第二章 狐の若君はかけひき上手

2-1話


「ん……」


 ピチチという小鳥の声で目覚めたはなは、朝日に照らされた障子を見てぼうっとした。

 首を動かすと、床の間に生けられた椿が目につく。

 華が暮らしている、日当たりが悪くて古ぼけた安アパートの一室とは違う。

 どうしてこんな高級旅館みたいな部屋で眠ったんだっけ。

 寝ぼけた頭で記憶をたゆたった華は、ガバッと起き上がった。


「あやかし極道に捕まったんだった!」


 黒塗りの高級車にぶつかって、無理やり鬼灯ほおずきぐみの屋敷に連れてこられた華は、運悪く彼らの本性がようかいだと知ってしまったのだ。

 妖怪なんて生まれて初めて見た。化け狐や鬼が人間に化けて極道一家を営んでいるなんて、人に話しても信じてもらえなそうだ。

 視線を下げると、胸元ですいしょうが揺れている。これは妖怪の宝物だという。

 秘められていた力が発露したせいで、華は今や日本中の妖怪から狙われる身になってしまった。

 そして、身を守るのと引き換えに、鬼灯組の次期組長と結婚しろと命じられた。


「無理だよ。極道の、しかも妖怪の男性と結婚なんて……」


 いくら人に化けようと相手は妖怪。華は、化生のものと夫婦になる自信がなかった。

 そもそも恋愛経験が極端に少ない。

 スポーツが得意な同級生も、生徒会長を務める先輩も、華が好きになった相手はことごとく他の人と付き合ってしまう。初対面でいいなと思った人も、近づくと急に顔色を悪くして離れていくのがお決まりのパターンだ。

 最後に恋をしたのは、就職して二カ月目のこと。相手は職場の上司だった。

 クレーム処理の相談に乗ってくれて、仕事終わりに食事に誘われる仲になったものの、それを聞きつけた意地悪な同僚に奪われてしまった。

 二人が付き合っていると聞かされた華は笑顔で祝福した。

 けれど、いつも選ばれないことが無性に悲しくなって、一人きりの給湯室で泣いた。

 人間ともく付き合えないのに、妖怪となんて無謀すぎる。


(どこにいても危険なのは変わらない。やっぱり逃げよう……)


 障子をそうっと開く。見事な日本庭園にも、外廊下にも、人影はなかった。

 早朝なので門を出ても襲ってくる妖怪はいないかも。

 こそこそと廊下に出た華は、突然、背後から伸びてきた腕に抱きしめられた。


「どこに行くの?」

「ひゃっ!」


 腕をほどいて振り返ると、抱きついてきたのはびゃくだった。

 二十代半ばくらいに見えるが、妖怪なので見た目通りの年齢ではないかもしれない。

 陽光を浴びて輝く白とも金ともつかない色の髪が、スーツの肩にはらはらと落ちていく様はようえんで、見ているだけで胸が騒いだ。


「昨日は大変だったね。気を失った君を離れに連れてきて寝かせたのは僕だよ。朝は寒いだろうと思って、火鉢に火を移しに来たんだけれど……必要なかったみたいだね」


 指先から青白い炎を出した狛夜は、空の座敷を見るなり、ふっと吹き消した。


「一人でどこに行こうとしていたのかな?」

「す、少し外の空気を吸おうと思いまして」

「ふうん」


 必死に言いつくろう華を、狛夜はたのしそうに見下ろした。

 百八十センチ近くある上背は、小柄な華にとってはそびえる塔のように高い。


「僕も朝の空気は好きなんだ。一緒に散歩していいかな」

「え? えっと、身支度をしてきてもいいでしょうか……?」

「いいね。僕、寝起きで無防備な女の子が、支度やお化粧をしてれいになっていくのを見るの、好きなんだよね」


 有無を言わせぬ微笑みで、狛夜は足を踏み出した。華は、反射的に後ずさる。


「し、支度を見られるのは、さすがに恥ずかしいのですが──」


 とん、と背中が壁について、はっとする。

 気づけば、華は廊下の端まで追いつめられていた。


「心配ないよ。僕たちは着替えなんか目じゃないほどの仲になるんだから……」


 華を囲い込むように壁に手をついた狛夜は、背を丸めて顔をのぞきこんでくる。


「君を愛してるんだ。甘やかして世話を焼いて、幸せな気持ちで満たしてあげる。だから僕を次期組長に選んで。そうしないとどうなるか、分かるかな?」


 あやしく光る狛夜のひとみの中で、どうこうが縦に縮まった。


「僕がいないと生きていけない体にしてあげる」

「いやっ!」


 華は、狛夜を突き飛ばして庭に下りた。

 裸足はだしのまま、庭園をがむしゃらに駆ける。


(あの狐さん、昨日から一体なんなの!? 見つけた、とかわけの分からないことを言ってくるし、いきなり愛してるなんて言われても信じられない!)


 置き石はゴツゴツしていて、華は幾度となくつまずき、草葉で肌を切った。

 地面を踏みしめるたびに激痛が走る。きっと血が出ている。でも立ち止まれない。


(次期組長になるためなら、手段を選ばないということ……?)


 組長は、夫となる次期組長を華に選ばせてやると言ったが、当の妖怪たちが黙って選ばせてくれるはずがなかった。

 このまま屋敷にとどまれば、先ほどのように誘惑されたり、脅迫と暴力によって支配されたりする生活が待っているだろう。そんなのは嫌だ。

 突き当たったしっくい塗りの壁を伝っていくと、裏門にたどり着いた。門扉には頑丈そうな錠前が下がっていたが、脇にある通用口はかんぬきで開けられるようになっている。

 華は、わらにもすがる思いで閂に手を伸ばした。


「どこに行く」


 いきなり、武骨な指に手首をつかまれた。

 視線を上げると、角を隠して人間を装ったが、赤い瞳をこちらに向けている。


「役目を果たさずに逃げるのか」

「ち、違うんです、わたしは」


 声が震える。必死に言い訳を考えたけれど、思いついた言葉は口に出す前に、胸にわだかまる弱気に吸い込まれていった。

 しびれを切らした漆季は、力尽くで華を門から引きがした。

 問答無用で離れに連れて行かれ、枕でも投げるように座敷に放り込まれる。


「痛っ」


 畳に転がった華に、ぬっと伸びた人影が覆いかぶさる。

 きゅうきつねおにしゃが、それぞれ青と赤の瞳をらんらんと光らせていた。


「あ……」


 それはまるで獲物を見つけた獣。射すくめられた華の息は浅くなる。

 上手く人に化けていても、彼らはやはり妖怪だ。



「二度と勝手をするな。殺されたくなければ」


「僕のそばから離れるなんて、許さないよ?」



 片やごうこわおもて。片や仏顔の薄ら笑い。

 両極端の脅しに、華は簡単には逃げられないと悟った。


「申し訳ありませんでした……」

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