第10話「答え」

 2学期まであと5日を切った。もう夏休み課題はとっくに終えている。することもなかったので適当に部屋でごろんとしていると、突然香純から呼び出しがかかった。


『ちょっと来てほしいんだけど』


 場所は指定されていなかった。かど、香純がこの言い方をするときは大体どこに行けばいいのか限られている。俺達にしか伝わらない暗号のようなものだ。


 俺は少し歩いたところにある砂浜に向かった。海水浴場として整備されていないから、人なんて誰もいない。


 ただ一人を除いて。


「おーそーい!」


 香純はぶう、と頬を膨らませながらこちらにやってきた。いつぞやで見かけたあの白いワンピースに麦藁帽。空の青と海の蒼が合わさり、なかなか似合っている。そんなこと絶対口にしないけれど。


「悪かったって。ほら」


 ぽい、と投げた瓶を香純は上手にキャッチした。そのあたりの駄菓子屋で買ったラムネだ。


「ちょっと、投げないでよ」

「まあいいじゃん。勝ったばっかだからまだ冷たいぞ」


 むう、と不服そうな顔をしていたが、ラムネを口にした途端とろけるような表情を浮かべた。


 しかしそれにしても暑い。今日はここ一帯の最高気温を更新するかもしれないと天気予報でも言っていた。おまけに雲一つない快晴。海風と波音でなんとか暑さを誤魔化すしかない。


 俺ももう一本買ってあったラムネを飲む。久しぶりに飲んだけれどやっぱり美味しい。口の中で泡が弾け、瞬く間に消えていく。


「それで、答えは見つかったのか?」

「まあ、ね」


 あんまり踏ん切りがつかないような口調だ。まだ心の奥底では悩んでいるみたいだ。


「いろいろ考えたけどさ、私はこのチャンスを逃したくない。今行かないと、ダメな気がする。だから、私行くよ、東京」


 宣言するように香純は言葉を並べる。だけどその声に覇気はなかった。いつもの無邪気なオーラはない。


「本当に、それでいいのか?」

「うん。私のやっていることで誰かが喜んでくれるなら、私はやりたい。厳しい世界なのはわかってるけど、せっかくのチャンスを無駄にしたくない」

「そうか……」


 セミの音だけが砂浜に響き渡る。俺は再びラムネを飲んだ。最初よりも少しぬるくなっている。


「本当はね、すっごく怖いんだ。まだ夢を見ているのかもしれない。騙されているのかもしれない。だけど、一番怖いのは、私が一人になることなんだ」


 砂浜に香純は腰掛ける。折角の服が汚れるぞ、なんて声をかける余裕はどこにもなかった。


「向こうには友達もいない、知ってる人もいない。お父さんも、お母さんも、直樹だって、みんないないんだよ。私だけ独りぼっち。今まで支えてくれた人がいなくなるの。そんなの、怖いじゃん」


 叫びにも似た香純の声に、キュッと胸が締め付けられる。物心ついた時から、俺と香純はずっと一緒だった。毎日名前を呼び合った。毎日笑い合った。これからもそんな日々が続くと信じていた。でも、現実は残酷だ。当り前だと思っていた日常が終わってしまうのは、やっぱり……。


「寂しい」


 俺の言葉を代弁するかのように、香純は呟いた。


「自分で決めたのにね、向こうで頑張るって。でもまだ踏ん切りついてない。だから直樹、背中、押してくれるかな」


 そう笑う彼女の瞳はどこか悲しい感じがした。俺は目線を外し、気を紛らわせるためラムネをもう一口飲んだ。少しだけ炭酸が抜けており、清々しさはもうない。


「何すればいいの」

「なんでもいいよ。私を励ましてくれたらそれで十分」


 励ましとは別の言葉が喉の奥で引っかかっている。気を緩めれば飛び出してしまいそうだ。


「香純なら、大丈夫」

「うん」

「香純は、一人じゃないから」

「うん」

「辛くなったらいつでも帰って来い」

「うん」

「えっと、あとは……」


 こういう時上手く言葉が出ないものだ。ちゃんと香純の顔を見ることすらできない。


 本音を殺そうとする度に、胸の奥が破裂しそうになる。思わず俺は心臓を握り潰すように自分の胸元を掴んだ。


「大丈夫?」

「あ、ああ……」


 嘘だ。大丈夫なもんか。


 今日の香純の宣言で俺は確信した。ずっと抱いていた香純への感情。もうごまかしようがない。今更気づくなんて、鈍感にもほどがあるだろう。


「直樹。ねえ、直樹ってば!」


 ぼうっとしていたところを香純の声で我に返った。左手に持っていたはずのラムネの便はいつの間にか地面に転がっている。足元には炭酸水を吹き出しながら倒れている容器があった。


「あーあ、もったいない」


 ラムネの様子を眺めていた香純は笑っていた。俺も笑おうとしたが、上手にできなくてやめた。

 なんだか俺みたいだ。天から見放され、なされるままに溶けていく俺の心。


「ねえ、さっきから変だけど、もしかして熱中症?」

「いや、違う」


 香純も香純だ。俺の気持ちに気づいてほしい。


 俺は立ち上がって香純の前に立つ。これは一つのけじめだ。


「俺さ、本当は香純に東京に行ってほしくない」


 不思議と胸につっかえていたものが消える。心が軽くなって気分だ。蝉の声も波の音も鮮明に聞こえる。


「一緒にこの町でバカやって、一緒に高校卒業して、それからでも遅くないじゃん」


 口から出た言葉には香純へのささやかな怒りが含まれていた。勝手すぎるだろ。俺には、香純の選んだことが正しいとは思えない。


 図星だったのか、香純の表情が歪む。


「わかってるよそんなこと。でも、これはチャンスなんだから、私にしかできないことなんだから。だから、やりたい」


 決めた、と呟いた彼女の顔はとても凛々しいものを感じた。どうやら吹っ切れたらしい。


 無理じゃん。


 俺はもう香純を引き留めることはできない。俺は、真っ直ぐ一直線に突き進むこいつのことが好きなんだから。やる、と彼女が決めた以上、俺は応援することしかできない。

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