今はまだ、このままで。

齊藤 涼(saito ryo)

第1話

 「あんな家、二度と帰るもんか」

帰宅を急ぐ社会人たちの波に逆らうようにミナミは歩みを進める。

握りしめた紙に書かれた面談の文字が滲む。

入れ替わり立ち替わり違う男を家に誘う母親。

それを知ったうえで仕事に耽る父親。

友達も多いし成績も資金も潤沢にあるなら進学先にも困らないと

先生はいうけれど。

同級生に遊びに誘われるのは買い物の代金のため。

母も父も私が家に帰ってこなくても気がつかない。

誰も味方をしてくれない面談は円滑に進む。

「私は誰の目にも映ってない」

つぶやく声は空気に混ざり散ってしまった。

父と母には文句を一つも言わない優秀な娘。

先生には成績が高い品行方正な生徒。

同級生には金払いの良い財布。

みんなに見えているのは理想のミナミであって私自身ではない。

消えて無くなりたいとずっと思っていた。

様々な方法を試したけれど、夢は叶うことはなかった。

それでも消えてしまいたい気持ちは無くならなくて。

ミナミを知っている人たちの前からいなくなることにした。

もう二度とあの場所には帰らない。

両親も来ることなく一方的に先生が話すだけの面談を終え、帰路に着く。

真っ暗な部屋で服を着替え、クローゼットを開ける。

用意していた荷物を背負い、大きいだけで中身のない家を後にした。

最寄りの駅までそんなにはかからない。

途中ぱらりと空が泣き始める。

まるで私の心のように。

あと少しなのに一歩進むごとに雨量は増えていく。

世界も私に背を向けているのだろうか。

視界がぼやけた。足から力が抜け、その場に座り込む。

どうしようもなく流れる涙を止める術すら知らなくて。

涙を拭うことも忘れて嗚咽する。

道ゆく人々は少女を一瞥もせず目的地へと急ぐ。

突然、暗くなり雨が止んだ。

顔を上げるとそこには赤い傘を差した可憐な女性がいた。

「そんなに濡れたら風邪引くよ」

「別に気にしなくて良いのに」

「傘持ってないの」

「うるさい」

「顔赤いよ。体調良くないんじゃない」

「うるさいな」

「早く家に帰ったほうがいいよ」

「帰る家があるなら帰ってる」

放っておいてと言いながら立ちあがる。

突如、視界が歪んだ。

そういえばもう何日も何も食べていなかった。

「大丈夫?」遠くから何度も呼びかける声が聞こえた気がした。

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