事故への執着

 その日、仕事を終えた森川もりかわ柊介しゅうすけは大雨の山道をバイクで走っていた。急な曲がり道も多かったが、慣れた道だと思っていた。一車線しかないのに前に大型トラックが見えた。早く帰りたいと思っていた柊介は舌打ちをして、車線を越してトラックを追い越し始めた。


 曲がり角で車を追い越すことは道路交通法で禁止されている。それは知っていたが、たいした違反ではないと思っていた。それに、曲がり角が連続している山道では、追い越しの際にカーブを避けることは不可能だった。鼻歌交じりに大型トラックを抜いて対向車線に入ったとたん、すぐ前に自動車が見えた。カーブで車体が見えなかったことに気付いた。


 まずいと思って慌ててバイクのハンドルを切る。向こうも逆方向にハンドルを切った。急ハンドルと雨で道が滑ったせいで、柊介のバイクはコントロールを失い山肌に激突した。地面に投げ出され、山道に転がる。激痛に悶えた柊介だったが、意を決して起き上がり、後ろを振り向く。一瞬、相手の車も滑っているように見えたが、どうなっているのだろう。しかし相手の車は視界にない。


 消えた? まさか、そんなはずは。


 嫌な予感がした。折れているらしい左足を引きずり、小さな崖下を覗き込む。柊介の直下には何もなかったが、左方に案の定車が落ちていた。崖下の道路に、頭から。さほど大きな崖ではないが、数メートルはある。確実に無事では済まないだろう。


 全身から血の気が引いていく。慌てて救急車と警察を呼び、柊介はゆっくりと道路を進む。山奥のため、ほかに車が通って彼らを助けてくれるとも思えない。雨で急カーブで事故までに一瞬だが間があったという悪条件が揃い、先ほどの大型トラックは事故にすら気付かず先に行ってしまっている。車を助けられるのは柊介しかいなかった。


 現場までさほど距離はなく、引きずった足でも二十分歩けば到着した。車は先ほどと全く変わらない状態で転がっていた。中でどうなっているか見当もつかず、最悪の場合も覚悟しながら柊介は車体に近寄った。


 運転席の男は車体のドアを開けるのに難渋していた。柊介がドアを開けるのを手伝うと、存外元気そうな笑顔が出てきた。

「……バイクの人? 救急車、頼んでいい?」

「もう呼んでます。……場所が場所だから、時間がかかるそうです」


 助手席の若い女性は意識を失っているようだった。柊介と同年代らしき若き運転手は、女性の血だらけの顔を優しく撫でる。

「……のんびり待つか」

 男の表情は明るいが、言葉は途切れ途切れだった。横倒しの車の中に彼らを取り残すわけにもいかず、柊介は必死で中の男女を外に連れ出した。

 

「君……名前は……?」

 発煙筒の煙の中で、道路に横たわる男が少し頭を上げる。

「……森川柊介です」

「俺はね……尾崎おざき晴哉はるや

 謎の名乗り合いが始まって、気まずい空気になった。


「救急車、まだかな」

「……そろそろ来てもおかしくないんですが」

 しかし現場は雨音ばかりで、サイレンどころかエンジン音すら聞こえない。不安のあまり、普段は無口な柊介の口は動き続ける。向こうも同様だったらしく、二人の会話は雨の中ずっと続いた。


「俺……親いなくてさ、妹しかいないんだ。俺が……もし死んだら……妹は、一人になっちゃう」

「……お元気そうですし、大丈夫ですよ。救急車を待ちましょう」


 死ぬだなんて縁起でもない。柊介は晴哉の言葉に震えた。

 しかし晴哉の弱音が現実のものになりかねない状況だった。助手席にいた晴哉の妹だという女性の意識が戻る気配はないし、晴哉もその場からは全く動けないらしい。彼女にかけてやった柊介のビニールのレインコートの下で血が広がっていく。救急車が来ない焦りと雨の寒さが相まって、柊介の震えは止まらない。


「……森川君さ、事故ったこと、ある?」

「いえ、初めてです」

「俺、二回目。前もさ、ヤバい怪我、したんだけど……。その時と、全然違うわ」

 晴哉は着ていたレインコートの露をおもむろに払う。


「人間はね、事故のすぐ後は意識清明でも……案外簡単に、死ぬんだよ。死ななくても、後遺症は残る。ミハエル・シューマッハ、知ってる? F1ドライバーの、皇帝なんだけど……。彼も、事故で後遺症がね、残ったよね……。皇帝でも、事故には、勝てないんだよ」

 柊介は震えながら晴哉の話にただ頷いていた。


「森川君にね、お願いがあるんだけどさ」

「はい」

「過失相殺は、いくらでも君に有利にしていいから、妹を……助けてくれない?」

「……はい?」

 急に何を言い出すのかと思って、柊介は思わず尋ね返す。晴哉は口元を緩めて苦笑のように笑った。


「この事故、俺も妹も……たぶん、ただじゃすまない。でも、さっき言ったろ。妹には……俺しか、いない。だから、もし、妹に後遺症が残って、俺も動けなかったら……。誰も、助けてくれる人がいないんだ」

「…………」

「君しか、頼む人がいない。妹を……助けて、くれるかい?」


 晴哉の大きな目に見つめられ、笑いかけられて、柊介には頷く以外の選択肢はなかった。

「分かりました。事故の原因は俺ですし、何でもします」

 柊介は眼鏡の露を拭った。ちょうどその時、遠くから救急車のサイレンの音がかすかに聞こえてきた。ほっとして思わず意識が遠くなる。事故の記憶はそれきりだった。


***


「…………」

 言葉を詰まらせながら、柊介はそこまで語った。私は言葉が見つからなかった。私が気を失っている間、そんな会話がされているだなんて思わなかった。

 心臓をヤスリで削られているような心地がした。何と形容してよいか分からない、混乱と、憤怒と、兄の声を久しぶりに聞いたような懐かしい気持ちが全て入り混じったような気持ち。涙が思わず引っ込んだ。


「香澄さん、君はなかなか目を覚まさなかった。何度も病院に見舞いに行ったけど、いつ目を覚ますかもわからず、一生植物状態かもしれないと先生に言われた。俺は約束通り、君の面倒を一生見るつもりで、過失相殺はこちらに有利になるようにした。……交通刑務所なんか入ってる暇はないし、前科がついたら君の世話なんて不可能だから」


 しかし私は目を覚まし、柊介への恨みを糧にリハビリをこなし、後遺症もほとんどないほど、なかば無理やり体を回復させた。そして私は今、柊介の前にいる。約束はこうして破られたわけだ。


「……なんで、今まで私にそれを言わなかったの?」

「君が目を覚ましてからは面会を拒否されたから……」

「…………」

 そうだった、私は最初から彼に復讐するつもりで、彼の面会要求を全て拒否していたのだった。私の顔が彼に知られたら、復讐できないから。事故当時の骨折まみれの私の顔しか柊介は知らない。近づいても警戒されない自信はあった。実際、そうだった。


 全部嘘かもしれない。でも、彼の恋人である小田美玲として、私は確信していた。柊介の言葉は確実に真実だ。森川柊介は不器用で、頑固で、誠実な男だから。

 

「ごめん。晴哉さんの約束を俺は守れなかった」

「……仕方ないよ」

 まるで他人事のような言い方になった。

「さっきの手紙の、償いが終わるときがきた、という文面を見て、美玲が俺を殺しに来てるんだと思った。でもそれでもいいんだ。俺には差し出せるものなんてほとんどないけど、美玲が満足するなら何でも差し出すよ」


「待って。さっきはカッとなって放置してたけど、その怪文書何なの?」

 私は自分で丸めて捨てた怪文書をもう一度広げる。


 尾崎香澄様。

 事故の償いが終わる時期が近づいていますね。

 彼氏さんと仲良くお過ごしください。


 見れば見るほど奇怪な文章だ。

 私の正体と彼氏柊介のことを同時に知っている人間なんていないし、私の正体を柊介にバラすなんて悪意があるに決まっている。内容も嫌味ったらしいたらない。


「誰よ! こんなの出したの!」

「さあ……」

「『さあ』って何? あんた無責任じゃない?」

 素で八つ当たりする私に柊介は困惑するばかりだった。そう、私のこんな気の強い素をも彼は優しく受け止めてくれる。……今はそういう話ではないが。


「これさ、俺宛だと思う? 香澄さん宛だと思う?」

 封筒は柊介宛、本文は私宛。内容は私宛という方が近いだろう。

「心当たり、ある?」

 柊介の言葉に私は首を振った。


 誰に何を償うのだろう。私の背中に冷や汗が流れ始める。

 もしかして、私は柊介に罪を償わせることばかり考えて、自分の罪を自覚すらしてなかったということ?


「……私が恨まれる側だったのかな」

「俺は香澄さんに罪なんてないと思うよ」

「なんでそう言えるのよ」

 軽薄な慰めをかけるような男ではない。

「これ出した人の見当がうっすらついてるから」

「……誰? なんでわかるの?」

「知らない。でも香澄さんは知ってると思う」

「どういうこと?」


 私の質問攻めに困ったような表情をして、柊介は眼鏡を拭いた。

「この手紙がうちに届いてるというだけでも、いくらかの情報はわかるよ」

「え……」

 柊介は黙ってアイロンのスイッチを入れ、怪文書のしわを伸ばしはじめた。

「この怪文書が俺宛だといいんだけどね。でも、香澄さん宛と考えたら、辻褄が合っちゃったからさ」

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