24.お嬢さんはわかりたい

 母は翌日、友人の結婚式に出席したあと、そのまま故郷へ帰って行った。見送りもせずあっさりとしたものだったが、二ヶ月後には父の七回忌で顔を合わせることになるのだから、別れを惜しむ必要もない。

 

 デートが終わってすぐ、俊介は次週のデートプランを雛乃に送った。映画でも見に行きましょう、というシンプルなものだ。突き放すようなことを言った手前、気まずさがないわけではなかったが、給与が発生している限りはきちんと務めを果たさなければ。

 月曜の朝にメールを送ったのだが、それからしばらく彼女からの返事がなかった。木曜の夜、バイトを終えて部屋で勉強していると、ようやく雛乃からの連絡があった。

「今から通話できますか」というメッセージに、俊介は「かまいませんよ」と返事をする。ほどなくして、雛乃からの着信があった。


「雛乃です。連絡が遅くなり、申し訳ありません」


 電話の向こうの雛乃の声は固かった。俊介はいつもと変わらぬ口調で「いえ」と答える。


「こないだはウチの母親がすみませんでした」

「……私の方こそ、差し出がましい真似をして申し訳ありませんでした。以後気をつけます」


 雛乃は金を突き返されたことを気にしていたらしく、過剰なほどに恐縮している。あまり気に病まれるのも、母の本意ではないだろう。俊介はさらりと話題を変えた。

 

「そんなことより、今週はどうしますか? 映画でいいですか?」

「そのことなのですが……今週は、二人で話し合いをしましょう」

「話し合い? 何を?」

「私たちの今後について、です」


 きっぱりと答えた雛乃に、俊介は背中がすうっと冷たくなるような感覚を覚えた。「そうですか」と答える自分の声が掠れている。

 

「邪魔が入らずに、二人きりでゆっくり話せるところを用意します。場所と時間はまた連絡しますから」

「……わかりました」


 雛乃は待ち合わせ場所と時間を指定し、さっさと電話を切ってしまった。スマホを畳の上に放り投げた俊介は、ごろりとその場に寝転がる。

 雛乃の声は決意に満ちていた。もしかすると、契約を破棄されるのかもしれない。先日の俊介の態度は、雇用主に対してあるまじき無礼なものだった。雛乃が気分を害しても無理はない。

 もし契約が解消された場合は、未払いの給与はきちんと支払われるだろうか。そんなことを考えた自分に、つくづくうんざりした。どこまでいっても、がめつい男である。




 雛乃が指定した待ち合わせ場所は、以前にインフィニティプールを貸し切ったホテルだった。前回と同じように、ラウンジのソファに腰掛けて彼女を待つ。

 アイスコーヒーを飲んでいると、神妙な表情をした雛乃が入ってきた。いつものように、傍に石田を従えている。

 爽やかなレモンイエローのノースリーブワンピースを着た雛乃は、俊介の前でぴたりと足を止めた。そういえばこのお嬢様、一度として同じ服を着ているところを見たことがない。一体、どれだけ衣服を持っているのだろうか。


「お待たせいたしました」

「いえいえ。ここのコーヒー美味いっすね。どこ行くんですか?」

「ついて来てください」


 雛乃が言うので、俊介はおとなしく後ろに付き従う。ホテルのフロントに向かった雛乃は、スタッフからカードキーを受け取った。


「……ん?」

「上に部屋をとっています。参りましょう」

「……ええ? お嬢さん、あの……」

「二人でゆっくり話ができる場所を用意する、と申し上げたでしょう」


 たしかに言われたが、まさかホテルの一室を用意されるとは思わなかった。俊介の想定だと、せいぜいカラオケとかネカフェあたりだった。さすがお嬢様の発想は違う。


(年頃の男女がホテルの部屋に二人きりは、さすがにまずいんじゃないですかね)


 石田も俊介と同じ気持ちだったらしく、渋い表情を浮かべている。雛乃は構わず、「では石田。のちほど迎えに来てください」と平然と言い放った。俊介は彼を安心させるように言う。


「大丈夫ですよ、石田さん。お嬢さんに変な真似はしませんから」

「当然です。……くれぐれも、よろしくお願いします」


 石田は深々と頭を下げ、俊介の肩をがしっと掴んだ。表情は変えなかったが、年寄りとは思えないほどに力が強い。これ、まかり間違って手出したら殺されるやつだな。


 エレベーターに乗って、十八階に上がる。カードキーをかざして部屋に入ると、巨大なダブルベッドが部屋の真ん中に鎮座していた。都心が一望できる窓のそばには、テーブルと椅子が二脚。テーブルの上には、ウェルカムドリンクとフルーツまで用意されていた。

 好奇心に駆られて、バスルームを覗いてみる。ガラス張りの巨大なジャグジーバスだ。どうせなら入っていきたいところだったが、今日はそれどころではないだろう。


「どうぞ、お掛けください」


 雛乃はそう言うと、窓際の椅子を引いて腰を下ろした。俊介も正面の椅子に座る。雛乃はどこかピリピリとした空気を漂わせており、「ベッドで休憩しましょうか」だなんて冗談を飛ばせる雰囲気でもない。


「俊介」

「はい」


 名前を呼ばれ、俊介はぴしっと居住まいを正す。まっすぐこちらを見据えたまま、雛乃は口を開いた。


「私……あなたのことを、ずっと考えていたのです」

「俺の、こと?」

「お互いの領域に踏み込まないまま、契約を続けていくことはきっと簡単です。私たちは、所詮金銭の授受を介して繋がっているのですから」

「……それは、そうですね」


 雇用主と契約彼氏。自分たちの関係は、それ以上でもそれ以下でもない。

 雛乃はテーブルに置かれたコーヒーカップを持ち上げ、口をつけた。カップをソーサーに置いてから、真剣なまなざしで続ける。


「……それでも。私は、嫌です」

「え……」

「私、あなたのことがもっと知りたい。関係ないって突き放されるのは……寂しいし、悲しいです」


 雛乃はそこで言葉を切って、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。


「私には、あなたのことを理解できないかもしれません。私は所詮、お金でしか他人の気持ちを動かすことができない人間です」

「……」

「けれど……あなたのことを、わかりたいって……思うことも、ダメですか……?」


 俊介はただ黙って、彼女のことを見つめていた。彼女の瞳は相変わらず、少しの曇りもなく澄み切っている。その瞳に映る自分は、本当の自分よりもほんの少しマシに見えるんだ。


 ――俊介はそのままで、充分素敵です。


 お金持ちで恵まれた、煌びやかな別世界に住むお嬢様。そんな彼女に、自分のことをわかってもらえるはずなんてないと思っていた。

 それでも今の俊介は――わかってほしい、と思っている。ありのままの自分の醜悪さを、受け入れてほしいだなんて――たかが契約上の恋人関係に、そんな感情を持ち込む方が、間違っているというのに。


「……お嬢さんは、たぶん……幻滅しますよ」

「……そうかしら。私があなたに幻滅するところは、あまり想像できませんが」

「過大評価だ。俺はそんなに、立派な人間じゃない……」


 自分の声がみっともなく震えている。喉の奥から、今にも本音が飛び出しそうになっている。


(――あなたみたいな人と結婚したい、だなんて。俺はこんな綺麗なひとに、そんなことを言ってもらえる人間じゃないのに)


「私、あなたに幻滅なんてしません」


 次の言葉を促すように、じっと見つめられる。俊介は観念したように、はーっと深い息を吐いた。


「……少し長くなりますけど、聞いてもらえますか」


 そして俊介は、瘡蓋になっていた古い傷跡にメスを入れて、溜め込んでいた膿を出すかのように、ゆっくりと話し始めた。

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