もう一度、僕とあの夏をやりなおそうか。

『お前、誰だ!? 気持ち悪いから身体に触るんじゃねえ!!』


 ――差し伸べた手が勢いよく振り払われた。まるで汚い物にでも触れられたような激しい嫌悪感が真美の双眸そうぼうに色濃く浮かんでいた……。吐き捨てられた拒絶の言葉を耳にして僕は完全に打ちひしがれてしまう。彼女はまだ取り憑かれたままなのか!? 


「ま、真美、僕のことが分からないのか!? 陽一お兄ちゃんだよ……」


 その変貌ぶりがまだ信じられない……。無様ぶざまだと思いつつ何とか真美に近寄ろうとする。


『お前なんか知らないっ、それ以上、に近寄るな!!』


 僕!? 真美は一体どうなっちまったんだ……。


 あんなにも可憐な女の子らしい彼女ではない、まだ何かに取り憑かれているようだ。

 そうだ、偽の記憶の如く文字通り悪い狐にでも憑依されてしまったかのように思える……。

 発する言葉までもしゃがれて野太くなりまるで男の声だ。変貌した姿を目の当たりにした僕の視界が急速に滲んでくる。


 いつの間にか涙を流している自分に驚いた、激しいショックを受けると人間は防御の為だろうか勝手に涙を流すことを今更思い知った……。怒りを剝き出しにした目でこちらを睨みつけたままの彼女に掛ける言葉なんて出てこない。


 過去の記憶を全て思い出した僕の胸中に、言い表せないほどの不安が止めどなく湧き上がってくる。このルートの結末を変えることは出来ないのか!? 最悪だったの結末を僕は運命に抗うように再度追想し始めた。



 *******



【……ぐすっ!! ひっく、もう嫌だよぅ、陽一お兄ちゃんをこれ以上傷つけたくない!!】


 池を見下ろせる高台で真美の身体の中で起きた善と悪の諍い、大好きな父親との別離、両親の離婚の原因が自らの多重人格、自分の中にある二人の真美が引き起こしたと罪の意識に苛まれ、彼女の精神の均衡は崩れたんだ。あれほど聡明な彼女が僕との家出めいた逃避行についてきた理由わけもそこにある。


 ……は死ぬ為に稲荷神社を最終目的地に選んだんだ。


 僕を道連れにしようとする大人の真美。それを全力で阻止しようとする幼い真美。ふたりの彼女がひとつの身体の中で激しく反目しあっていた。


 そしてあの夏の日の一周目ルートでは大人の真美が勝ったんだ。泣きじゃくりながら僕の首にまわした彼女の指先に込められた力の強さ。鬱血した視界に映る彼女は妖艶なほど綺麗だったんだ。首を絞められている僕にそんなことを思う余裕なんて一切ないはずなのに……。


『に、逃げて、陽一お兄ちゃん!! 大人の真美ちゃんをもう抑えきれないから……』


 言葉と同時に僕の首にめり込んだ真美の指先から力が抜けた。


 ごはっ!! げほっ!! 激しく痙攣しながら喉が鳴った。塞がれていた気道に新鮮な外気が流れ込み首を絞められて薄れていた意識の混濁から紙一重で戻って来る。


「真美、いったいどうしちまったんだよ。お前の中で何が起こっているんだ!!」


『陽一お兄ちゃん、時間がないから黙って話をよく聞いて。真美の中には二人の私が昔から存在するの。大人の私、幼い私、どちらも本当の真美には変わりがないの。だけどもう大人の真美ちゃんの死の衝動を抑えられないから……。お兄ちゃんと大人の真美ちゃんを守るために最後の手段に出るしかない』


 最後の手段って!? 真美は何を僕に伝えようとしているんだ。


『幸いこの稲荷神社に祀られているお狐様は私たちに味方してくれるから。ふふっ、日頃のおこないが良かったのかな、今どきお百度参りする関心な娘だって真美はお狐様に気に入られちゃったみたい。私は両親の離婚を元に戻してほしいってお願いしたのに。心の中の願いごとを全部神様に見透かされてしまったんだ。逃避行の末に稲荷神社に隠れて寝泊まりした初めての夜、夢の中にお狐様は可愛い姿で現れて一つだけ私の願いを叶えてくれるって約束してくれたの……』


 お狐様と夢の中で会ったなんてにわかには信じられない……!?


「真美、一つだけ願いを叶えるって、お前はお狐様に何をお願いしたんだ?」


『黙って話を聞いてって言ったのに。陽一お兄ちゃんはもっと何か言いたげな顔してる。私のお願いはね……』


 真美のたった一つのお願いは両親の復縁なのか……?


『大人の真美ちゃんを救ってくださいってお狐様にお願いしたんだ……。同じ身体に存在する私だから分かるの。そうしないともうひとりの真美は潰れてしまうから。最悪の結末には向かわせたくない!! きっとこのお願いが最善のはずだから。お狐様は幼い真美の心を身体から切り離してくれるって約束してくれた。そして大人の真美ちゃんが自殺する前に彼女の時間を止めて、神聖なるこの場所に身体ごと封印してくれるって。だけどごめんね。陽一お兄ちゃんの見た記憶は書き換えるしかないみたい』


「僕の記憶を書き換えるって!? 真美と過ごした逃避行の想い出まで消えてしまうのか……。そんなのは絶対に嫌だ!!」


『お願い、もう時間がないの。大人の真美ちゃんをこれ以上抑えきれないから。まず最初に大人の真美ちゃんが豹変して粗暴な言葉を投げかけたのを陽一お兄ちゃんが言ったことに改変するね』


 古い映画の壊れた映写機みたいに頭の中の記憶が逆転再生される。先ほど豹変した真美から投げかけられた鋭い言葉が映像の真美から剥がれ僕の顔にぺたりと貼りつく。


『『……気持ち悪いんだよ、お前』』


 これが上書きされた言葉の記憶なのか!? 


 鳴りやまない蝉の鳴き声が頭の中で反響する。目まぐるしく巻き戻る記憶のそこかしこで真美のことばかり見つめていた事実に僕は愕然とした。どれほど自分の中に彼女の笑顔が存在していたんだろう……。あのお団子取りの夜に見た白い着物姿の真美が見せてくれた溢れんばかりの笑顔。記憶と言う名のカセットプレーヤーが頭出しの位置で止まった。


『私は陽一お兄ちゃんの知らない時間の中にいるから。この言葉も消えてしまうけど。だけど私は信じているから。どれだけ時が流れてもまた逢える日を信じてる!! あの村一番の柿の木の下で……』


 薄れゆく意識の中に幼い真美が言った最後の言葉が重なった。すぐに消えてしまうと分かっていても僕は必死でその文字列を頭の中に刻み込んだ。



 *******



 真美、お前は自分を犠牲にしてまで僕のことを守ってくれたのに……。それなのにまた同じ結末に向っているのか!? お狐様は悪い神様なんかじゃなかった。植え付けられた偽の記憶に僕は仮想敵を作らされていたことに今更ながら気が付いた。もうすべてが遅すぎるのか。二周目のルートに入って来た雄一たちという異分子が駄目だったのかも知れないが後悔しても後の祭りだ。ひとつの身体から分裂した幼い真美がたったひとつのお願いを使ってまで僕をこの稲荷神社に存在させてくれているのに。その強い想いを無駄にしたくない……。


 そうだ!! あの日の約束を真美は覚えていないだろうか!?


 僕は最後の賭けに出る為に辺りを見回した。草むらに横たわり安心して穏やかな表情の子猫の姿を見つける。良かった!! 奴らに手荒に扱われたがどうやら怪我はしていない様子だ。


 そっと子猫を抱き上げ、小さな頭を撫でる。僕の手を舐める仕草に微かな希望を見出した。もう一度地面に子猫を置いてからゆっくりと彼女に近寄って言葉を切り出した。


「真美、お前が助けた子猫だよ、どこも怪我はしていない、本当に良かったね」


 穏やかに彼女に語りかける。険しい表情を崩さない彼女に変化はまったく見られない。やっぱり、駄目なのか……? 諦めかけた次の瞬間、明るく僕たちを照らしていた満月が雲に隠れ、辺り一面が漆黒の闇夜に包まれた。


「ミャアッ」


 真美の足元に子猫が寄って来た!? 逃避行の間もかいがいしく猫の世話をしている彼女の姿が僕の脳裏に鮮やかに蘇って来た。何者かに取り憑かれて豹変しても彼女の優しい本質は変わってはいないんだ。子猫が慕い今も懐いているのが何よりの証拠だ!!


『……ね、こ、ちゃん!?』


 足元の子猫を見て彼女の表情に微妙な変化が起こった。今がチャンスだ!!


「真美、僕たち二人で子猫を一緒に育てるんじゃなかったのか!?」


 あの夏の日に交わした約束をもう一度彼女に投げかけた。


 真美の表情が変わった、眉間に皺が刻まれぶるぶると細い肩が小刻みに揺れる様子がこちらからも見て取れる、僕はさらに続けて喉も枯れんばかりに絶叫した。


「真美、僕のお嫁さんになってください!!」


 渾身の叫び声を聞いた真美の表情に、あの村一番の柿の木の下で見せた困った眉の動きが刻まれる。そして僕の大好きな可愛い頬のえくぼを見せながら微笑みかけてくれた……。

 

「陽一お兄ちゃんなの!?」


 やった!! 普段の彼女に戻ってくれたみたいだ。僕が喜んだのも束の間、真美がゆっくりとその場に膝から倒れ込んだ。糸の切れた操り人形のように全身から脱力している。不思議なことに地面の水たまりに真美は倒れ込んだはずなのに着ている白いワンピースはまったく汚れていないし水にも濡れていないのは一体何故なんだ!?


「真美……!?」


「ミャアッ!!」


 慌てて駆け寄った僕に驚いたのか、彼女の傍らにいた子猫が足元から飛び退いた……。



 次回に続く

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る