第9話 「引き金」

 石田はイラついていた。

 午後のオフィスはブラインドの隙間から陽が差し、まどろみを誘うほどうららかだったが、石田の心は晴れなかった。


 視線の先には、デスクにじっと座る木下の姿がある。


 あいつはヤバイ。

 この3ヵ月で、それが社員の間の定説になっていた。

 木下の奇行はたびたび目撃され、それらは全て三課の責任者である石田の耳に入ってくる。しかも、その原因は、他ならぬ石田なのだから始末が悪い。


 ったく、ヤワな野郎だ。石田は心のなかで毒づく。

 お前がおとなしくヤラレ役になってりゃ、会社はうまくいくってのによ。


 石田は今まで、毎日のように木下をいびってきた。細かいミスを執拗に探し、時には言いがかりに近い形で木下を責め続けた。

 多くの人間をまとめるためには、こういった役割が必要不可欠だというのが石田の持論である。それは見せしめのためという意味もあるが、それよりも人は自分より不幸なやつがいると安心する、というのが一番の狙いであった。

 はっきり言って、標的は誰でもよかったのだ。


「おぉい! 木下ぁ!」


 イライラに抗しきれなくなった石田は、木下を呼びつけた。


「…なんでしょう」


 木下が振り返る。その顔は青白く、目は落ち窪み、ほとんど生気が感じられない。くそっ、キチガイめ。

 背中に冷たいものが走るのを感じながら、それを誤魔化すように、心でつぶやく。


「お前よぉ、仕事がねえんだったら掃除でもなんでもしたらどうなんだ? あ?」


 実際、奇行の目立つ木下を営業に出すわけにもいかず、今は事務所で飼い殺しのような状態が一週間ほど続いている。それを監視するため、石田はこの狂人と二人で事務所に残っているのだ。

 と、木下は無言で立ち上がり、ゆっくりと石田に近づいてきた。


「ん? なんだぁ? なんか文句があんのかぁ?」


 不安を気取られないように、石田は強い口調でそう言った。

 しかしデスクの前までやってきた木下は、なにも言わずうつむいてただ立っているばかりである。


「掃除だよ、掃除。それぐらいできんだろーが!」


 内心ほっとした石田は、そう言い捨てると手元の書類に目を落とす。

 言われた木下がゆっくりときびすを返し、無言のまま事務所のドアに向かって歩いていくのが目の端に見える。その様子は石田に、学生のころ観た映画「ゾンビ」を連想させた。


「返事もできねーのか、このキチガイ野郎が!」


 不気味な思いに囚われた自分を鼓舞するように、さらにキツイ言葉で罵る。

 それが引き金だった。


 石田は、なにかイヤな視線を感じてふと顔を上げた。目の前に木下が立っており、石田を見下ろしている。


 そのとき、石田は木下の顔から目を逸らせなかった。違和感と恐怖と嫌悪、それらがない混ぜになった不思議な感覚で、魅入られたように木下を見つめる。

 石田が視線に気付いたとき、木下は真っ赤な口をのぞかせ、嬉しそうに、ニタリ、と笑っていたのである。

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