を閉じるとデーンの城で見かけるヴァルデマーの冷たい表情が目に浮かんだ。スンとした彼の表情が自分を見た途端に困ったような、もの言いたげなものに変わる瞬間、ベアトリクスの胸に棉のようなもさもさしたものがいっぱいになって苦しくて逃げたくなる。相手はただ贖罪しょくざいの気持ちでいるだけなのに、だ。


(うーん、これは…わたくしが殿下を好きになっている、ってことですわ。あのようにわたくしの母の身分の低さで結婚を拒否した方など…)


 どう考えても実りがない恋だった。もし、万が一恋が叶ったとしても、二人の間に生まれた子はオーロフ王子のような弱い立場に追いやられるのだ。

 あと2年は彼の側にいられるのが嬉しい反面、ヴァルデマー王子に恋人ができたら我慢できるかと自問自答する。


(はあ、これも運命です。前向きにとらえましょう。そうよ、殿下に素敵な恋人ができたら諦めもつくわ。しかし伯父様といい殿下といい、わたくしの恋はいつも叶わないものばかり…)


「お母様、とりあえずデーンでできることをしますわ。その後は…」


 ベアトリクスの目からふいに涙がこぼれた。泣くことなど滅多に無いのでハンカチなど持っていない。


「困ったわ…」


 涙の痕を付けたままロッジに戻ったらエリクに心配をかけてしまう。彼女は誰もいないのを幸いスカートをめくって下着で涙を拭こうとした、その時。


「ベアトリクス、どうした…」


 声のするほうに目をやると、そこには馬の手綱を手にしたヴァルデマー王子が目を見開いていた。肩を切られた時でさえ歯をくいしばって泣かない彼女が涙を見せているので、彼は酷く焦った。


「何かあったのか?」


 彼は相変わらずの無表情だが、速足でベアトリクスの側に寄りハンカチを取り出して涙を拭った。ここに彼がいるのも驚きだったが、そのしぐさがとても優しかったのが意外で彼女の涙は引いた。

 

(ちゃんとハンカチを持っているのですね…さすが王子ですわ。しかし、こんな風に女性の涙を拭いてくれるタイプではないはず…)


「殿下、なぜこちらに?まさか沼の霊、ではないですよね…」


 ベアトリクスは涙を拭かれながら彼を見上げて質問したが、後は自分で拭けとばかりに王子はハンカチを彼女の手に押し付けるように渡した。


 久しぶりに真正面から見る彼の表情は相変わらず冷たい。まるで石ころを見るかのような深い緑の瞳にますます彼女は彼が自分をなんとも思っていないと確信した。それどころか身分の低いベアトリクスを下げずむ気持ちを隠しているのだろう。


「父に迎えに行くよう散々言われて、な」


 本当は自分がいてもたってもいられず連れ戻しにスタツホルメン公国に来たのだが、彼は放り投げるようにそう答えた。その嫌々来た様子で彼女の心は固まった。


(殿下はわたくしとの婚姻を早く解消したいのだわ…せめて嫌われないように致しましょう)


「お手紙を頂けたらすぐに戻りましたのに…こんな山奥までお忙しい殿下を越させてしまい申し訳ございません」


 不思議な異国の服を着たベアトリクスが可愛くて見とれていた王子は、照れ隠しに黒の帽子を深くかぶり直した。


「いや、いい気分転換になった…で、いつまでここにいるつもりだ?」


 明らかに今すぐにでも帰りたそうな王子を前に、ベアトリクスは考えた。


(一週間程ここに滞在する予定でしたが…先にわたくしだけ帰ればいいわ。久々のいとこ会ですしわたくしがいなくとも皆は楽しめるでしょう)


「わたくしは明日帰ります。今日はもう遅いので殿下もこちらにお泊りになりますか?」


「…うむ」


 ヴァルデマーはベアトリクスの手を取り馬の上に乗せ、自分は手綱を引いた。

 暗くなってきたこの沼地にいつまでいるかと聞いたが、無理矢理旅行を切り上げさせるような男だと思われたことにショックを受けて黙り込んだ。

 泣いていた理由とか肩の傷の調子、里帰りがなぜこんなに長引いているのかとかいろいろ聞きたいことはあるのに、だ。

 2か月ぶりの彼女が確かに側にいることに緊張し、何を話したら最も適切かわからない。


「殿下は馬に乗られないのですか?」


 ベアトリクスが聞くと、


「俺はいい」


と彼はあっさり断った。

 二人乗りなどしたら舞いあがり、まぬけな顔を彼女にさらすだろう。彼はそう考えて心底ぞっとした。

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