第四十七話 もう一つの護法

 ◆◇◆


 魔法陣に浮かび上がった光景。アウレリスが泣いていることに気づいたエリシエルは、その瞳を見開いていた。


「……あの子が……」


 全てを言葉にすることは、できなかった。


 アウレリスは届かないと知っていながら、敗北の時を遅らせようと攻撃の手を緩めずにいるようにも見える。


 決闘に臨む上で潔さを欠いた行為であっても、誰も咎める者などいなかった。


 アウレリスは泣きながら、笑っている。届かない相手に対して、今少しでも近づけるようにと、その攻撃はロイドに避けられるごとに洗練されていく。


「……アウレリス……あんなに強くなってるなんて」


 ユズリハの手は、隣に立つクズノハの服を掴んでいる。クズノハは妹の手に自分の手を重ねて、震えるような息をしながら、今も続くアウレリスの攻撃と、それを避け続けるロイドの姿を見つめていた。


「このままでは、アウレリスの魔力が尽きる。そうなれば……」

「まだ終わっていない。牙を失っていないのなら、最後まで見届ける」


 スセリを制するようにリューネイアが言う。彼女もまた、ほとんど瞬きもしないままに、幻影闘技場の光景を見ていた。


 皇姫たちの表情からは、ロイドの実力に対する疑念は完全に消えていた。


 レティシアは自分が教官として果たせることは、ロイドが今アウレリスにしていることに及びうるのかと考えずにはいられなかった。


 アウレリスは戦いを通して変わり始めている。


 彼女が泣きながら笑うのは、魔法学園に来た目的――自らを凌ぐ強者に出会うことを、これ以上ない形で示されたから。


 レティシアはロイドの言葉を思い出す。


 ――すみません、驚かせてしまって。できれば普通の生徒として試験を受けさせてください。


 そう言った彼の実力がどれほどのものか、ある程度理解しているつもりだった。それでも、ロイドはそれを遥かに凌駕していた。


 皇姫たちはまだ自覚していなかった。魔皇姫の戦う姿を見ながら、いつしか自分たちも涙を零していたことに。


 ◆◇◆


 セイバは剣を抜いたロイドの動きの変化に瞠目どうもくする。


「なぜこんなことが……どれほどの修羅場を潜り抜けて、君はここに……」


 ロイドはアウレリスの攻撃を、全て裏刃を使って受けている。


 一度も切り返すことなく、常に完全な体勢でアウレリスの攻撃を受けなければ、そのようなことはおよそ不可能だった。


「あの結界の中では、アウレリス殿下は『どこからでも』攻撃ができる。手段を選ばなければ、紅い霧を形状変化させてロイドを拘束することもできるはず……なのに、それができない」


 ミューリアはアイマスクを外し、ロイドたちの姿を直に見ながら言う。伯爵として、そしてこれからロイドたちの教官補佐となる者の矜持として、この戦いについて一つでも多くを理解したい、その思いが彼女にはあった。


「彼は『吸魔』を無効化するために使った技を使わずとも、常に不可視の魔力で身体を覆っている。それがある限り、紅い霧に満ちた空間でも、彼を捕らえられたということにはならない……そして、まるで全方位が見えているかのように、あらゆる攻撃に先んじて反応している」

「それが、私の兄様です。本当は魔法を使わなくても強い……どうやってそこまで強くなったのか分からないくらい」


 カノンの横顔を見たミューリアは、娘の手を握る。


 そしてカノンは、ミューリアの顔を見上げ――白い頬に、涙が伝う。


「魔皇姫殿下は、今持てる全てを見せてくださっている。でもロイドなら、きっと大丈夫」

「いいえ……違うんです。私はただ、魔皇姫殿下のお気持ちを想像して……」

「……悔しい、でしょうね。でも、殿下は笑っておいでになる。どんな形で決着がついても悔いは残らないと思うわ」


 母と娘の姿を見て、セイバは後ろを向く。一度眼鏡を外し、そして向き直った時には、その表情は平常に戻っていた。


「こんな戦いを見られるとは思っていなかった。今日は教わることが多い日になりました」


 セイバは自分が剣の柄に手を当てていることに苦笑する。それはロイドの気迫に触発されたからこそだった。


 アウレリスがロイドに向ける視線は、もはや敵対する相手に向けるものではない。


 そしてロイドもまた、アウレリスのことを認めているとミューリアは感じた。


「……綺麗。まるで、二人で踊っているみたい」


 母の言葉に、カノンは目元をハンカチで押さえて微笑む。


 アウレリスに対する思いは妬くような気持ちではなく、今は違うものに変わっていた。


 ◆◇◆


 アウレリスの牙は俺の纏う魔力の端だけしか捉えられず、攻撃を繰り出すたびに小さな紅い結晶の花が散る。


「――まだっ……!」


 最後まで、諦めることをしない。しかし幻体の維持限界は、目に見える形で訪れた。


 アウレリスの纏う決闘衣装ドレスが、手に持つ扇が、形を保てなくなっていく。それでも彼女は攻撃を繰り出し続ける。


「くっ……ぅ……」


 一撃ごとの消耗が、攻撃の速度と精度を失わせていく。


 そのはずなのに、アウレリスの執念が、無駄のない最速の軌道で攻撃することを可能にする。


 彼女は戦いの中で成長している。涙はもう止まっている――時に魔眼を発動させるが、その瞳の輝きは魔力の減少に反して増すばかりだった。


『……あなたが魔力にさえ触れさせないように攻撃を避けていたら、私の魔力は尽きていたでしょう。しかしそうでないからこそ、まだ舞うことができている』


 伝わってくる心情は、発せられる言葉とは違い、静かなものだった。


 ただ、俺に吸魔の牙を打ち込むためではない。彼女が流れるように攻撃を続けた理由は、もうひとつある。


 勝つための最後の切り札。それは『城』に足を踏み入れた者を、逃さないための『檻』。


 ――紅き血の檻で、鳥は翼を失う 血獄ブラッドプリズン――


 アウレリスの魔力で展開した結界を急激に圧縮し、俺を封じ込める。それが『血獄』――彼女の最後の切り札だった。


「私の城から逃げ出すことはできない」


 アウレリスの幻体の本体が姿を表す。身につけた衣装はほとんど原型をとどめていない。


「決してあなたを逃さない。あなたが私より強いとしても、この状態で『牙』をかわすことはできませんわ」

「僕の動きを封じるために、限界を恐れずに攻撃を続けたんですか」

「限界などありません。あなたの魔力を貰うことができれば、見苦しい姿を見せることもなくなります」


 大きく露わになった胸を、ぼろぼろの扇で覆う。アウレリスは恥じらうことなく、ただ満足そうに俺を見ていた。


「――『集束せよ』」


 アウレリスの詠唱に呼応し、展開した紅霧の結界が俺に向けて急速に狭まっていく。


「これが私の『牙』ですわ、ロイド・フィアレス……ッ!」


 両手を牙を剥いたあぎとに見立てて、アウレリスは喰らいつくように手を合わせる。


 紅霧が大きな牙のように形状変化し、俺に向かってくる――しかし。


 ――牙が、止まる。


 俺の剣に詠唱句が浮かび上がる。それに呼応するように、俺の足元が輝きを放つ。


「魔皇姫殿下の結界を破ることは、絶対に必要なことと考えていました。貴女の言う通り、『城』に足を踏み入れたのなら、外に出るには扉を開ける必要があります」

「……私の攻撃を、避けた軌跡で……足元に、陣を……!」


 《第四の護法 我が空は果てなく悠遠なり――『絶色ぜしき』》


 第一の護法は自らが主体となる。第二の護法は、護衛対象に魔法の援護を与える。


 第三の護法は相手の力を利用する。そして、第四は――。


「各国の限られた血族しか使えないはずの結界術まで……なぜ、あなたが……」


 天帝アルスメリアは、七帝国最高の魔法使いだった。


 彼女が最も得意とした魔法は――皇族が一子相伝で伝えてきた、結界術。


 どれだけ修練を重ねても、『ヴァンス』だった俺は到底彼女には及ばなかった。


 俺が身につけることができたのは、ごく限られた範囲において魔力の干渉を絶つというだけの結界。


 俺に向けられた牙は、俺に届く前に色を無くす。狭まり続けていた紅霧の結界もまた、内側から抵抗を受け――まるで紅の花が開くようにして霧散した。


「……なぜ……もっと早く、私の結界を破ることができたのに……っ」


 本当はどんな状況になっても結界術を使うつもりはなかった。


 こんな術では、何の力にもならなかった。俺はアルスメリアのために、何もしてやれなかった。


 護ると誓いながら、彼女が命を捧げるまで見ていることしかできなかった。


 自分の無力を思い出させるためだけの魔法を、なぜここで使ったのか。


「それは……貴女が強かったからです。僕が想像するよりも、ずっと」

「っ……馬鹿にしないでくださいませ! ロイド、貴方は私になんて、本気を出す必要もないと思って……っ」

「そんなことは決してありません。僕は不敬であると知りながら、殿下に剣を向けました。そして、殿下の技を受けるために多くの技を使った。結界術も、使わなければ負けると感じたからこそ使ったんです」


 アウレリスの瞳は涙で潤んでいる。しかし彼女は、まだ形が残っているドレスの袖で涙を拭うと――最後の魔力をその右手に込めて、俺に向かってきた。


「――それならば最後まで、戦って……っ」


 最後まで、言い終えることができないうちに。


 がくん、とアウレリスの身体から力が抜ける。幻体が限界を迎えた――意識を保つことすらできないほど、魔力を消耗している。


 このまま何もしなければ、幻影舞闘は終わる。


 この幻影闘技場から、アウレリスの幻体が消えようとしている――しかし。


 戦いが始まる前に、聞こえた声。


 はっきりと聞こえなかったその言葉を、今になって理解できたような気がしたから。



『――よりによって、こんなことになるとは』


『きっと君と私は、そういう運命にあるのかもしれないな』



 前のめりに突き出された、アウレリスの右手。それを、俺は素手で受け止めた。 


 一度は消えかけた幻体が『吸魔』の効果で維持される。そして破れたドレスが一瞬で再生する――しかしアウレリスは俺に抱きとめられても、もう動くことはしなかった。


「……申し……」


 申し訳ないと、触れたことを謝罪しなければと思った。しかし魔皇姫は、俺の胸に寄りすがったまま、片手の指で俺の言葉を封じた。


「……貴方の勝ちです。ロイド・フィアレス」


 アウレリスの言葉と共に、意識が幻影闘技場から引き剥がされるように遠のいていく。


 ――決して似てはいない。姿も声も、近くはないはずなのに。


 魔皇姫の最後に見せた微笑みが、消えゆく幻影の中で巡っていた。

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