【十三】襲撃
「おい、朝だ。起きろ」
「ごめん、もうちょっと寝させて」
「もうちょっとじゃない。起きろと言ったら起きろ。おまえはこの国の巫女であり、女王なんだぞ。今日は委奴国の民にきちんと挨拶する日だ。みんな待っているんだ。さっさと起きろ」
突然、胸を押されてヒカリは布団を跳ね飛ばして飛び起きた。
「ちょっと変なところ触らないでよね」
あれ、ここは……。
「おまえの胸は柔らかかったぞ。母を思い出してしまった」
突然猫の大きな顔が現れて座ったまま後退りした。なんていやらしい顔だろう。変態猫だ。ヒカリは壁に背中があたると目の前の状況を頭の中で整理する。
えっと……ここは、確か。
少しずつ頭がはっきりしてくる。そうだ、異世界に来ていたんだった。昨日だって新嘗祭をした。
あの巨大猫と一緒に。ナゴだっけ。
夢を見ていたせいで混乱しているんだ。きっと。
父さんや母さん、それにお祖父ちゃん、お祖母ちゃんと楽しくしていた。どんな夢だったか忘れたけど。そういえばマキもいたような。どうしているだろう。
心配しているかも。
翼もいた。
翼とはもう会えないのだろうか。胸が
「どうした。大丈夫か。おいら悪気はなかったんだ。そんな泣きそうな顔するな。な、ごめん。おいら涙に弱いんだ」
「ナゴ、違うの」
「違う。何がどう違うんだ」
ナゴは背中を撫でてきた。そうかと思うとその手がお尻に。
「キャ、どこ触ってんのよ」
「なんだよ。おいらは心配してだな」
「おい、ナゴ」
大声にビクッとしてしまった。今の声は、巨大狐だろうか。巨大狸だろうか。
名前はコセンとムジンだっけ。
そんなことどうだっていい。問題なのは、スケベナゴだ。
胸を触られた。お尻まで触られた。
ナゴがそんなにイヤらしい猫だったなんて。嫌だ、嫌だ。
最悪なはずなのに、ナゴのブサイクで愛らしい顔を見たらなんだか許してしまいそうだ。
不可抗力ってこともあるか。いやいや、あの顔は意図してやったことだ。絶対に故意だ。
「おい、ナゴ。おまえヒカリになんてことしているんだ。巫女だぞ。女王だぞ。わかっているのか。おまえのやったことはだな、人の世では確か、えっと、セクハラとか言うんじゃないのか」
「ムジン、それは違うな」
「じゃ、なんだって言うんだコセン」
「ナゴの行為は
「な、なんだと。というかなんだそれは。罪に問われるってことか」
ナゴはコセンに詰め寄っていた。
「罪になるな。なあ、ヒカリ」
ヒカリは突然コセンに声をかけられて「えっ」としか答えられなかった。
「おい、まだ寝ぼけているのか。おいらがきちんと目覚めさせてやろうか」
にやけた顔をしたナゴが近づいて来る。
「ナゴ、おまえ欲求不満みたいだな」
「ば、馬鹿なこと言うな。そんなわけあるか。単なる冗談だろうが」
「本当にそうなのか。まさかヒカリに惚れたなんてことは……」
「ない、ない。おいらは猫の中の猫だ。人に惚れることはない、ない」
よくわからないこと言っている。なんだか変な気分。告白したわけじゃないのにナゴにフラれたみたい。おもしろくない。
ナゴをねめつけ、大きく息を吐く。
「あっ、ヒカリ。おいらは嫌いとは言っていないぞ。おまえは優しいしいい奴だ。恋愛感情はないが好いてはいるぞ」
何言い訳めいたことを口にしているの。
「ヒカリ、おまえの判断でナゴを牢獄にぶち込むこともできるがどうする」
「それはないだろう、コセン。牢獄など嫌だ。悪戯が過ぎたことは謝る。本当にすまない。遊び心だと思って許してくれ。なあ、ヒカリ。おいら本当に変な気を起こしたわけじゃないんだ。頼むよぉ」
両手を合わせて
「ヒカリ、こいつは絶対にまたやるぞ。許しちゃダメだ。たまにはお灸をすえてやるのが一番だ」
たまにはってことは、ナゴは前も同じようなことをしたのだろうか。
「ムジン、そんなこと言うなよぉ。仲間だろう」
「さて、どうだか」
「コセンもなんとか言ってくれよぉ」
「自業自得だ。我は知らぬ。おまえの罪はヒカリに
「ヒカリ。なあ、おいら悪気はなかったんだって。信じてくれよぉ」
「大変、大変、大変だぁ」
なに、なに。何事。
叫び声のほうに目を向けると、部屋の中に小さな影が三つ飛び込んで来た。
あのときの狐、狸、猫だ。
「どうしたアシ、ヨウ、ノキ」
「コセン様、この村の者たちが襲われております」
アシ、ヨウ、ノキが土下座のような格好をしていた。土下座じゃないか。どちらかというと香箱座りか。
「な、なに。狗奴国の奴らか」
「おそらく」
「よし、ここはおいらの出番だ。汚名返上だ」
ナゴが勢いよく駆け出した。
「ナゴ、俺様も行くぞ」
「頼むぞ二人とも。我はヒカリを守る」
「おお」
ムジンはコセンをチラッと見遣り、頷きつつ部屋を飛び出していく。
襲われているって何。どいうこと。誰がそんなことするの。
みんな殺されてしまうのだろうか。そんなの嫌だ。
ヒカリは出ていく二人の背中に叫んでいた。
「みんな死なないで。悪者でも殺しちゃダメだからね」
ナゴとムジンは振り向くことなく外へ飛び出してしまった。きちんと聞こえただろうか。悪者だとしても殺すことはしてほしくない。甘い考えだと思われるかもしれないけど、そうしてほしい。
誰の命も奪わないでほしい。
コセンと目が合い、何か言われるかと思ったけど無言だった。ただアシ、ヨウ、ノキへとコセンは目を向けていた。
「アシ、ヨウ、ノキ、おまえたちは村の者を集めてナゴとムジンの援護をしろ。いいな」
「はい」
三つの声が重なり、すぐさま三匹は部屋をあとにした。
あっ、外が騒がしくなってきた。
どうしよう。すぐそこまで敵がやってきている。殺されてしまうのだろうか。そんなの嫌だ。殺しちゃダメなんて言っている場合じゃなかったかも。
どうしよう、どうしよう。どうしよう。
ここへ来たのはやっぱり間違いだったのかもしれない。御弥山に行くなんて思わなければ、こんなことにはならなかったはず。マキの言うことを聞いていればよかった。
今更遅いか。
「ヒカリ、大丈夫だ。ナゴもムジンも強い。狗奴国の奴らになど負けはせぬ。この気は狼どもの気だ。狼どもならばすぐに騒ぎは収束する。安心しろ」
「でも……」
外から聞こえる悲鳴と獣の咆哮を耳にすると安心なんかできない。すぐにでもここに化け物がやってくるのではないかと思えてしまう。襲って来た者は本当に狼なのだろうか。見えない怖さが心も身体も震えさせた。
「我を信じろ。この部屋に結界を張った。大丈夫だ」
コセンは力強くそう口にして、そのあと首を傾げていた。
何、どうしたの。不安が胸の内に漂いはじめた。
んっ、今なにか聞こえたような。
「何か言った?」
「ああ。言った。なぜこの地に侵入できたのかが不思議だと」
「不思議?」
コセンは頷き、あたりに目を向けていた。
「この集落には結界が張られていた。狼どもに破れるはずがない。おかしいのだ。天魔の仕業なのかもしれぬが、そこまでの力があるはずがない。その前にこの地の場所を突きとめることさえ難しいはず。何者かが手助けしているのだろうか。そんなことを考えていた」
なんだかよくわからない。
天魔って誰だろう。悪者ってことだろうか。『魔』とつくのだからそうなのだろう。
コセンは小さく唸りながら、まだぶつぶつ何か呟いている。
「おかしい。ここは十二神獣様も見守ってくれているはず。薬師様のご加護もあるのになぜだ。まさか裏切り者がいるというのか。やはり古の神々が。いやいや、そんなはずは……。だが、そう考えれば
どういうこと。日向は殺されたの。それならやっぱり自分も。
ヒカリは頭を振り、嫌な考えを振り払った。
コセンが自信を持って大丈夫だと口にした。
コセンの言葉を信じるしかない。そうそう、信じるしかない。信じなきゃダメ。
日向は殺されたとしても同じ目に遭うとは限らない。
自分には何もできないのだから、守ってもらわなきゃ。ああ、なんだか胸の奥にモヤモヤしたものが広がっていく。
殺されるなんて嫌だ。日向のように死ぬなんて嫌だ。女王になんかならなきゃよかった。不安が胸の奥で渦巻いている。
本当に大丈夫だと言い切れるのだろうか。
「コセン様、本当に大丈夫なの。日向様は殺されてしまったのでしょう」
コセンはこっちをチラッと見遣り、視線を逸らす。
「心配するな。大丈夫だ。日向は奴らの策に騙されてしまった結果、やられてしまったのだ。我らが不在のときにな。不徳の致すところだ。今はあのときとは状況が違う。だから、そばにいろ」
コセンは目を伏せて、大きく息を吐き出していた。
そういうことか。
納得。だからと言って不安が拭えたわけじゃない。この胸の奥でまだ何かが
ほら、嫌な声が聞こえてくる。
悲鳴と咆哮、金属音も耳にする。ここには刀とかもあるのだろうか。狼が相手のはず。狼が刀など持っているはずがない。なら、あの音は何。
ヒカリは首を捻りつつ、外での音に耳を傾けていた。
そうか村人が刀を使っているのか。きっとそうだ。確か、近くに製鉄所みたいなのがあるって話していた。たたら場って言ったっけ。
なんだか落ち着かない。怒号と金属音、地響きまで。コセンをチラッと見遣ると
「信じろ」と目を見て頷いてきた。信じろって言われても。
深く息を吐き、床をみつめ胸に手を当てる。胸の奥で心臓が大騒ぎしていた。
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