第10話

 事件は、美里との会話が物別れに終わってからすぐに起こった。

 雨が降る前触れなのか、流れの速い雲はマシュマロをばら撒いたみたいに空をどんどん埋め尽くし、夕焼け色の雲から差し込む光は蒸し暑く、遠い海の香りをたっぷりと含んでいる。オレンジジュースのように甘く色づいた黄昏たそがれの空気に触れながら、スーパーに寄った淳美が帰路を急いで坂道を歩いていると、我が家の赤い屋根が見えたところで、ぎょっとして立ち止まった。

 ――自宅のそばに、パトカーが停まっていた。

 よく目をらせば、その停車位置は淳美の家ではなかった。赤い屋根の家の一軒隣――露原つゆはら家の前に停車している。

 気づいた途端に血の気が引いて、スーパーの袋を落としかけた。菊次が倒れた日に淳美を襲った不安の塊が、呼吸を刹那つかえさせた。震える指に力を込めて、淳美はパトカーまで駆け出した。蝉の声が、子どもの泣き声みたいにわんわん響いた。さっき泣けなかった美里みさとの顔が、なぜだか脳裏をちらついた。誰も泣いていないのに、代わりに泣かれたような気がした。

 駆けつけた淳美を迎えたのは、庭に立った浩哉ひろやだった。

「あっちゃん……」

 浩哉は、初めて昼食をご馳走した時と同じスーツ姿だった。血の気の失せた無表情で、足元の縁石には鞄が投げ出されている。そのすぐそばには恰幅かっぷくのいい警察官がいて、真っ青な顔をした佳奈子かなこも部屋着姿で立っていた。

 それから――もう一人。淳美は、固い声で言った。

菊次きくじおじちゃん……みんな、どうしたの?」

 浩哉の鞄に寄り添うように、菊次が縁石に腰かけていた。藍色のポロシャツは今朝の散歩の際に身に着けていたものと同じで、淳美を見上げた表情の老獪ろうかいさも、不思議なくらいに変わらなかった。傍らには表情を凍らせた浩哉と佳奈子がいて、警察官まで立っているのに、怖いくらいにいつも通りだ。先日の佳奈子と菊次のすれ違いを、不意に思い出す。淳美が事件の真相に一つの目星をつけた時、警察官が菊次に向けて、場違いな明るさで言った。

「それじゃあ、おじいちゃん。今日は、お話を聞かせてもらったということで、このまま帰らせてもらいますね」

「ああ、はい。それでよろしいですよ」

 警察官は、淳美の両親とさほど年齢が変わらないように見える男性で、はきはきと一字一句をしっかり区切った喋り方をしていたが、語り口は朗らかだった。応じる菊次も温厚で、恐縮して頭を何度も下げる佳奈子のほうが、この光景から浮いて見える。間違いであればいいと、喉の奥がからからになった淳美は一人、沈黙を守りながら願っていた。佳奈子がこんなふうに頭を下げている現実が、何かの間違いであればいい。だが、せ返るような夕焼け色に包まれたこの光景は、まごうことなき現実だ。やがて警察官はパトカーに乗って去っていき、露原つゆはら家の庭には、淳美と、いつも通りに見える菊次と、憔悴しょうすいしきった佳奈子と浩哉が残された。

「……じーちゃん。家に入ろう。蚊に刺されるよ」

 浩哉が菊次の腕を取ろうとしたが、菊次は笑顔を引っ込めて、唇を真一文字に結んだ。突然にむずがる子どものような態度で黙られて、浩哉が困ったように眉を下げる。だがそれは一瞬で「家に入ろうって。ほら、もうすぐ夕飯だよ」と、普段より数段ポジティブな調子で言い募った。浩哉は本当に昔から、強がり方が下手くそだ。佳奈子が、顔を伏せてすすり泣き始めた。

「佳奈子さん……」

 淳美は駆け寄り、佳奈子のほつれた茶髪が見ていられなくて、伸ばした手を宙に彷徨わせた。浩哉はまだ、明るい声を無理に出して、菊次の説得に当たっている。暑さでべたつく重い風が、枯れた桔梗ききょうの葉を揺らした。気づけば露原家の庭から、花が少しずつ減っている。色が、少しずつ、失われている――気づいてしまったら、堪らなくなった。

「菊次おじちゃん」

 全員が、淳美を振り向いた。どの顔にも、表情も色も何もなかった。息を大きく吸い込んだ淳美は、浩哉に比べれば断然うまいと自負する強がりの笑みを顔に被せて、提案した。

「私と、少し散歩しない?」

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