第36話 他人の電話

「理央は聡子の家、知ってる?」

 洋が頼んだモンブランを持て余し気味の理央は顔を上げた。

「知ってる、けど」

「教えてもらえる?」

「聡子ちゃん家に行くの? 奏くんて思ったよりフットワーク軽めなんだね」

 さっと理央の顔が翳る。

 自分はおかしなことを言っただろうか、と会話を振り返る。大丈夫、そんなことはない。

「あのさ、もしよかったらなんだけど、暗くなっちゃったし送ってもらえるかなって図々しいこと思っちゃって」

 ああ、確かに窓の外の夜の街は人工的な光で輝いていた。

 女の子一人で帰すのは良くないかもしれない。

 でも待てよ。

 それは洋の仕事だし。

 僕が取ってしまったらややこしいことにならないか?


 理央は落ち着いた顔をして、僕を観察していた。

 見られていることに慣れない。

 いつもは僕が理央を見ている。

 そのパーツの小ささをひとつひとつ点検する。それで安心する。理央が理央であることを。

「やっぱりダメか」

「いや、考えてたとこ。洋に悪いかなって」

「わたしは洋くんの『モノ』じゃないから」

「まぁ、そうだけど」

 まぁ、そうだけどのところが曖昧だから余計困るんだ。

 夕飯時が近くなって、気のせいか客数が減ってきたように思う。グズグズしてられない。


「じゃあ帰ろう」

 リュックを持って立ち上がると理央は自分のリュックの重さを持て余してる。

 席を出るまで持ち上げてあげる。

 理央は恥ずかしそうにありがとう、と言った。


 夜風は街の喧騒を含んで、淀んでいるように思えた。湿度が高いのかもしれない。不純物を含んでいるような、嫌な空気だった。

 理央は半歩後ろを申し訳なさそうに歩いた。

 思い返すと、いつもは洋と手を繋いでゆっくり歩いていた。でも僕は手を繋ぐ権利を持たない。

 歩幅を狭くして、歩調を合わせる。

 それに気付いた理央が、顔を上げる。

 僕らは平行に歩いていた。


「なんだか変な感じ」

「相手が違うからね 」

「奏くんもおかしな感じがする?」

 僕は少し考えた。聡子と歩いている時を思い出す。

 彼女の揺れる髪や、その白い肌。快活なトーク。

 今日は偶然だったとはいえ悪い事をしたなという気持ちがぶり変える。

「どうかな。前は理央と歩くことも多かったからね」

「そうだね。聡子ちゃんとの身長差が気になって。わたしは中学時代も聡子ちゃんにぶら下がってるみたいだったから」

「そんなに仲が良かったのに、どうして今は別のグループなの?」

 理央はまるで恥ずかしいことを言うように、ぼそぼそと喋った。リスのように背中を丸めて。

「一年の時、クラス分かれたから。でも、それよりもわたしに自信がなかったから、かなぁ」


 教室での二人を思い出してみる。

 二人はまったく別のグループに所属していて、理央のグループと聡子のグループには接点がまるで見えなかった。僕は二人が知り合いで、しかも親密だったことを疑うくらいに。

「聡子ちゃんは明るくて皆に好かれててなんでもできるじゃない? わたしとは正反対なんだよ」

「でもさ理央はその······僕たちに好かれるだけの魅力があるってことだよ。自信持ちなよ」

「ありがとう。······好きになってもらえるなんて思ってもみなかったよ」

 そう言って理央はとぼとぼ歩いた。まるで既に歩き疲れてしまったかのような足取りだった。僕はまた歩くのが速かったのかもと気になったけど、もう少し速度を緩めてもそれは変わらなかった。


 誰もいない真っ暗な公園は闇をたっぷり吸い込んでいた。

 名前も知らない木々がその闇に覆いかぶさり、すべてを隠してしまいそうだった。

 白い街灯が一つだけ、添えるように真っ直ぐ立っていた。防犯の良い公園とはとても言えそうにない。

「あ」

 理央が慌てる。

「ごめん、電話なの」

 そう言うと重いリュックを下ろして、一つのポケットからスマホを取り出す。ハムスターのストラップが付いている。僕と洋がふざけて理央にあげたものだ。

 マスコットが揺れる。


 ちょっといいかな、と言って理央は危なさそうな公園に足を踏み入れた。古い木のベンチに腰を下ろす。座らないの、と言う目で見られて、諦めて僕も座る。リュックを膝に乗せて。

「もしもし、待たせてごめん。うん、もうすぐ家に着くところ。うん、大丈夫、遅くなったけど心配なことはなにもなかったから謝らないで」

 洋はマメなんだなと今まで知らなかったことを知る。

 やっぱりそういう男がモテるんだろうな、と考えて、自分を振り返る。

 ダメだ、僕じゃ点が付きそうにない。

「うん、全然気にしてないよ。あの後、聡子ちゃんも帰ることになって奏くんと帰って行ったよ。うん、一人で全部食べるのすごく大変だった」

 理央はすごい早口だった。嘘が混じっている。

 電話の向こうで洋が大きな声で笑うのが聞こえてくる。

 他人の電話を横で聞いているのはなんとも気持ちの悪いことだった。

「あ、ごめん、家が見えてきたから。うん、明日ね。本当にごめんね」

 理央は電話を手元に戻すと、赤いアイコンをタップして電話を切った。

 無言でディスプレイを見ている。

 暗い中なのでディスプレイがよく見える。『洋くん』と大きく表示されていた。僕のスマホと同じアイコンが見えた。『太平洋の洋だから』と海の写真。真夏の思い出。


「毎日、同じ時間に電話することになってるの。洋くんの塾のある日はもうちょっと遅い時間なんだけどね」

「へぇ、そうなんだ」

 約束ってやつか。

 約束があると、人は安心する。

 少なくとも二人は電話で繋がっていることを確かめ合っている。女の子が好きそうなやつだ。

 もしかしたら聡子も言わないだけでそういうのを望んでるのかもしれない。


「あの、もしよかったら、相談に乗ってくれる?」

 さて立ち上がろうと思っていた僕の学校指定の紺のセーターの腰の辺りを、理央が引いた。ちょっと、という力具合ではなかった。

 僕は帰ってすぐに聡子に電話をかけるべきだと思っていたので、走り出したところで滑って転んだような気になった。たった一歩目で。

「相談? 明日とか電話とかじゃダメなの?」

「できれば直接聞いてほしい。なかなか二人きりになれないから、今がチャンスだと思う」

 確かに、二人きりになるのは難しい。

 それは僕にとって避けたいことであったし。

 今日はやむを得ない事情があったとしても、疑いの元になるようなことはしたくなかった。

 でも理央は手を離さなかった。

 僕は立ち上がることができなかった。

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