9 ヘーゼルの瞳

 ビニール袋をゴミ箱に捨て、透は新太よりも先に教室に戻る。

 午後一番の授業は移動教室だ。準備のため、透は新太との会話を早めに切り上げた。

 すれ違う生徒が委縮した様子で早足になる光景にもそろそろ慣れた。そもそも、事件前から好奇の目を向けられる機会ばかりだ。思い返せば、自分を纏う環境は大きく変化していない。


「ねぇ‼」


 たまに、こうやって大声で背後から声をかけられることもあった。大抵は、くだらない言葉をかけられて終わるから気に留める必要もない。


「秦野?」


 しかし振り返って見える姿を確認すれば、挑発してきたのが珍しい人間だということに驚く。彼女は握りしめた拳に力が入りすぎて肩が強張っていた。

 ブロンドに輝く三つ編みは彼女のトレードマークになりつつある。長身で、陸上選手の如くすらっとした体躯の彼女は秦野はだのサシャ。透と同学年で、生徒会の副会長も務める学年一の秀才だ。成績は常にトップで、運動神経も申し分ない。芸術面においてもコンクールに入賞するなど素晴らしい結果を残してきた。


 パキスタン人とカナダ人の間に生まれた彼女は、幼い頃に両親を亡くし、当時カナダにいた現在の両親に引き取られて養子となった。両親はどちらも日本人のため、小学生の頃から日本で過ごし、彼女自身もほとんど日本での記憶しかないという。

 透とは一年の時にクラスメイトだった。真面目で誠実な彼女は、持ち前のリーダーシップが評判で学年でも安定した人望がある。人を責めることも好きではないようで、ゴシップにも興味を示さなかった。

 透のキス事件に対しても無関心を貫き、学年で唯一、今に至るまでそのことを蒸し返してきたことがない。

 真面目だがさっぱりとした性格の彼女とは波長が合い、透もクラスメイトの時はよく話していた相手だ。


「何か用?」


 けれど、透のことを呼び止めた彼女の表情にはいつもの余裕はなく、眉は怒ったように上がり、頬はわなわなと震えている。彼女が学校でここまで感情を露わにした表情を見せたことはなかった。その理由はなんとなく透けている。透が問うと、サシャは案の定彼に怒りをぶちまけた。


「どうしてくれるの⁉ 透くんが鍵を失くしたせいで私まで犯人だって疑われてるじゃない! 今朝のポスター見た? もしあれがSNSにでも載せられたら、私の未来に不利になりかねない。ううん。ネットに載らなくったって、誰かが写真をずっと持っていれば永遠に汚点として残る。私のこれまでの努力が台無しじゃない‼」


 つかつかと透に詰め寄るサシャは、大きな瞳で彼のことを睨みつける。


「桜守くんが破ってくれたけど、だからと言ってなかったことになんてならないんだからね‼」


 サシャは今朝、掲示板の前から散っていった生徒たちの姿を思い出して恐怖を表情に滲ませる。


「最悪なのが、私に投票してた生徒がいたってこと……‼ もう、これで、次の生徒会長は無理。殺人者に投票してくれる生徒なんていないもの。私が欲しいのは、殺人者への投票なんかじゃなかったのに」


 両手で頭を抱え、サシャは青ざめたまま項垂れる。灼熱の太陽から一気に氷点下へと移行する彼女の情緒のふり幅に、透は目を伏せた。


「悪い。こんなことになるなんて、思いもしなかった。秦野には迷惑かけたな。ただ、落とし物を拾ってくれただけなのに」

「そうだよ‼」


 サシャは目を見開いて勢いよく顔を上げる。


「完璧だった学校生活がこんなに簡単に綻んじゃうなんて……。ひどいよ、透くん……!」

「ほんと悪い」


 サシャの目尻に涙が浮かぶのが見えた。透は彼女の瞳を見つめたまま静かに謝罪の言葉を告げる。


「透くんが……余計なことするせいだよ……」


 じんわりと滲んだ涙がぽろぽろと頬を流れていく。両手で顔を覆ったサシャは、ぶつぶつと透への恨み節を呟いた。


「生徒会長になって、大学に奨学金で入って、留学して、宇宙飛行士になって、やりたいことがいっぱいあったのに……もうこれじゃ無理だよ……容疑者を入学させたい大学なんてないし、例え上手くいっても、誰かがこのことを言いふらして炎上するんだ……それで私の未来は絶たれる……永遠におしまいだよ……」


 透は彼女の声を聞きながらポケットを探る。思った通り、タオルはそこにあった。


「両親になんて言えばいいの……私のこと、期待してくれてるのに……これじゃ期待に応えられない……嫌われちゃうよ……私を引き取ったこと、絶対後悔する……」

「そんなことないだろ。秦野はあくまで第一発見者の一人だ。それに、秦野は自慢の娘なんだろ? 前に俺の母親が秦野の母親と話したって言ってたけど、娘のことが誇らしいって話ばっかりしてたって」

「透くんには分からない……分からないよ‼」


 タオルを差し出されたサシャは、乱暴にタオルを受け取って再び声を荒げる。


「透くんのこと、他の子とは違うなって尊敬してたのに……‼ とんだ裏切りだよ! こんな失態、許せない……‼ ばかみたい。私、ほんと……ばかみたいだ」


 受け取ったタオルを顔に押し当て、サシャは鼻をすすった。

 廊下の真ん中ですすり泣くサシャのことを、昼食を終えて教室に戻っていく生徒たちがちらちらと見やる。透は彼らの眼差しから逃れようと、サシャを移動させるために肩に触れようとした。


「秦野、ここだとちょっと目立つ……」

「やめて‼ 同情なんていらないんだから‼」


 サシャは肩を回して彼の手を避けながら透の声をかき消す。


「今日、事情聴取があるの。もう終わり。鍵を拾った私のこと、警察は絶対に信じてくれない!」

「秦野──」


 ちょっと落ち着け。

 そう言おうとした矢先、透の視界にぼやけた影が近づいてくる。


「おい、サシャ。透と何を話してるんだ?」


 新太だ。ぽかんとした表情のまま透とサシャのことを不思議そうに交互に見やる。


「なんでもない。桜守くんには関係ない」

「関係ないことないだろ。俺だって超大雑把に見れば関係者みたいなもんだ」

「強引すぎるだろ」


 新太の言い分に呆れた声を出す透にはお構いなく、新太はサシャの隣に並んでタオルの下に隠れた彼女の表情を窺おうとする。しかし透に目線で窘められ、新太はスッと背筋をまっすぐに戻す。


「秦野は今日、事情聴取を受ける」


 透がサシャの代わりに事情を話すと、新太は合点がいったように唇をすぼめた。


「なんだサシャ。聴取が怖いのか? いっつも堂々としてるお前でも、流石に怖いことだってあるか」

「ちょっと新太」


 無神経な発言に思えた透が語気を強めると、新太は彼にだけ見えるようにウィンクする。あまりに拍子抜けする態度に意表を突かれ、透は一度口を閉じた。


「サシャ。大丈夫だって。サシャにはアリバイがあるだろ? ちょうどあの時、天文部の活動をしてたらしいじゃん。部長のお前が皆と一緒にいたことは、部員たちが証言してくれるはずだ」


 新太は明るい声色で笑いかける。サシャは顔を上げず、黙ったままだ。


「天文部は三階で工作をしてた。トイレとかに行った帰りにでも鍵を拾ったんだろ? サシャは透がメディア室あたりにいるんだろうと察した。部活動の時間だからな。それで透たちのところに行ったなら、それまで部活動してたサシャは先生を殺せない。この事実を疑う必要なんかあるのか?」

「……………………ない」


 かなりの間を開けて、サシャは小さく頷いた。


「な? だからいつも通り堂々としていればいいんだよ。変なこと言ってくる奴は学校にはいるかもしれない。でもそんなの気にすんな。サシャがやってないって知ってる生徒も多いんだ。悪いところばっかに目を向けんな。そっちの方が少数派なんだからさ。大多数の生徒はサシャがするわけないって知ってるって。それは警察にも伝わる。サシャは容疑者から外れるよ」

「……………………うん」


 サシャの声はほとんど聞こえなかった。タオルの繊維に埋もれた返事をした後、サシャはぐしぐしと顔を拭く。


「ごめん、透くん。タオル……」

「いいから。もうそれあげるし」

「ありがとう……」


 サシャはタオルを顔から離し、控えめに透のことを見上げた。


「桜守くんも、変な気を遣わせてごめんね」

「いや別に、気を遣ったわけじゃ」

「私、怖くて」


 新太の声を遮り、サシャは赤くなった目元を二人に向ける。


「先生が亡くなったことは悲しい。でも、それ以上に、自分に向けられる目が怖かったの。集会での先生の追悼でも、自分のことばっかり考えてた。そんな自分もちょっと嫌だった。でも、どうしても怖くて無理だったの。だから」


 サシャはちらりと透のことを見やり、恥ずかしそうに目を逸らした。


「透くんのことを責めちゃった。ごめん。私、すごく利己的なの。自覚はあるの」

「気にしなくていいよ。巻き込んだのは事実だし。責められて当然だ。むしろ、はっきり言ってくれて嬉しい」


 透は肩の力を抜いて鼻から息を吐く。


「事情聴取、何か新しい情報があったら教えるね」

「ああ。ありがとう、秦野」

「せめてもの償い。と、タオルのお礼だから」


 サシャはもう一度タオルで目元を抑え、気合いを入れ直すように深呼吸をする。


「じゃあ。私、トイレ行くから」


 そう言いながら、サシャは教室がある方面とは反対側へ足を急ぐ。


「こりゃ、早いところ解決してあげないといけないな」


 サシャの背中がトイレに消えていったところを見つめながら、新太がさり気なく呟いた。


「早く解決したところで、秦野の傷が塞がるの?」


 新太の胸の奥で炎がメラメラと燃えているような気がした透は温度の低い声を出す。


「迷宮入りするより楽になるだろ。お前はどうなんだ?」

「俺が無実だって信じてるんでしょ?」

「それはもちろん」


 新太は透と目を合わせてニッと笑った。


「サシャはともかくとして。他の生徒の様子も確認しといた方がいいかもな。特にポスターに名前があげられてた人間はさ。瀬々倉先輩、かぁ。学校来てんのかな……」


 困ったように眉をひそめ、新太は斜め上に黒目を向けて考え込む。


「なぁ透。そもそもほかに心当たりってないのか? 犯人候補じゃなくてもいい。情報を知ってそうな奴とか」


 そこまで言いかけた新太は、ハッとして急いで視線を透に戻す。


「一人、いるけど」


 透は新太の瞳に見える焦りに気づきつつも答える。もう次に言う名前を新太は分かっているようだった。


「それってまさか」

「そう。東泉とうせんだよ」


 予想通りの名前が透の口から聞こえ、新太は情けない顔をして笑う。


「やっぱ、あいつに頼らないと駄目かなぁ?」

「学校随一の情報通だからね。事件のことを調べたいなら、避けて通るのは難しいよ」

「だよなぁ」

「でも、まぁ協力してくれるんじゃないかな。東泉だって頼成先生には世話になったんだし」

「そうかなぁ」


 あまり期待できない様子で声を濁らせる新太は口を尖らせた。


「まずは口を聞いてもらえるか、が問題だけどな」

「なに。新太、東泉となにかあったの?」

「特にはないけど。あいつ、俺のことあんま好きじゃなさそうだし」

「はは。その推測は間違ってないかも」

「ほらぁ!」


 哀しそうな声でこちらを指差し、新太は気の抜けた表情を真正面から透に見せる。不意打ちでひどく大袈裟な仕草を見せた彼の動きが可笑しくて、透は久しぶりに声を出して笑った。

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