第37話 今後のことと告白紛いのミス

「由希恵はどうする?」


 翌晩、光秀は自室にて床に胡座をかいていた。

 股の間には背を向けた由希恵が収まっている。

 自然と目線の高さに彼女の頭が来ていた。風呂上がりの湿り気の強い桃のような香りが鼻の辺りを舞っている。

 嗅ぎなれた香りに脳髄の奥が溶けるような感覚になりながら、光秀はゆっくりと体を前に向ける。

 彼女の背中に自分の腹部がぴったりと重なり、そして腕を前で組む。

 抱える感じで抱き着いていた。由希恵はそれを払うような素振りを見せることなく、むしろ体重を預けて、


「んー、困っちゃいますね」


 上ずった声で答えていた。


「だよなぁ」


 光秀はそのまま体を左右に揺らす。

 それに合わせて由希恵の体もゆらりゆらりとゆっくり揺れていた。


「光秀さんはどうしたいと思ってますか?」


 どうしたい、かぁ。

 由希恵の質問の意味を深く考える。

 春にはこの部屋と決別しなければならない。今のところはそうなっている。

 それを回避するのか、受け入れるのか。受け入れるにしてもその後をどうするか。

 考えることはたくさんある。でも、なぜか真剣にその問題に取り組む気にはなれないでいた。

 それはなぜか。

 ……疲れたなぁ。

 ぽんっと浮かんだのはそんな感情だった。

 仮にここでうまくやったとして、今後何も問題がないという保証はない。むしろ同じように障害が立ちふさがることだろう。

 簡単に解決できるのであれば問題ない。が、安寧の地を求めるフロンティアになるほど活力が湧いてこない。


「俺は、そうだな──」


 光秀はひときわ強く腕に力を入れる。

 世界中の何よりも柔らかい感触を腕に感じる。伝わってくる体温が陽だまりよりも暖かく、そして心地よい。

 このまま眠ってしまったらきっとそれが極楽というものなんだろうな、と光秀は思いながら、


「──難しいかな」


 由希恵の耳元で囁くようにそう言った。


「結局また同じ環境を用意しても、それぞれの人生がある訳だからずっと上手く行く可能性は低いんだろうな。十年、二十年後の腰を落ち着けた後なら出来るかもしれないけど、今はなぁ」


「確かに……」


「そりゃあ、俺も皆とずっと一緒にいたいけど。楽しいし楽だし」


 単純なメリットならばいくらでも浮かんでくる。

 それ以上に未来のビジョンが不鮮明なことが怖くて仕方なかった。

 三年とちょっと。それだけの期間うまくやってこれたのだから今後も大丈夫なんて思えない。十年、二十年。むしろ死ぬまでの間にいつ関係を切るのか、それとも共に沈んでいくのか。

 そう考えると、離脱を決めている聡と詩折の二人が羨ましいとすら思えてくる。

 良くない考えだ、光秀は邪念を払うつもりで五感に集中する。

 女性らしい体つきだ。最近少し肉付きがよくなったような気がしないでもない。

 それを言葉に出さないだけの常識が光秀にはあった。

 その代わり、


「なぁ」


 由希恵に問いかけて、反応を待たずに、


「二人で、一緒に住まないか?」


「えっ!?」


 由希恵が驚愕の声を上げて首を回転させる。

 同時にんがっ、と光秀は悲鳴を上げる。ほとんど頬と彼女の頭が密着するほどの距離にいたため、振り返るときに頭が頬、そして顎を強打していたからだ。

 

「っ……す、すみません」


「……いや、突然何言ってんだって思われても仕方ないから」


 由希恵は声に出さないまでも頭を押さえて、這って光秀から距離を置く。

 き、気まずい。

 事故もそうだが、深い考えなしにつぶやいた言葉の意味を思い返して、その回答を待つべきか流してしまうか判断に困っていた。

 冗談で言ったつもりはなかった。が、性急すぎたと光秀は反省する。

 それに、

 告白、だよな今の。

 よくわからないまま始まった交際だったためちゃんと言葉にしたのはこれが初めてだった。

 光秀は恐る恐る由希恵を見る。

 体二つ分の距離で彼女は正座をしていた。フローリングの床でその体勢は痛そうだな、と自分の感情をごまかすように考えていると、


「……詩折と相談させてください!」


 顔を真っ赤にして強く目を瞑っていた。


「あ、うん。そんなに悩まなくていいからね」


 気恥ずかしさが伝播したのか、そんな日和った答えしかできなかった。

 由希恵はしばらくそわそわと落ち着きを失っていたが、突然立ち上がると、


「……その、嬉しかったです」


 後ろで手を組んでつぶやく。

 目線は明後日を向き、唇を尖らせて。

 その様子にあっけに取られていた光秀を横目に、


「また、来ますね」


 そう言って、由希恵はねずみのごとく駆け出して、部屋を出て行ってしまった。

 一人残された光秀はゆっくりと背中から床に倒れこむ。

 ……あぁ、もう!

 今手が届く範囲に柔らかいものがあれば握ったこぶしを叩きつけていただろう。いや、聡でもいい。しばらくそんな気分のまま、気色悪い笑みを浮かべながら床を転がっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る