41.お嬢さんの命令

 十二月の日没は早い。十六時半になると、太陽がみるみるうちに傾いていった。

 俊介と雛乃は二人並んで、パークの中央にあるステージで行われるショーを眺めていた。愉快な音楽とともに、ウサギやオオカミのキャラクターが楽しげに踊っている。ウサ耳のカチューシャをつけた雛乃は、わくわくと瞳を輝かせて、何度も拍手をしていた。

 オレンジ色の太陽に照らされた雛乃の横顔を見つめながら、このまま時間が止まらないかと俊介は何度も願った。しかしどれだけ強い祈りを捧げたとしても、海の向こうに沈んでいく太陽は止まってはくれない。


 ショーが終わり、周囲にいた観客がばらばらに散らばっていった。空には桃色と青色の境界ができており、すこしずつ深い濃紺の闇に侵食されていく。

 時刻は十七時過ぎ。いよいよ、二人の別れの時間が近付いている。まだまだ園内に人は多く、アトラクションにも行列ができていた。


「結構遅くまで開いているものなのですね」

「二十時閉園だったような。たしか夜のパレードとか、プロジェクションマッピングもあるみたいですよ」

「そうですか……見てみたかったです」


 雛乃が目を伏せて、寂しげに呟く。張り裂けるような胸の痛みを堪えながら、俊介は問いかけた。


「あといっこぐらい、なんか乗れますかね……雛乃さん、どうします?」


 雛乃は「そうですね」と少し考えたあと、海沿いにある巨大観覧車を指差した。

 

「私、あれに乗りたいです」

「げっ」


 雛乃の言葉に、俊介は思わず表情を歪めた。どうやらお嬢様は、よほど高いところがお好きらしい。

「ダメかしら?」と首を傾げる瞳には、どこか悪戯っ子のような光が宿っている。もしかすると、俊介が怯えているのを楽しんでいるのかもしれない。だとすると、意外とサディストだ。


「はいはい、構いませんよ! ちゃんと手ぇ握っててくださいね!」

「ええ、もちろん」


 俊介がヤケクソのように言うと、雛乃は嬉しそうに笑って、ぎゅっと強く手を握り締めてくれた。




 海が見える巨大観覧車にはそこそこ人が並んでいたが、十分ほどで乗ることができた。緊張の面持ちでゴンドラに乗り込むと、雛乃が隣に座ってくれる。約束通り、しっかりと手は繋いだままだ。


「いってらっしゃーい!」

「はい、行って参ります」


 スタッフの元気な挨拶とともに、ゴンドラの扉が閉まる。観覧車が一周回るまで、二十分かかるという。地上に戻れば、俊介はこの手を離さなければならない。じりじりと迫る別れの足音は、もうそこまで来ているのだ。

 なるべく湿っぽい空気にならないように、俊介はつとめて明るい声を出した。


「雛乃さん、観覧車好きですよね」

「……ごめんなさい。あなたが高所恐怖症なのは理解しているのですが……二人きりになれる空間が他に思いつかなかったんです」

「え?」

「最後に、あなたと二人になりたかった」


 雛乃が発した、最後、という言葉が胸に突き刺さった。彼女と二人きりになれるのは、正真正銘この二十分間が最後だ。


「……楽しかった」


 俊介の顔を見つめながら、雛乃が言った。ゴンドラはゆっくりと上っていく。が、俊介は高所を気にするどころではなかっていた。こちらをまっすぐに射抜く黒い瞳から、目が離せなくなる。


「今日だけじゃなくて、この六ヶ月間ずっと。……本当に、楽しかったです」

「……それは、よかったです」

「俊介、ありがとう……」


 雛乃の額が、俊介の肩に預けられる。目の前にある華奢な背中が震えている。目の前にいる女の子を力いっぱい抱きしめたくなるのを、俊介は必死に我慢している。


(……今すぐ抱きしめて、好きだって、言えたら、どんなに……)


 噛み締めた唇から鉄の味がする。きっと血が滲んでいるのだろう。それでも、そんなことは今はどうでもいい。


「我儘にたくさん付き合ってくれて、ありがとう。いろんなところに連れて行ってくれて、ありがとう。……私を普通の女の子みたいに扱ってくれて、ありがとう」


 本当はお礼を言われるようなことなんて、何ひとつしていない。俊介は金を貰って、可愛い女の子と毎週デートしていただけだ。

 そしてその女の子のことを、本気で好きになってしまった。


(雛乃さんが、普通の女の子だったらよかったのに)


 誰よりも「普通」を望んでいるはずの彼女に、そんな残酷なことを口にできるはずもない。


「俊介。最後に、ひとつだけ……よろしいでしょうか」

「……はい。なんでしょうか」


 ゆっくりと、観覧車が頂上に差し掛かる。こちらを見つめる雛乃の瞳が熱っぽく潤んでいる。真っ白い頬には紅がさして、艶のある黒髪からは甘い香りが漂ってくる。柔らかそうな桃色の唇が開いて、囁くように言葉が紡がれた。


「……キス、してください」


 息が、止まりそうになった。かっと頬が熱くなって、胸の奥が震える。腹の底から突き上げてくる衝動を、理性を総動員して必死で押し込める。

 雛乃はそんな俊介の理性を嘲笑うかのように、睫毛を震わせて、そっと瞼を下ろした。ぷつん、と音を立てて何かが切れる音がした。


「……雛乃さん」

 

 手を伸ばして、雛乃の頬に触れた。びくっ、と細い肩が震える。

 このまま抱きしめてキスをして。観覧車を降りたら、彼女のことをどこかへ連れ去ってしまおうか。数ヶ月後には社会人になるし、雛乃一人を養うぐらいなら、どうとでもなるかもしれない。

 ――それが馬鹿げた甘っちょろい考えだってことぐらい、俊介は充分わかっている。

 俊介はともかく、雛乃はまだ学生だ。大学を辞めさせるのか? 今までの贅沢な暮らしを捨てさせて、今後どうなるかもわからない俊介の人生に付き合わせるのか? 家族や石田と、離れ離れになってくれと言えるのか?

 婚約者に肩を抱かれる、ドレス姿の雛乃の姿を思い出す。雛乃がいるべき場所は、あそこだ。間違っても、俊介の隣ではない。

 俊介は気力を振り絞って、雛乃の両肩を掴んで引き剥がした。目を開けた雛乃が、悲しげにこちらを見つめる。


「……それは、命令ですか?」

「……え……」

「命令なら、やらせていただきますよ。報酬分の仕事はしますから」


 できる限り軽薄に、残酷に聞こえるように。俊介は、唇の端を歪につり上げて言った。雛乃は大きく目を見開くと、掠れた声で答える。


「……命令では、ありません」

「……それなら、承服できませんね。そういうのは、将来の結婚相手にとっとけよ」


 そう吐き捨てた途端に、雛乃の瞳にみるみる涙が溢れていく。瞬きと同時に、はらりと頬に涙が流れた。

 傷つけるつもりで言ったのに、傷ついている彼女を見ると死にたくなる。それでも、慰めることなんてできない。

 

「……結婚するな、って言ってくれないんですか? もし、あなたにそう言ってもらえたら、わ、私……」

「……俺は、ただのあんたの契約彼氏だよ。時給三千円ぽっちで、そこまでしてやる義理はねえな」


 俊介はそう言って、ふいと視線を逸らした。観覧車は頂点を過ぎ、あとは下降していくだけだ。高所への恐怖とは別の感情で、胃液がこみ上げてくる。


「……申し訳、ありませんでした……」


 長い長い沈黙のあと、雛乃の声が狭いゴンドラに響く。

 そこから地上に着くまでのあいだ、俊介は彼女の顔さえまともに見られなかった。





 観覧車から降りたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。空には星のひとつも見えず、糸のように細い月が浮かんでいる。

 頬に涙の跡をたくさん残した雛乃が、こちらに向かってすっと手を差し出す。


「……なにか?」

「まだ、業務時間は終わっていません。報酬をお支払いしている以上、最後まで私の恋人として振る舞ってください」


 毅然とした態度で、雛乃が言う。それでも差し出された右手が震えていることに気が付いて、俊介は奥歯を噛み締めた。


「……承知しました」


 俊介は恭しい仕草で雛乃の手を取って、握りしめる。業務時間は残り五分、テーマパークの出口までは数十メートル。二人が恋人でいられる、最後のひとときだ。

 ゲートの外には、既に石田が待っていた。手を繋いだままの俊介と雛乃のことを、固唾を飲んで見守っている。

 そのとき、園内の大時計が十八時を知らせた。雛乃の手が、するりと離れる。彼女はまっすぐにこちらを向いて、深々と四十五度のお辞儀をした。


「山科俊介さん。今まで、お疲れ様でした。これにて契約は終了です」

「……はい」

「私、あなたと過ごしたこの半年間が、人生で一番楽しかった」

「それは、よかった」

「上手に騙してくれて、ありがとうございます」


 俊介は笑って「一流の詐欺師になれるでしょ」と言った。雛乃も微笑んで、「ええ」と頷いてくれる。

 

「……どうか、あなたはあなたの好きな人と、幸せになってくださいね」

「……」

「ちなみに、これは命令です」


 雛乃の言葉に、俊介はただ黙って笑みを返す。承知しました、とは嘘でも言えなかった。俊介は絶対に、自分の好きな人と幸せになることはできないからだ。


「では、さようなら」

「はい。……さようなら」


 最後の一言を、俊介は涙を堪えながら絞り出した。我ながら、なかなか上手に笑うことができたと思う。作り笑いは得意な方なのだ。

 背中を向けた雛乃が、石田に連れられて歩いていく。映画の中の王女様と同じように、凛と伸びた背中は一度も振り向くことはなかった。

 彼女の姿が見えなくなってから、俊介はようやく詰めていた息を吐いて、下を向いた。その拍子に、堪えきれなかった涙が一粒だけ地に落ちて、そのまま消えていった。

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