【二】森を抜けた先の世界


「止まれ、止まれ」


 アシは止まろうと足を踏ん張った瞬間、激痛が走り「ギャン」と呻き声をあげた。

 ダメだ、落ちる。おしまいだ。


 崖を転がり落ちる石たちが小さな点になっていく。このままあの石とともに落ち行くのだろうか。

 どうせ、この出血量なら遅かれ早かれあの世へ旅立つだろう。


 諦めかけた瞬間、身体がピタッと止まった。誰かが首根っこを掴んでいる。

 崖下の景色が空の景色に移り変わった。

 覗き込んむヨウが笑みを浮かべている。


「危なかったな」

「助かった。ありがとう」

「礼なんかいらない。当たり前のことをしただけだ。それにアシに死なれたら困る」


 嬉しいこと言ってくれる。頬を緩ませ、すぐに真顔に戻す。

 残念だ。救われても、自分の死はもうそこまできている。ここから落ちなくても、この出血量だと命の炎はじきに消えてしまう。


「おお怖い」


 ノキは崖下を覗き込で、ブルッと身体を震わせていた。ノキは何をしているんだか。相変わらずだ。少しはこっちの心配でもしてくれ。


「ノキ、まったくおまえときたら」

「なんだよヨウ。おいら変なこと言ったか。ほら、よく見ろよ。あの石ころがおいらだったら……。うわ、うわ。おいら死ぬのは嫌だ」

「ノキ、アシのことを心配しろ」

「あっ、えっ、そうだった。アシ、大丈夫か」

「ああ、大丈夫だ。と言いたいところだがダメみたいだ」

「そ、そんな。おいらアシがいなくなったら何にもできなくなっちまうよ。死なないでくれよ」


 涙目になってノキは抱きついてきた。


「うっ、く、苦しい。やめてくれ」

「あっ、ご、ごめん」

「まったくノキは何をしている。アシを殺す気か」

「だって、だって」


 アシは溜め息を漏らして二人を見遣った。ヨウとノキともお別れしなくちゃいけない。

 せっかく助かったというのに。


 小さく息を吐き、あたりに目を向けた。

 不思議と死が怖くない。あの世の扉を開く前に、もうひとつの世界の景色を見ることが出来た。ここは素直に感謝するとしよう。


 アシはそばをふわりふわりと飛んで行く黒アゲハチョウを目で追いかけ、空を見上げた。青い空、眩しい太陽。


 あれ、黒アゲハチョウはどこへいった。

 あっ、小鳥だ。風も気持ちいい。風とともに数枚の葉が踊りながら空へと舞う。そういえばここは自分たちの世界とはちょっと違う匂いがする。何がどう違うのかと問われるとよくわからないがたぶん違う。


 ヒクヒクと鼻を動かせてこちらの人の世の匂いを感じ取る。

 ヨウも空を見上げて鼻をヒクヒクさせはじめた。


「なんか匂いが違う」


 ノキもまた鼻をヒクヒクさせてそう呟いた。

 匂いが違うのは間違いなさそうだ。勘違いじゃない。そういえば太陽も欠けていない。背後から狼どもが近づいて来る様子もない。本当に逃げ切れたってことか。


 安堵した瞬間身体の重みを感じて、アシはその場にうずくまる。

 どうやら、その時が来たようだ。景色がぼやけてきた。


「おい、アシしっかりしろ」

「ヨウ、我はもうダメかもしれない。あとのことは頼んだぞ。コセン様にも十二神獣様にもよろしく伝えてくれ」

「アシ、馬鹿なこと言うな。俺様がおまえの怪我などちちんぷいぷいと治してやる」


 アシはなんとか口角を上げて頭を振った。


「なんだ、俺様には無理だと言うのか。ううむ、確かに厳しいか。ノキ、おまえも手伝え。二人ならなんとかなるかもしれない」

「お、おいらにそんな力はないよ」

「情けない奴だ。いいから手伝え」


 ヨウはノキの頭を小突いていた。


「やめろ、痛いって。わかったって。やってみるよ」


 本当にいい奴らだ。真っ赤に染まった右前足を見遣り小さく息を吐く。かなりの出血量だ。無理をし過ぎた。


 傍若無人ぼうじゃくぶじんな振舞いをする狼どものことを十二神獣様に伝えられずに死すのか。無念ではあるが、ヨウとノキにあとのことを任せるしかないだろう。ちょっと頼りなくはあるがきっとなんとかしてくれるはず。


 不意に何かが頭の片隅に引っ掛かった。

 十二神獣様を信じてよかったのだろうか。日向様についてもそうだ。日向様のおかげで争い事は減ったが、御弥山みややまに住まわるいにしえの神々様を裏切ってしまったのではないのか。


 裏切り者と呼ばれてもしかたがないのではないだろうか。アシは頭を振り思い直した。コセン様たちがそう判断したことだ。間違ってなどいない。そのはずだ。それでも狼が口にした言葉がどうにも気にかかる。


 裏切り者はあいつらのほうだと思うが、どうなのだろう。

 自分たちが知らないとんでもない真実が隠されているのではないか。


 アシはすぐに自分の考えを否定した。

 ない。


 隠されたものなどない。日向様は邪悪ではない。十二神獣様たちも厳しいが思いやりもある方々だ。薬師様だってそうだ。薬師様には会ったことがないが、きっと優しいお方に違いない。


 悪いのはやはり狼どもだ。

 古の神々もそうだ。狗奴国くなこくの奴らもだ。なぜ悪に染まってしまった。日向様を殺めるなどあってはいけない。古の神々とは言えやっていいことと悪いことがある。


 仲良くすればいいだけのこと。なぜ、できない。

 そうだ、話し合いを拒んだのは古の神々のほうだ。自分たちは正しいことをしている。


 悪しき者どもめ。太陽が消えようとしていたのも悪が蔓延はびこるからだ。

 日向様は悪人ではない。きっとそうだ。納得できない考えもあったが日向様は偉大な方だった。このままでは委奴国わなこくの秩序がどんどん乱れてしまう。皆、奴隷にされてしまうかもしれない。それどころか皆殺しということもあるのかもしれない。現に殺されかけた。


 戦のない平和な時はもう戻ってこないのだろうか。

 自分たちがどんなに足掻あがこうがどうにもできない。


 信じる。薬師様と十二神獣様たちならどうにかしてくれる。

 きっとこの先、古の神々と和解できるはず。


 ああ、どうにも眠い。疲れた。

 もう頭の回転も鈍くなってきた。すぐそばにいるのにヨウとノキの声がなぜか遠くに感じる。


「二人ともいままでありがとう。あとは任せたからな」


 頼む。

 あれ、おかしい。ムジン様の姿が見える。いるはずがないのに。

 幻を見るとはもうお迎えが近いのかもしれない。


 んっ、痛みが消えた。身体も軽い。

 もうここは天国なのか。


「ほら、アシ。いつまで寝ている。怪我は治したぞ」


 治した。どういうことだ。生きているのか。ここは黄泉の国ではないのか。そういえばもうひとつの人の世の匂いがする。


 アシは頭をひょいと持ち上げて血だらけだった足に目を向ける。まだ血で染まってはいるが痛みはまったくない。軽く右足を振ってみたがうずくこともなくいつも通りに動く。目の前には涙目のまま微笑むヨウとノキがいた。


「我は助かったのか」

「ムジン様が助けてくれた」


 アシは大きな影があることに気がつき、すぐに見上げた。

 狸神のムジン様だ。

 慌ててアシは伏せをして「ありがとうございます」と礼を述べた。


「ふん、無茶をしおって。それよりも許可なくこちらの人の世へ立ち入った罪は重いぞ。わかっているのか」

「はい、重々承知しております。ですが、緊急事態でして」

「アシ、みなまで言うな。わかっておる。狼どもは俺様が一掃してやった。天狗や烏天狗までおったぞ。まあとにかく安心しろ。今回はおそらくおとがめなしだろう」


 アシはホッと息を吐くと顔を上げた。


「あの、それでなぜここに」

「後継者を探さねばならないからな」

「後継者ですか」

「そうだ、乱れた世を正すには日向ひむかの後継者が必要だ。男王ではダメだ。すぐに戦だと騒ぎ立てる。何度も平和な解決をと促しているというのに」


 なるほど、そういうことか。


「ということはコセン様もナゴ様もこちらの人の世に来ているのですか」

「いや、コセンは来ておらぬ。豹変してしまった神々たちの動向を探っている。ナゴとははぐれてしまった。あいつのことだきっと、そのへんでもふらついているのだろう」

「ナゴ様も来ているのですね」


 ノキが目を輝かせて尋ねていた。


「たぶんな。それはそうとおまえたちも手伝ってくれ。コセンが言うにはこちらの人の世に日向の後継者をになえる存在がいると話していた。しかもこの御弥山近辺にいるらしい」

「我らも探してよろしいのですか」

「ああ、かまわぬ。というかおまえたちのほうが目立たずに探せるであろう。気配を消せば済むことだが、俺様が動くとみつかったとき化け物だと騒がれる恐れがあるからな」

「なるほど、それはそうですね。けど、ナゴ様は」

「ナゴのことは気にするな。とにかく頼むぞ。ではすぐに行ってくれ」


 アシはヨウとノキに目配せして、すぐにムジンの目を見て頷いた。

 急がなくては。


 委奴国には、巫女の力持つ平和を愛する存在が必要だ。どこをどう探せばいいのかわからないが、日向様の後継者となりえる存在がいるとしたらきっと匂いが違うだろう。できることならば日向様よりも優しい方であってほしい。


「あっ、そうだ。ムジン様。太陽は、太陽はどうなりましたか」

「ああ、それなら安心しろ。もとに戻った」


 アシは安堵の息を吐き、ヨウとノキを引き連れて山道を下った。


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