懐かしいオレンジ色のエプロン。

「――陽一お兄ちゃん。日葵ひまりだよ!! 位置情報を送信してもらった場所に私もサンマのTZRでむかったんだけど、もしかして学生時代によく一人でツーリングに出かけたあの場所にいたりしない?」


「あの場所って!? 日葵、お前は何で僕の居場所が分かるんだ……」


 妹の日葵からの着信だった。

 僕は妹との約束を守らなかったんだ。その場所を動くなと言われていたのに。

 でも何で僕が、この丘のある場所に移動したことが分かったんだ?


「さっき、街なかでお兄ちゃんのトレーシーとすれ違ったのに気がつかなかったの!? もの凄いスピードで……。あんな運転をしていたら免許がなくなるだけじゃなく命に関わる大事故を引き起こすよ!!」


「ま、真美が、彼女が突然、僕の前から消えちまったんだ。 あの夏の日と同じように……!!」


「陽一お兄ちゃん、まさか昔の記憶が戻ったの!? 真美ちゃんがいなくなったあの日の記憶が……。 あれだけ大学病院で何年検査しても思い出せなかったのに」


 大学病院とは近隣にある高度医療が受けられる総合病院だ、君更津きみさらず中央病院。僕はあの事件が起こった後、数年間入院していたんだ。

 なんでも脳科学の権威の偉い教授がいて、記憶を失くした僕はリハビリの合間に、さまざまな検査を受けた。だけど僕の抜け落ちた記憶が戻ることは決してなかった。

 行方不明後に一人だけ発見された際に、小学五年生だった僕の髪の毛が白髪交じりになっていたのは極度のストレス状況下に置かれていたためだと診断された。


「……日葵、僕はすべてを思い出したんだ。 !! そして今まで大変な思い違いをしていたことにも!!」


「……大変な思い違いって、もしかして真美ちゃんの消えた場所のこと!? その場所は陽一お兄ちゃんが発見されたあの大糸川おおいとがわの上流じゃなかったの!!」


「ああ、長い間、思い違いを犯していたことに気がつかなかった……。いや、気がつかなかったんじゃない!! あの夏の日、あの場所でを目撃しちまった僕は、身の毛もよだつ恐怖から卑怯にも一目散に逃げ出してしまった。真美をその場に置き去りにして……。そのすべてを黒塗りの記憶として今まで消しさっていたんだ!!」


「……陽一お兄ちゃん、その怪異って一体!?」


「トレーシーのバイク納屋で日葵の身に起こった現象にも似ているが、日葵に取り憑いたのはきっと悪いじゃない、僕たちに味方してくれる存在じゃないかと思うんだ……」


「私が、あの納屋で気を失いかけたときのこと!? たしかに身体の自由は奪われたけど、決して嫌な感じじゃなかった。まるで誰かの胸に抱きしめられているみたいに、とても温かい感触だった。髪を優しく撫でられて私はまるで赤ん坊に戻ったみたいに安らいだ気分になったの……」


 あの県営住宅で真美に再会して抱きしめられた記憶が蘇る。

 僕が彼女に優しく頭を撫でられたときにめばえた感情と同じなのか!? 

 その温かな想いを僕たち兄妹に与えられる女性は、たった一人しかいない。


 ――その人は亡くなった母だ!! 


 かすかな記憶に残る台所での思い出が蘇る。夕焼けに似たオレンジ色のエプロンの懐かしい匂い、外で遊び回って泥だらけになった僕を母は優しく抱きしめてくれた。

 そしてエプロンの胸ポケットから取り出したお菓子を僕にくれるんだ。


 おぱあちゃんには内緒だよ。片方の目を閉じて僕にウインクをしながら、普通はおばあちゃんが孫には甘いのに、これじゃあ、あべこべだね!! 

 そう言いながら笑う母の頬には、片方だけえくぼが浮かんでいた……。


 オレンジ色のエプロン。


 大人の真美があの教室の扉の向こうがわ、夢の中で僕にみせてくれた物と同じだ。

 普段なら水色のワンピースを好む彼女が、なぜ夢の中だけは、オレンジ色の布地をわざわざ僕に買いに行かせたのか? 

 そして、あのエプロンの胸ポケットにあった下手くそな恐竜の刺繍は、幼稚園の年少だった僕のために裁縫の苦手だった母が、僕に無理やりねだられて自分のエプロンに、指を絆創膏だらけにして刺繍してくれた絵柄と同じだった。

 あれは恐竜の親子じゃない、当時、流行はやっていたアニメのマスコットキャラクターで、モンスター集めの旅に出た主人公、その相棒キャラだったんだ。進化前と進化後の姿を描いた絵柄だ。

 本物と似ても似つかない刺繍をみて僕は、これじゃないと泣き出して母に駄々をこねてしまったんだ……。


 大人になってみてやっと気がついた。あの行為に対する後悔の念が消せない。

 母の僕を想う気持ちを踏みにじってしまったことに。

 あんな状況でも母はいつもの笑顔を絶やさなかった……。


 あの夢は真美の未来の願望だけで構成されていると思っていた。

 僕はこんなところでも大きな思い違いをしてしまった。

 幼い真美は道の駅の会話の中で、僕のお祖母ちゃんと母親に会ったことがあると話してくれたが、それは本当のことだろう。

 僕と母しか知らない刺繍の話を、行方不明になる前の小学生だった彼女は絶対にしるよしもないのだから……。

 亡くなった母親に対する僕の後悔の記憶まで、あの夢の中で真美は丹念に心のケアまでしてくれたのか!?


 そして亡くなった二人と行方不明の真美が出会える唯一の中間点、それはあの世と我々のいる現世を繫ぐ回廊、いにしえの時代から信仰心の集合する村唯一のにしかありえない……。


 僕は青い鳥の寓話を思い出した。

 幸せを運ぶという青い鳥を探しにチルチルとミチルの兄妹が旅に出る。

 最初に訪れた過去の国では、亡くなったおじいさんやおばあさんと再会を果たし、青い鳥も手に入れるが、その国を後にするとすべては消えてしまい青い鳥も黒色に変化する。その後、訪れた未来の国でもあと一歩で幸せの青い鳥を逃してしまう。

 失意のまま途方にくれた二人は、母親の呼びかけで自宅のベッドの上で目を覚ます。

 その日はクリスマス。部屋の鳥かごの中にあれほど探しても手に入らなかった青い鳥の羽を見つける。

 そうだ!! 幸せは過去にも未来にもない。現実の中にしかないと寓話は教えてくれた。


 僕が向かうべき本当の聖地は、あの夏の日、真美と逃避行した川の上流じゃない……。


「日葵、これから僕のところまで来てくれないか、お前も親父と二人乗りのツーリングで訪れた場所だ……」


「もちろん了解しているよ、どうせその場所だと思っていたからビンゴだったね。

 すぐに向かうから、今回は絶対にそこから動かないでね!!」


「わかっているよ、もうジタバタしない。本当の聖地巡礼場所に赴く前に、どうしてもやっておきたいことがあるんだ」


「本当の聖地巡礼って!? それは行方不明になった真美ちゃんに関係があるの?」


「ああ、関係がないわけないだろう!! だけど真美と交わしたもう一つの約束を思い出したんだ……」


「……わかった。陽一お兄ちゃんに付き合うよ、だけど日葵と絶対に約束して、決して、危ないことは、しないで……、欲しいの……」


 日葵とのインカムマイク越しの通話が途切れがちになる。この場所は電波の良いところだから携帯電話のせいではない。

 まずいな、内蔵のバッテリーが少なくなってきたか。これがないと行動に支障が出てしまう。日葵との通話も出来なくなるからだ。


「危ないことはしないよ。約束する。 あの群青の蒼には染まらないから……」


「何、わけが分からないことを言っているの!! って何のこと?」


 そうか、この言葉を僕に投げかけたのは日葵本人じゃないからな。

 僕はお祖母ちゃんの言い付けを守り、いまは亡き大切なあの人にむかって語りかけた。


「じゃあ言い直すよ。、群青の蒼には染まらない。そして僕が真美を絶対に救い出すって約束する!!」


「……陽一お兄ちゃん」


 日葵は僕の言葉を聞いても、いつものように茶化して笑ったりはしなかった。


「良くわからないけど、何があっても日葵はお兄ちゃんの味方だよ。それだけは覚えていて……」


「日葵、お前……」


「私が学生時代に、いつもお兄ちゃんが相談に乗ってくれたことへのお返しだよ。だからそんなにしんみりしないで。調子が狂っちゃうから!! 今は真美ちゃんのことだけ考えてあげて……」


「ありがとうな、日葵。 あとお前にあやまらなければならないことがもう一つあるんだ……」


「あやまるって何のこと……?」


「せっかく苦労して作ってくれたお弁当、トレーシーを飛ばしすぎて台無しにしたかもしれない。荷台の保冷バッグに入っていても前後左右に揺すられて中身はぐちゃぐちゃだと思うから……」


「そんなことか、大丈夫だよ、隙間なく詰めてあるし、普通のお弁当箱と違うから心配しないで。それに真美ちゃんの大好物、いちばん肝心な物を入れておいたから……」


「まさか太平堂の白いたい焼きか!?」


「陽一お兄ちゃん大正解、ビンゴだよ!!」


 真美が夢にまでみた白いたい焼き、三毛猫に持っていかれていなかった。あとは警察の職務質問で買いそびれたチョコプッキーがあれば完璧だ……。


「……陽一お兄ちゃん、私にまだ大きな隠しごとをしているんじゃない?」


「えっ、お前に隠しごと? 何のことだ。そろそろインカムの電池が切れそうだから手短に頼む」


「陽一お兄ちゃんを苦しませてしまいそうだから、とても言えなかったけど、真美ちゃんと私は内緒で交換日記をしていたんだ。その中にはお兄ちゃんのこともいろいろ書いてあったんだ。あのお団子取りの満月の夜の件も……」


【battery is about to run out】


 僕のヘルメット内に、インカムのバッテリー切れを知らせる警告が響いた。


 妹の日葵が真美と交換日記をしていた!? 

 そして僕と真美以外、知らないと思っていたお団子取りの約束を……。


 まだ僕の知らないことがあるのか? 真美。


 きみは日葵との交換日記の中に、何をしるしていたんだ……。




 次回に続く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る