第21話 夜の底、ベンチで

 僕はなにも言うことができなくて、手指を組んだまま、ベンチに座っていた。

 目の前には昼間ならカラフルな遊具たちが、今はひっそり佇んでいた。

 もちろん、子供たちの歓声も聞こえず、公園は闇の底に沈んでいた。

 僕たちはそのまま長いこと口をきくこともなく、しんと冷えた空気がポテトをすっかりしなびさせた。どちらにしても友人に勧められる代物ではなくなった。

 冷たいな、と思いつつ、コーヒーをすする。

 いつもは食べ方の汚い洋も、薄暗いせいか静かに箸を進めている。多分もう温かさの残らない白米を咀嚼する音が、小さく聞こえる。


 静かだった。

 オックスの白いシャツは薄かったようで寒さすら感じた。秋の夜がこんなに寒いなんて、長く暑苦しい夏の間にいつも忘れてしまうんだ。

 手首まで折っていた袖を、戻してボタンを留める。

「俺たち、もうダメかなー?」

 俺たちって、と洋の顔を見る。

 洋は黒い弁当のプラスチック容器を見ている。

 萎びた形ばかりのレタスが残されている。

「理央はきっと俺を特別にしてくれない」

 街全体がしんと静まり返った。

 この同じ空の下に、また、理央もいる。

「そんなことないだろう?」

「あるだろう? 思えば最初から俺が一方的に押せ押せだったんだ。理央の性格を考えると、断りきれなかったのかもしれない」

 そんなことないよ、と言いつつ、そういうこともあるかもしれないと思った。そんな僕は少し冷酷だった。


 ――理央と洋が教室の入り口でぶつかったあの日から、洋の恋は始まった。

 小さくてかわいい理央に目が釘付けになり、その動作のひとつひとつに愛らしさを感じていたらしい。

 話の内容は理央の話ばかりになり「今日の円山さん」が僕たちの話題の中心だった。

 理央が国語の音読の時にうっかり教科書を落としてしまったこと、お昼休みにお弁当を食べながら珍しく誰よりも大きな声で笑ってしまい、その後しょげていたこと、僕が体育館に向かってジャージ姿で歩いてた時によく見ないで後ろから走ってきた理央の頭が僕の背中にぶつかって、聞こえないような驚くべき小さい声で謝って走り去ったこと。

 そういうつまらないひとつひとつの日常をつまみ上げては情報を共有していた。


 この前まで、かわいいなと思ってた円山さんは僕よりも洋を熱くさせてしまい、洋は次第に加速度を増して、例えば彼女に挨拶したり、それから少し話すようになって――どうしてそんな風にスムーズに進められるんだろうと思うほど、するすると二人の距離は縮まって行った。

 僕はそれを見ていることしかできなかった。

 暗い観客席から手を伸ばしてもなにも掴めないように、僕はただの傍観者だった。

「なぁ、もう元には戻らないかなぁ」

「なんでそんなことばっかり言うんだよ、喧嘩でもしたのか?」

「喧嘩······」

 膝の上に食べ終えた弁当箱を置くと、割り箸を束ねて二つに折った。

「喧嘩ならまだいいんだ。本当になにも言わないんだよ、意味のあることは」


 気の毒と思える立場に僕はなかった。

 僕よりずっと小さい彼女の、少女のように形の良い頭と切り揃えられた髪。

 黒い瞳、小さい鼻、そして唇。

 それは洋の世界だったし、僕の世界でもあった。

 僕はもうただの傍観者ではいられなくなって、伝えなければいけないと勇気を······。

「奏、聞いてみてくれない? もしかしたらなにか相談してくるかもしれないじゃん? 俺、なにか都合作ってひとりで帰るから、お前ちょっと理央にそれとなく、っていうのはお前には向いてないかもしれないけど、頼む! やっぱ、お前がいないとダメだ、俺」


 正直、どうしてそうなるのかよくわからなかった。

 それでも伝わったのは、洋が真剣に考えた結果だということだ。

 もしそれが結論だと言うのなら······言うのなら?

 僕以外にこんなに不適切な相手がいるだろうか?

「片品さんはどう? 彼女、理央とすごく仲がいいんだ」

「そうなの? 聞いたことないな、中学の時の話なんて」

 そういうものなのか、と思う。洋は好きなことのためにがんばった、彼女の中学時代を知らない。

「そうかー、片品さんか。確かに悪い人には見えないけど······奏の前では言い難いけどちょっと取っ付きにくい感じする。第一、美人すぎるし」

「それでも理央は片品さんと友だちだよ、かなり仲のいい」

 んー、と洋は難しい顔をした。

 いつの間にか開いていたクラッカーをがさごそつまみながら。

「んー、それでも奏の方がいいな。懐いてるし」

「なんだよ、動物じゃあるまいし」

「理央は愛らしい動物だよ。動画になりそうに」

 動画にはならないだろう。

 けどあの愛らしさは確かに僕の心のアルバムに何枚もの笑顔を貼り付けていた。あの時も、あの時も、あの時の困った顔さえ、しっかり焼き付いて消えそうになかった。

「理央には俺から話しとくから」

「どう考えても不自然じゃない?」

「そんなことないよ。お前には心許してるし」

「誰が?」

「理央が」


 どうして洋はこの件に関して、一番頼んだらいけない相手が僕だということに気が付かなかったんだろうか?

 そんなに勘の鈍い男だったんだろうか?

 それとも――。

 いつだって疑うのは簡単だ。疑うのは······。

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