第7話 キャッチボール

 昇降口を出ると、芽衣が「あ、ちょっと待ってて」と慎吾に言い残し、グラウンドの方へ小走りで向かった。

 何だろう、と思いつつ大人しく待っていると、数分ほどで彼女は戻ってくる。


「どうしたの?」

「ちょっと、部室に用があって」

「ふうん」


 いたずらっ子のような笑みを浮かべる芽衣を訝しく思いながらも、慎吾は特に指摘しなかった。

 野球部のマネージャーが野球部の部室に用があるのは、別におかしなことではないと思って。


 その後、慎吾と芽衣は徒歩で駅に向かうと、電車に乗って二つ先の駅で降り、そこからまた徒歩で自宅に向かった。

 二人は同じ中学だっただけあって、最寄駅も最寄駅から自宅までの方角も、概ね同じだったのだ。


 道中、慎吾は芽衣との何気ない会話を楽しんだ。

 中学時代のこと、芽衣が高校に入ってからのこと、最近学校で起きたこと。話すことは沢山あった。

 前の高校で慎吾の身に起きたことだけは、二人とも一切触れなかったが。


 話に夢中になっていると、いつの間にか慎吾たちは河川敷を歩いていた。

 帰り道でいつも通る、どこか郷愁を感じさせるその場所。

 慎吾にとっては、かつて所属していたシニアチームのホームグラウンドがある場所でもある。

 グラウンド自体は今いる場所からかなり川を下った先なので、全く見えないが。


 芽衣の提案で、二人は土手に座った。

 眼下に見える野原では、数人の子供たちが遊んでいるのが見える。

 さらにその奥では、高齢の男が一人、川で釣りをしていた。


 風が気持ち良いな、と慎吾は思った。また、実際にそう口にした。

 芽衣はそうだね、とだけ言った。

 ぬるくもなく冷たくもない爽やかな風が、二人の頬を優しく撫でてくれる。


 しばらくぼんやり川を眺めていると、突然芽衣が鞄の中身をごそごそ漁り始めた。

 何だろうと慎吾が思っていると、彼の足元にばさりと茶色いものが置かれる。


 それは、野球のグローブだった。


(さっき部室に寄ったのは、そういうことだったのか)


 数十分前の小さな謎と目の前の光景を冷静に結びつけながら、慎吾は「……何、これ」とグローブを指差して尋ねた。

 芽衣は「見れば分かるでしょ? グローブだよ」と答えつつも、また鞄の中をごそごそとやった。

 そうして今度はクリーム色のグローブを取り出すと、自分の左手にそれをはめ、ぱしぱしと右拳でポケットを叩く。


「そういうことじゃなくて——」


——何でこんなところに、野球のグラブを?


 続けようとした慎吾は、茶色のグローブをよくよく見た瞬間言葉を失った。

 そのグローブが、左利き用のものだったから。


「……どうして」


 辛うじて絞り出せたのは、その一言のみ。


 慎吾の凝視に耐えられなかったのか、芽衣は彼から目を逸らした。

 照れ臭そうに、艶のある黒髪の端っこを指で弄る。


「なんか村雨、右腕気にしてるみたいだったからさ。鞄とか絶対左肩にかけたり、みたいな。まあ、元々そういうの気にするタイプだってのは知ってたけど、にしても中学の頃より極端になったなって思って……アハハ、気ィ回しすぎだったかな?」


(……そんなことに、気付くのか)


 慎吾は芽衣の観察眼に驚いた。

 同時に、彼女は思ったより自分のことを見ているのかもしれない、とも考えた。

 そうでなければ、そんな細かい挙動に気付くはずがないから。


「……ね、ダメ? しようよ、キャッチボール」


 決して慎吾の方を見ずに言う芽衣を見ていると、自然と慎吾の顔に笑みが浮かんできた。グローブを手に取り、右手にはめる。


「……いいよ、やろうか」


 慎吾が言うと、芽衣はパッと彼の方を振り向いた。

 よく整ったその顔に、満面の笑みを浮かべる。


「うん!」


* * *


 土手を降りた先の野原で、二人はキャッチボールを始めた。

 芽衣はソフトボール経験者なだけあって、捕球にしても送球にしてもそつが無かった。


 ただ、そんな彼女でも慎吾の送球の衝撃はグラブ越しに響くようで、


「痛ァ……これで利き腕じゃないんだもんなァ」


 とぼやく声が風に乗って聞こえてきたりする。


 慎吾は本来の利き腕でない左投げでも、130キロ近い速球を投げられる。

 肘の故障で右ではあまり投げられなかった時期に、身体のバランスを考えて練習した結果できるようになったのだ。

 もっとも、利き腕でない分制球や変化球習得の面では全く上手くいかなかったので、実戦で使えるほどではないが。


 キャッチボールは、慎吾にとっても意外なほど楽しかった。

 ただ、楽しいからと言ってすぐにまた野球部に入ろうとも思えなかった。

 今自分が感じているものは、部活としての野球をやめたからこそ味わえる、空っぽの楽しさなんじゃないか。

 そんな疑念を、慎吾はどうしても拭えなかった。


「ねえ、村雨ェ。一つ聞いていい?」


 ある程度距離を離してしばらく投げ合ってから、彼我の距離を縮め始めて塁間より短くなった頃。

 軽く叫ぶようにして、芽衣が尋ねてきた。


「質問によるなあ」


 慎吾は軽く腕を振り、山なりのボールを芽衣に向かって投げた。

 芽衣はそれをグローブに収めるなり、ピッチャーのように両手を大きく頭上へ振りかぶる。


「じゃ、聞くね。……村雨はさ、結局なんで転校してきたの?」


 自分の胸へ一直線に向かってくる芽衣のストレートを、慎吾は初めて取り落とした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る