その純潔、売約済みです!
未唯子
一部.第1話.始動
違う誰かになりたかった。そう考える人は割と大勢いるのではないかと思う。しかし一度自分として生を受けてしまえば、それはどだい無理な話だ。
だから
史奈の目の前にいる牛ほどの大きさの猫?は「ミケだ」と、姿にそぐわない可愛い名前を名乗った。
「み、け?え、ちょ、ちょっと待って……変な夢……」
夢を夢と分かったまま第三者視点で見ていることは往々にしてあった。だから今回のこれもそういう類いのモノだと思ったのだ。しかしミケは「夢ではない」と大きな口を裂くように開いた。
「ああ……はぁ……。で、なんでしたっけ?」
こんな意味不明な夢を見るなんて、私ってば相当疲れているなと史奈は思った。次の休みには体を労ってやった方がいいかもしれない。そんな風に明後日のことに思いを馳せる史奈を嘲笑うかのように、ミケは「明後日のことなど考えても意味がないぞ」と心の内を読む。そりゃ夢の中ならば他人も結局は自分なのだ。心を読むもなにもないだろうと思うが、史奈は漸く恐怖を感じ始めた。
「オマエにとっても良い話だと思うが?」
と、ミケはザラつく舌で史奈の顎を舐めた。夢とはこんなにもリアルな感触だったろうか。史奈は嫌悪感に体を震わせた。これは夢ではないのかもしれない。
「一年だ。たった一年。違う世界で生き残り、かつ純潔を守ればいいのだ」
そうすれば元の世界に戻るとき、オマエの望みをなんでも叶えてやろう、とミケは先刻告げた内容を再び史奈に言い含めた。
「あの、……そもそも私の純潔は既に守られていないのですが?」
史奈は言いづらそうに事実を告げる。怒らせてしまうかもしれないが、これはハッキリとしておかなければいけない。しかし史奈の考えに反し、ミケは「そんなことはどうでもいい」と歯牙にも掛けない。ミケ曰く現実世界でどれだけヤリまくっていようがトリップ先では処女に戻るらしかった。
そのミケの言葉に史奈は自分の初体験を思い出す。大好きな人との思い出ならば"どうでもいい"と一蹴されたことを悲しめたのだろうか。
史奈の初体験は今から十数年前、彼女が高校一年生のときだ。相手は知り合い以上友達未満の子の彼氏。みんながかっこいいって言うからそれほどタイプでなかったけれど、史奈から「内緒で連絡先を交換しよう」と迫った。
夜に連絡があって、お風呂あがりに自転車を漕いで向かった呼び出された先の公園で雑に体を重ねた。こんなもんかと思った。幸せそうなあの子の彼氏とセックスをしても史奈は幸せを感じられなかった。みんなが口を揃えて「いい」って言ってたセックスは退屈だった。だから史奈はミケに「どうでもいい」と言われても、"たしかに"としか思えなかった。
「オマエ、なにを悩んでいるんだ?」
待てども待てども首を縦に振らない史奈にミケは苛立ち始めた。声が一段と低くなり、まるで唸り声のようだ。
「これは破格の条件だぞ?今日のオレ様は気分がいいからなあ。酷いときは現実世界に帰ることを最初から許さないことだってある」
ミケの正体や目的は一切分からない。この生物の言うことを素直に信じるならば、ただの暇潰しや気まぐれでトリップやら転生やらをランダムに選んだ人へ行っているらしい。しかもミケの好き嫌いや機嫌でトリップ先や諸々の条件をコロコロと変えているようだった。
「この前の雄は早々に死んでしまってなぁ。あまりにもつまらなかったから、オマエには優しくしてやろうと思ってな」
ミケは「オレ様は慈悲深いからなあ」とフワフワの胸毛を見せつけるようにふんぞり返った。そんな彼?の言葉を聞いた史奈は"死ぬ可能性がある"という事実に直面する。それは現実世界でもそうなのだが、トリップ先が命の価値が軽い無法地帯ならばその危険性は桁違いであろう。
「あ、の……私ってどんな世界に行かされるんですか?」
と、問うた史奈はもう行くこと前提で話が進んでいることに気づいていない。
「それは分からん。行きたい世界に飛ばしてやることもできるんだがな。その願いも聞いてしまえばさすがにオマエを優遇しすぎだろう?」
漫画やゲーム、映画や小説の世界かもしれないし、現実の過去の世界かもしれない。決まっていることは"自分の意思で現実世界に帰ってくることができない世界"ということのみだ。
ミケはクァと大きな欠伸を一つこぼした。史奈とのやり取りに飽きてきたようだ。その証拠にミケは今すぐにでも史奈のトリップを実行しようと、話を畳にかかる。
「とりあえずオマエは一年間、命とその純潔を守ればいいんだ。そしたらこっちに帰ってくるときに、顔もスタイルも、金も職業も、全部オマエの望み通りにしてやる」
違う誰かになりたかった。しかしそれはあり得ない願いだ。だけど史奈は幸か不幸か、その権利を手に入れてしまったのだ。
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