お兄ちゃんが迷わないように花で印をつけておいたよ。

「――おっ、お兄ちゃん!! 風圧で息が出来ないよっ。それに私がいくら高所恐怖症じゃないからってスピードの出し過ぎ!! ここにおまわりさんがいたら絶対に捕まっちゃうから!!」


 暗い階段の視界を確保アシストするために、みずから開け放った真美のヘルメット風防シールド。彼女のむき出しの顔面に、下からの強い風の圧力が襲いかかったんだ。苦しそうな声が僕の耳にまで届いた。


「まみっ!! もう少しの我慢だ!! これは緊急事態だからおまわりさんにも勘弁してもらうから、いまは僕をしっかりいてくれっ!!」


 荒ぶるトレーシーを操っているのは自分だが、危険な聖地巡礼旅の成功は真美の細い肩に掛かっている。しっかり捕まえていてほしいのは僕の本音だった。

 万が一、僕と真美がこの跳躍ジャンプの間に離ればなれになったらどんな恐ろしいことが起こるのかまったく見当もつかない。

 階段の左右に立ち並ぶ暴風雨林が目にも止まらぬ速さで僕の視界の後方にたぐり寄せられていく……。


 僕と真美を乗せたトレーシーは降りるというより、奈落の底に落ちていくように下りの勾配を勢いよく加速していく。

 トレーシーのハンドル上部にある角張った形状の速度計スピードメーターに僕は一度も視線を落とさなかった。

 レース用のバイクには速度計はまず装備されていない。その理由は公道ではないので速度違反を気にする必要がないこともあるが、競技でいちばん重要なのは一周のラップタイムだ。一分一秒を争う極限状況では余計な視覚情報は少ないほうがいい。

 誤差のある速度計を気にするよりも、自分の五感を最大限に働かせたほうが余計な恐怖感が起きにくいからでもある。

 あの白い女神像のある展望台から続く階段は、徒歩で下ってもかなりの激坂だ。

 それをスクーターのトレーシーで下るなんて本来ならば正気の沙汰ではない。モトクロス専用の車両でも並外れたテクニックと相当な覚悟がいる。


 普段の僕はジェットコースターみたいな乗り物は大の苦手だ。

 小学生のころ真美と日葵が地元にある有名な遊園地に行くから、お兄ちゃんも一緒に、と誘われたときも絶対に断っていたんだ。

 僕は高いところはもちろん大好きだ。 自分の手で登ったり自転車やバイクならどんな危険なことでも平気だがジェットコースターみたいに人任せなのは本当に怖いんだ……。


「陽一お兄ちゃんっ!! もっとトレーシーちゃんのスピードを上げて!! 間に合わなくなっちゃうから、私が入り口の大きさを保てなくなる前に……」


「……真美、お前っ、平気なのか!? 息が苦しいんじゃなかったのかよ!!」


「う、うん、私は大丈夫だよ!! 頑張ってみるから……」


 今回の撮影旅行という名の危険な聖地巡礼、そのアシスタントを買って出てくれた真美。この危険な状況をかえりみず僕の肩口にその身を乗り出してまで必死にナビゲートをしてくれる。

 彼女の蒼いヘルメットの裾からこぼれる長い黒髪が、下から吹き上げる強い走行風で激しく乱れ、僕のヘルメットとジャケットの間からわずかにのぞいた首すじに、彼女のやわらかな毛先が触れた……。


 前輪を持ち上げるウイリー走法にも限界がある。僕の全身の筋肉が路面からの断続的な突き上げを受けて悲鳴を上げる。ハンドルを握る両手の握力も次第に押さえが利かなくなっていくのが感じられた。

 トレーシーの幅の細いリアタイヤが階段の足場の太い丸太を乗り越えるたびに激しく空転スリップしてあらぬ方向に進路を乱し、何度も転倒クラッシュしそうになるのを必死でこらえる。

 もう限界かもしれない、操作を誤って激しく前転しながらトレーシーもろとも急坂を転げ落ちる最悪の結末が一瞬、僕の脳裏に浮かんだ……。


「陽一お兄ちゃんっ!! しっかり顔を上げて前を見て!! あれがお狐様きつねさまの神社へむかう入り口だよ」 


 真美の必死な叫び声に僕のなかの弱気が一瞬にしてかき消された。


 ――やっと見えてきた、あれが跳躍ジャンプへの入り口か。


 なんだ、あれは……!? 僕は自分の目を疑った。ヘルメットの風防シールドがなければ思わず目をこすっていただろう。

 階段の中腹付近にある第二展望台。ちょうど改装工事中なのか立入禁止の札が下げられた展望台の広場には工事用の重機が複数台ガードレールの手前に停められていた。

 この第二展望台のほうが白い女神像のある最上階よりも視界を遮るものがないので、過去に真美と訪れたときも絶景のビューポイントだったことを思い出した。

 その展望台のむこう、月夜に照らされた夜空と漆黒の海を背景にして明らかにな空間が姿を現していた。

 もちろん真美の開けてくれた跳躍の入り口に間違いはない。だけどは違った意味で異質すぎる……。


「……真美っ!? 稲荷神社までの入り口を開けたって、まさかのことなのかよ……!!」


「そうだよっ、陽一お兄ちゃん!! なにか問題でもあるのかな!?」


「なんて言ったらいいのか力が抜けるな。 この危険へとおもむく男の熱い胸の高ぶりがさ……」


「陽一お兄ちゃんっ!! 気持ちまで子供のころに戻ってくれたのは嬉しいけど、少年漫画のヒーローに影響を受けすぎだよ!! また日葵ちゃんに叱られても真美は絶対に助けてあげないから……」


「そうだったよな、お前は刺繍ししゅうだけでなく、図画工作も苦手で僕にいつも助けを求めていたことをすっかり忘れていたよ!!」


 僕は緊張する場面のはずなのに思わずヘルメットの中で苦笑してしまった。

 なぜなら真美が開けてくれた跳躍ジャンプの入り口、暗闇の空間のまわりには、花柄の巨大なリボンでアーチが描かれていたからだ。

 そして花柄のアーチの両脇には下手くそなワンちゃんとネコちゃんとおぼしきイラスト、その二匹の口から伸びた漫画のような丸いフキダシには……。


 ――お兄ちゃん、頑張って!!――


 ――入り口はここだよ!!――


 それぞれに可愛い丸文字で僕への応援が書かれていた。


 真美とあの懐かしい太平堂でプロフィール帳のやり取りをしたときにも、このイラストが得意げに描かれていたっけ。あのときも僕は余計なことを言って地雷を踏みそうになってしまった過去を思い返した。

 インカムマイクが使えていなくて本当に良かったと心から胸をなで降ろした。真美の不思議な力なら充電切れでも通話が出来ていたから、彼女に僕のつぶやいた言葉は全部聞こえてしまうから……。


「えっ、陽一お兄ちゃん、なんか言った!? すごい風でよく聞こえないよ!!」


「なんでもない!! 真美、お前は僕に子供のころに持っていた勇気だけじゃない、他にもいろいろな気持ちを与えてくれるんだな……」


 彼女がトレーシーの後部座席から身を乗り出して、こちらの肩に細いあごを載せてきた。潮風の匂いに混じってあの懐かしい夏の匂いが僕の鼻腔にとどいた。


「真美っ!! あの入口に向かって飛ぶぞ!! しっかりとつかまっていろよ!! 絶対に僕から手を離すんじゃないぞ……」


「わかったよ!! 陽一お兄ちゃんっ、真美はこの手を絶対に離さないから……」


 真美が後部座席に座り直し、腰にしっかりと両腕をまわしてきた。僕のみぞおち辺りに彼女の細い指先が触れるのを身体に感じて、思わず僕は伸ばした左手で真美の右手を強く握りしめた。


 一瞬だけ絡めた指先。僕は二度とあの白い橋で誓った約束を破らない!!

 そして僕はトレーシーのハンドルをしっかりと握り直し最後の段差を飛び越えた!!


 身体に浮遊感を感じた後、激しく着地バウンドをするトレーシーの後輪。第二展望台の広場に到着することが出来たんだ。

 無事だった!! 僕たちはここまで乗り切ったぞ。もう階段は終わりなのでアクセルを手加減する必要もなくなった。

 右手のスロットルを全開フルオープンにする。アクセルワイヤーで繋がれたPWKビッグキャブレターに大量のガソリンが一気に流れ込む。

 それまでカブり気味だったトレーシーの水冷単気筒エンジンが本来の性能を取り戻した。

 ジキルとハイドのような二面性、この強烈な加速を一度でも味わってしまったら二サイクルバイクに乗るのが絶対にやめられなくなるんだ!!

 激しい金属音混じりの排気音が膨張したチャンバーを抜け、その後方のアルミサイレンサーから真っ白な煙が勢いよく排出され、僕たちの下ってきた階段にむかって長い狼煙のろしを上げた。

 高々と前輪を浮かせようとするトレーシーを上半身で押さえ込む。もうロスの多いウイリー走行の必要はないからだ。少しでも階段を下って得たスピードを落とさずに真美の跳躍に掛かる負担を減らしてやりたい。

 第二展望台の端から真美のこじ開けてくれた入り口の空間までは、目視でおよそ二十メートル以上はある。モトクロス場のジャンプ台のような傾斜のコブを利用しなければ高く空に舞うことは不可能だ。

 普通に平地からジャンプを踏み切ったとしても、とてもじゃないが届かない飛距離だ。モトクロス用車両ではないトレーシーでは絶対に無理だろう。

 何かいい方法はないのか? 真美の不思議な能力ちからを使えば大ジャンプをサポートしてもらい簡単なのかもしれないが、これ以上彼女に負担は掛けられない。

 なぜならトレーシーのバックミラーに映る真美の身体は少しずつ背景の色に透けてきてしまっているから……。


 僕は考えを巡らせる。頭の中であの猿を避けたときのように瞬時に答えを探した。過去の経験の中から最適解を導き出そうとする。


『陽一、お前はジャンプの踏み切りで、コブの一番美味しいところに気が付いていないんだよ。だから飛距離が伸びないんだ。思い切り突っ込むだけじゃあ片道切符と変わらない無謀な行為だからな……』


 突然、親父の声が僕の頭の中に響いた。このアドバイスの言葉は!? 

 僕が小学生のころ、嫌で嫌でたまらなかったモトクロスの練習。そのときに親父からよく掛けられた言葉だ。あのころの僕たち親子の関係はいまと全然違っていた。

 僕も日葵も親父が大好きだった。そしていつもその大きな背中を追いかけていた。

 いつか親父を越えたい。モトクロスのジャンプでもそう思っていた。それは本当に親父を尊敬していたからだ。男手ひとつで僕たち兄妹を立派に育て上げる苦労は並大抵のものではなかっただろう。家事は日葵に負担を掛けていたが、妹も親父に文句を言わなかったのは汗水を流して造園業で頑張る親父の背中を見ていたからだろう。


 ――いつから僕は親父と口を聞かなくなってしまったんだろう。


「親父、僕にバイクを教えてくれてありがとう……」


 親父との間に存在した勝手に自分で作り上げた壁のようなものが崩れていく。

 そして最適な解答が僕の頭の中にひらめいた!!


「陽一お兄ちゃんっ!! ま、前っ、ガードレールにぶつかっちゃうよっ!!」


 真美がたまらず悲鳴を上げるのが僕の耳に飛び込んでくる。

 その声に構わず第二展望台の広場でトレーシーを最大限に加速させる。首すじに感じるのは陸地から海にむかって吹くオフショアの風向きだ。勢いよく吹き抜ける風が心地よい。天は僕に味方したんだ!!

 広場に置かれた工事車両の一台に僕は視線を落とした。


「……ジャンプ台がなければ自分で作ればいいんだ!! これが最高に美味しいコブなんだろ、親父っ!!」


 黄色い巨大な油圧ショベルカー。海にむかって長い腕のようなアームを降ろして駐車してある。その後ろの運転席の屋根がジャンプ台のコブのかわりだ!! 

 長い油圧アームは僕たちを打ち上げてくれるカタパルトになる!!


「――いっけえええええっ!!」


 僕はトレーシーの前輪を高々と上げて、重機の車体後部の傾斜角を利用して、陸上競技の踏み板の要領で切っ掛けを作り出し頑丈な重機の上に飛び乗った。着地の激しい衝撃がトレーシーの車体に伝わってくる。

 その勢いを落とさずにカタパルトに見立てた弓形の油圧アームの上を走行のガイドライン代わりにしてトレーシーの黒い車体を大空にむかって打ち出した!!


「きゃああああっ!!」


 真美が悲鳴をあげながら僕の背中に必死にしがみついてくる。

 あのお猿さんとのニアミスのときと同じ固まったままの姿勢を保ってくれているのはありがたかった。

 大ジャンプの最中に彼女に暴れられてトレーシーと泣き別れで海に墜落なんて本当に最悪だからな……。

 エンジンの最大回転レッドゾーンに入らないよう踏み切りと同時にアクセルは全閉ぜんへいにしていた。長い長い浮遊感を全身に感じる。甲高い排気音が消え一瞬、僕たちの周りの空間だけ無音状態に感じられた。実際の滞空時間はわずか数秒だったはずた。


 トレーシーはまるで羽が生えた黒鳥のように、真美が作ってくれた巨大な花柄のアーチにむかって勢い良く跳躍ジャンプした!!


 激しく下から吹き上げる海風に失速させられない理由は、海にむかって陸から強く吹きつける追い風が僕たちの大ジャンプを強力にアシストしてくれたからだ。急激な失速をせずに真美の描いてくれた小学校のお誕生会のような花柄のアーチにトレーシーの鼻先を突っ込むことに成功した!!


「やったあああっ!! 陽一お兄ちゃん、大成功だよ!!」


 真美が僕に馬乗りになる勢いで強く背中に抱きついてきた。彼女のやわらかい頬が僕の耳に押し付けられる。まるで仔犬がじゃれるようなくすぐったいしぐさ。こんな温もりがあるのに幼い真美は本当に僕の前から消えてしまうのか……!?


「ああ、お前のアシストがなければ絶対に無理だったよ。ありがとうな真美……」


 跳躍ジャンプの入り口を越えた内側、その先も同じように真っ暗だった。トレーシーの強化したLEDヘッドライトでも見通せないほどの漆黒の闇が広がっていた。不思議とトレーシーの前後タイヤの接地感は車体に感じられた。長いトンネル内に侵入してしまったような錯覚を覚えてしまう……。


「……ねえ、陽一お兄ちゃんは大成功したのに嬉しくないの?」


 黙り込んだままの僕を心配したのか、真美が声を掛けてくれた。


「あのさ、真美、僕は……」


「なあに、陽一お兄ちゃん?」


 肩越しに感じる幼い真美、その可憐なほほ笑みはあの日のまま変わらない。このまま時間が止められれば永遠に僕はこの笑顔を失わないですむ。

 もしこのトンネルが過去につながる回廊かいろうだとしたら、ここでトレーシーを急停止させたら一体どうなってしまうのだろうか? 時間は止まったままになるのかもしれない。

 そんな馬鹿な考えがふつふつと頭をもたげてくる。僕は慌ててヘルメットを左右にふって邪念を追い払った……。


「きゃあっ、お兄ちゃん、くすぐったいよ!? わんこじゃないんだから急に身体をブルブルしないでくれる!!」


 真美が僕のヘルメットを両手で押さえこんでくる。ははっ、何だよ、仔犬みたいって思ったのは僕のほうが先だったのにな。


「真美に言いかけたことを教えてくれないかな? 陽一お兄ちゃん……」


「あ、ああ、何でもないよ、この第一ミッションを成功させて、つい気分が高ぶってしまったからかもしれないな……」


 僕は先ほどの考えを打ち消して、慌てて話をごまかそうとした。


「じゃあ、真美がお話をしてもいい?」


 彼女は僕のヘルメットから手を離し、そのまま大きく身体の伸びをした。


「このトンネルも先は長そうだし、いままで出来なかったお話をしよう!!」


 その言葉に僕はおもわず後ろを振り返り、真美の顔を見つめてしまった。彼女の陶器のような白い肌がトンネルの暗闇に浮かんてみえた。

 純白の仔犬のように小首をかしげながら、期待の視線をこちらに送ってくるその可愛いらしいしぐさ。


「お話って、何のことだ!?」


 僕はまたループしているのかと不安になった。

 こんな場面は過去に一度経験していたから。あの村一番の柿の木の下で……。


「今回は内緒じゃないよ……。すぐにお話してあげるから!!」


 真美は僕にむかって、あの悪戯いたずらっぽい笑顔を浮かべていた。



 次回に続く。

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