第14話

 次のスパゲティ・デーが、ひょっとしたら最後になるかもしれない。菊次の通報で警察官が来た金曜日から、そう覚悟はしていた。佳奈子と浩哉、それから淳美の母親も交えて改めて話し合ったところ、最後のスパゲティ・デーは今週末、七月の第三土曜日に決定した。小学校の夏休み前の、最後の土曜日の昼だった。

 露原家の台所は、今日も日当たりがあまりよくなかった。ブラインドの隙間から入る細い光は、それでも白くまばゆく目を刺した。砂抜きの済んだアサリを用意してくれた佳奈子の笑みも、あの日と同じで輝いていたから、髪を小さな団子にまとめた淳美も、あの日と同じように溌溂と笑うよう努めていた。楽しい一日にしよう、と昨日みんなで約束したからだ。

 一つ目のフライパンにはエビ、イカ、アサリ、それから輪切りの鷹の爪と、ニンニクのみじん切りとスライス。もう一つのフライパンには、トマトソースの海があった。潮風の匂いを閉じ込めたようなこのスパゲティを、菊次がもう一度食べたいとリクエストしたそうだ。淳美と散歩した時には思い出せなかったこのスパゲティを、菊次は思い出したのだ。

「あっちゃんー、食べる係の登場だよ。俺も何か手伝おっか?」

 台所の陰から、ひょいと浩哉が顔を覗かせた。佳奈子ゆずりの茶髪には、先日のような寝ぐせはない。今日は早起きをして菊次と散歩に出かけて、帰ってきてからも和室で二人、とりとめもなく話し込んでいたという。浩哉は、昔からおじいちゃんっ子だ。張り替えた二枚の障子を思い出して、淳美はそっと目を細めた。

「いいよ、手は足りてるから。ありがとね」

「水臭いこと言わないで、俺にも何か手伝わせてよ。ほら、俺って渋くて格好よくて懐が深いって設定だったし」

「設定って一言がつくと台無しだよ。それじゃあ、スプーンとフォークの用意をお願いね」

「もう済ませたよ。俺は一度指示されたことは、言われなくてもできる有能な男だからね」

「はいはい。じゃあ、お茶をいれといてね」

「あっ、そっちは忘れてた」

 悦に入った様子から一転、テストのケアレスミスにあとで気づいたような顔をした浩哉は、コップを手に立ち去ろうとする。藍鼠色のTシャツを着た背中へ、淳美は「浩哉」と呼びかけた。

「内定、一社目おめでとう」

「あっ、さては母さん、喋ったな? 俺、自分から言うつもりだったのに」

「何を言ってるのよ、あんたが電話を受けるなり、近所迷惑な大声で、内定取ったーって大騒ぎするからでしょ。もうこの一帯の人たちみんな知ってるわよ」

「菊次おじちゃんの言う通り、浩哉は本当に落ち着きがなくて騒がしい」

 くすくすと淳美は笑った。浩哉は不本意そうに「不屈の精神は俺の長所じゃん」だの「この内定も、あっちゃんとの将来のために!」だの相変わらずバリエーション豊富な口説き文句を連発していたが、「早くお茶を持っていきなさい」と佳奈子が呆れ声で追い払ったから、淳美は自分でもよく分からないツボに入り、ますます笑えてきてしまった。目尻の涙を拭ってから、海鮮のフライパンへ白ワインを回しかけて、まばらに口を開いたアサリの殻を、菜箸さいばしでコンコンと叩いて回った。確かあの日もこうやって、開かない扉をノックした。あの時の淳美にはなかったはずの悲しみが、今の淳美の手にはある。あの頃には見えなかった幸せ色が、過去を振り返ればちゃんと見える。そういうものかもしれないと、大きな身の詰まったアサリを見下ろしながら思った。だからきっと今の淳美も、未来の淳美から見れば幸せだ。

「今日も美味しそうね。お義父とうさん、喜ぶわ」

 佳奈子が愛おしそうに囁く声は、湯気に溶けてしまいそうなほど小さかった。その声の肌触りが、淳美にはやっぱり心強い。「はい」と答えて、淳美は楽しく笑い続けた。一人では決して作れない団欒を、まだまだ続いていく毎日を駆け抜けていくのと同じ必死さで作り続けていくうちに、最後のスパゲティは完成した。

 ――『いい色のスパゲティだねえ。夕焼けみたいに鮮やかな』

 不意に菊次の声が、脳裏で凛と再生された。初めて浩哉に昼食を振る舞った日の翌日に、庭で水を撒いていた淳美に、菊次が告げた台詞せりふだ。配膳の準備をしながら、淳美は今さらになって気がついた。野菜をってもらおうとトマトばかり使っていたら、赤いスパゲティばかり淳美は作っていた。夕焼けみたいに、鮮やかな。胸騒ぎには気づかなかったふりをして、佳奈子と二人で和室に行くと、意を決してふすまを開けた。

 真っ先に目に入るのは、正面の窓と介護用ベッドだ。そこで上体を起こし、淳美たちを待っていたのは――今までと同じ、闊達かったつな笑みを浮かべた老人だった。

「淳美ちゃん、手伝えなくてすまんね」

 台詞まで、あの日とおんなじだ。淳美は胸がいっぱいになって唇を噛み、一瞬の動揺を隠すように、口角を上げて菊次に応えた。

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