【十】異世界の朝
顔を擦り取られそうな痛みに飛び起きてヒカリは悲鳴をあげた。
「化け猫だ、化け猫がいる。来ないで、やめて。私、美味しくないから」
ひっくり返りそうになりがなら壁まで退いた。どうしよう。これ以上逃げられない。
「こりゃまた、酷い挨拶だな。化け猫だなんて。おいらはナゴだ。もう忘れたか」
「えっ、ナゴ」
えっと、えっと。
ナゴって名前。そうよね。自分のこと知っているみたい。
えっと、えっと。何がどうしたんだっけ。
寝ぼけた頭をフル回転して状況を整理する。
そうだ。御弥山に登って、落ちて。
「あああああ」
巨大猫のナゴ。神獣のひとり。確か、巨大狐と巨大狸もいた。
「思い出したか。ヒカリ」
「う、うん」
「そうか。なら、いい。とりあえず、おはようさん」
「お、おはよう」
ニヤリとする巨大猫。いったい何、その顔は。
「そんじゃ、行くぞ」
行くってどこへ。まだ眠いんだけど。今、何時。
あっ、時計ないんだっけ。スマホもないし。せめて朝ごはんを食べてからに。
話す間もなく、手を引っ張られて行く。
「ねぇ」
「いろいろとわからないことだらけだろうが、とりあえずついて来い。そうそう、ここは
委奴国か。どこかで聞いたことがるような。
まあいいか。
ヒカリはあたりに目を向けながら、ナゴとともに歩みを進める。ずいぶん田舎だ。
もう稲刈りしたのか。
刈り取られたあとの田んぼのほうから風が吹き抜けていく。
風が心地いい。その向こうに見える集落。ここは自分がいた世界とは別世界なのだろう。ショッピングモールもなければコンビニもない。それどころかマンションも一戸建ての家もここにはない。
あるのは竪穴式住居に高床式倉庫。
歴史の教科書に載っているような風景をまさか
まるで古代に迷い込んだみたい。まさかタイムスリップしたとか。弥生時代なのか古墳時代なのか。ナゴを見遣り、それはないかとひとり頷いた。
神獣がいる世界が過去にあったなんて聞いたことがない。
いやどうなんだろう。
あの時代のことが書かれたものってほとんど残っていないはず。実は間違いでしたなんてことも実際にあることだし。
神獣がいなかったとは言い切れないか。
古事記とか日本書紀とかに載っていないだけってこともある。そもそも古事記も日本書紀も本当のことが書かれているのか疑問だ。
チラッとナゴを見遣り、首を捻った。
やっぱり、過去の世界ではないか。昔の日本に似たようなまったくの別世界なのだろう。そんな気がする。
それでも卑弥呼が出てきそうな世界観ではある。もちろん、ここに卑弥呼の存在は確認できない。この国を治めていたのは
ヒミコとヒムカ。
似ているような気もしなくもないけど。もしかして同一人物なのだろうか。自分が知らないだけってこともある。いやいや、違うって。ここはまったくの別世界だって。
そういえば、卑弥呼のいた国って委奴国みたいな感じだったような。
ヒカリは頭を振り、似ているだけ。違う。ここは別世界だ。
それにしても今は何時ごろなのだろう。朝だとは思う。寝て起きたからそうなのだろう、きっと。
時計もなければカレンダーもない世界か。
早く慣れないと。そうじゃない。早く元の世界に帰りたい。
今は、緩やかに流れるこの地で過ごしていかなくてはいけない。いつ戻れるかわからないんだから。もしかしたら、一生戻れないって可能性もある。それならここの暮らしに慣れなくちゃ。
やっぱり、嫌だ。
どうしたらいいんだろう。
スマホでもあれば。ダメか。あっても役に立たないか。きっと圏外だ。電話も繋がりそうにない。
ヒカリは空を見上げて思いっきり深呼吸をした。
空ってこんなに広いのか。何を言っているんだろう。今まで住んでいたところだって空は広かったじゃない。まるで都会にでも住んでいたみたいなこと言っちゃって。
ここよりは都会だったか。それは間違いない。便利なお店はどこにもないもの。
東の空から陽が昇り、西の空に陽が沈む。自然とともに生きている。神々とともに生きている。ここはそんな世界だ。
まだよくわかっていないけど。
自分はここで何ができるのだろう。女王だなんて言われても。やっぱり帰りたい。
『はい』って言っちゃったし。
ヒカリは小さく息を吐き、隣で稲穂を持ち掲げて
まるで、アニメの世界だ。
『あーあ、私、どうなっちゃうんだろう』
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