腹ペコエルフの廃墟探訪 〜突撃となりのパントリー〜

ふたつき

第1話 エルフと廃墟と犬と茶色い板

 城のような、砦のような、石造りと思われる大きな建物が並ぶ中、すらりとした一人の女性――長い耳をしたエルフが途方に暮れていた。




「ベル。気をしっかり持つのよ……!」


 自らの名を呼び、自身を励ましている彼女の正式な名はもう少し長い。


 ベルフェームレボアメイユール。


 子宝になかなか恵まれなかった両親の元に、ようやく授かった子として産まれた彼女。助産士に取り上げられたその赤ん坊の顔を一目見た父親によって、古いエルフの言葉で『森で一番の美女』と名付けられてしまった。


 彼女はその名を重く感じ、周囲にはただ『ベル』と呼ばせていた。父親は不満げであったが、彼女は短く呼びやすいそのあだ名を気に入っていた。


 しかし、彼女のその長い正式な名が名前負けなどでは無い事は、父親を始めとした森の男達の共通認識であった。だが、彼女はそれを知る事なく森を出ている。




「冷静に、何が起きたのか考えて……」


 落ち着きを取り戻してきたベルは自らの置かれた状況を整理し始める。


「まず、私は王都に到着して、恒例の屋台巡りをしていたはず。そして美味しそうな串焼き肉のお店の前で財布とにらめっこしていた……」


 大陸に広大な版図を持つ巨大な王国、その首都である王都は煌びやかで、小さな国ほどの広さを持っていた。見た事も無いような大きな建物が立ち並ぶ華やかな都は、大陸の端にある田舎の大森林から出てきたベルにとっては憧れの大都会であり、また旅の目的地としていた場所だった。


 ベルは王都までの旅の途中、町に着くたびその地その地で特色のある物を食べる事を無上の喜びとしていた。そんな彼女は王都に着くなり当然のように大通りの屋台を見て回っていたのだった。


「そうだ。お金がいつの間にか少なくなってて……それでスリにあったと思って……」


 それは完全な誤解であり、路銀が少なくなっていたのはベルの単なる計画性の無さゆえだった。そもそも財布はリュックではなく、王都に着いてからは常に体の前で抱えていた小さな肩掛けバッグに入れていたのだから、そうそうスられる物では無い。


「辺りをキョロキョロしてたら……私、馬車に轢かれて――」


 ある種の現実逃避として周囲を見回したベルは、自身に迫る二頭立ての馬車の存在にようやく気付いた。しかし、買えもしない屋台の串肉に夢中になっていた彼女には、それはもう回避する事が叶わない位置にまで近づいていた。



 死ぬ。そう思った。



 大通りは馬車が優先であり、呆けた挙句に轢かれても、そんな場所で注意を怠る方が悪く。ましてや大きな音を立てて走る馬車に気付きもしないのでは、文句も言えないのだった。


 大森林の守り人であり、動物達の友人であるエルフが馬に轢かれて死ぬなど、故郷の両親に知られたら自刃モノの大恥だ。ベルは目の前に迫った馬と目が合いながらそんな事を思っていた。


 しかし、ベルは大恥を免れる。


 目の前が白く光り、あまりの眩しさに思わず目を瞑ったベルが、再度目を開くとそこは――先ほどまでお金がなくて食べられなかった串焼き屋の前では無く、王都よりも高い建物が並ぶ、ひと気の無い見知らぬ地であった。


「轢かれてはいない……のよね……?」


 改めてベルは自身の体の無事を確認する。手や足をくまなく見て変化がない事を確かめる。一度だけ彼女のその慎ましい胸の上で視線が留まるも、特に異常は無かった。


「一体何が起きたっていうの? まさか、おとぎ話に聞く転移の魔法?」


 先ほどまで居たはずの王都の大通りから一転、見た事も無いような場所に一瞬で移動している事実から、そう考えるのは無理からぬ事だった。


「だとしてもなんで私が? 馬に轢かれる時に? 大通りの真ん中なんかで?」


 ベルの頭の中を疑問が駆け回り、思考をかき混ぜ混乱させていく。


 さて、思考と言うものは案外と疲れるものである。人間、疲れるとどうなるのか。


 静かな空間に腹の虫が鳴り響く。


 ベルは王都に到着前からある事をしていた。屋台をより楽しむために、路銀を節約するために、そんな理由から食事を控えていたのだった。そして、ようやく何か食べられる、そう思った矢先の変事である。それでも彼女がその空腹を忘れていられる時間はそう長くは無かった。


 世界中に響き渡ったかと錯覚するほどに大きく嘶く自らの腹の虫に、誰かに聞かれてはしないかと焦るベル。しかし、周囲をどれだけ見回しても人の気配は無かった。


 改めて気づくその事実に、ベルは不安と恐怖を覚える。


「人の気配が全く無い……何、ここは……」


 蔦の絡まる建物の壁際や道と思われる灰色の石が敷き詰められた地面には、砂が溜まっている箇所がいくつもあった。それは人が生活する街中ではあまり見ない光景だったが、ベルには思い当たる節があった。


「滅ぼされた国の廃墟みたい……」


 大森林から王都を目指しての旅の途中、戦争があったのだろう誰も居ない廃墟となった国の跡地を通りがかった。そこで見た、かつて存在した人の営みを、その栄華を、想像するしかない寂しい光景は、今 目の前に広がる町並みと重なり、言い知れない孤独を感じたのだった。


 しかし、ベルは一つの事実に気付き少し安堵する。


「人はともかく……動物は居るみたいね。この足跡は小さいけど犬かしら?」


 大森林で自然と暮らし森の生き物達を隣人とするエルフ達にとって、犬と言う存在は、ある意味人よりも安心を得られるのであった。


「砂の具合からすると、つい最近の足跡ね。近くに居るのかしら……あっ――」


 残された気配からそう推察し周囲を見回すと、建物と建物の間の通路と思しき陰からこちらを伺う一対の光る目を発見した。人間であればその暗がりからは見つけることは叶わなかったであろうが、ベルはエルフだった。


 ひと気の無い異様な建物が立ち並ぶ見知らぬ場所で見つけたその存在に、ベルは歓喜した。


 よもや世界に一人ぼっちになってしまったのかと錯覚するほどの孤独を感じ始め、かつて無いほどに不安になったベルにはその孤独を埋めてくれる仲間が必要だった。そしてそれは、今一度彼女の空腹を紛らわせる事に成功した。




「私はエルフよー……お前達の隣人、怖くないよー……」


 ベルは恐る恐る近づいて行く。陰で光る目は一瞬ピクリと動こうとしたが、思い直したように動きを止めた。


「やっぱり犬だったのね。……見た事も無い種類だけど……可愛い子犬ね」


 近づいて来た人間を警戒する素ぶりを見せながらも、犬は陰から姿を現した。その狼に似た姿の体は小さく、片手で簡単に抱えられそうな大きさだ。全身を覆う黒っぽい毛は短く、顔の一部と手足の部分だけ白くなっていた。


「ふふっ。なんだか眉毛があるみたいで変な顔」


 ちょうど目の上の部分が白くなっているせいで愛嬌のある顔になっており、顔を見合わせたベルはおもわず笑ってしまった。


「わんっ、わわんっ!」


 ベルに向かって、子犬は抗議するように吠え立てる。


「ごめんごめん。でも可愛いわよ、あなた」


 ベルは地面に膝を突いて目線を下げ、子犬に向かって謝りながら手を差し伸べる。子犬はその手と彼女の顔を何度も見比べた。


「私はエルフ。お前達の隣人よ、友達になりましょう?」


 最初と同じセリフを今度ははっきりと、子犬の目を見つめ意思を込めて伝える。エルフは動物を隣人と称するだけあり、ある程度動物達と意思の疎通を図る事ができた。

 やがて子犬はその手に擦り寄ると、自らのアゴを乗せた。その愛らしい仕草にベルは堪らず声を上げる。


「ふわぁぁぁ、可愛いぃぃ。こんな愛らしい犬種、見た事ないわ……」


 乗せられたアゴや頭を始め、背中、お腹、全身余すところなく撫で尽くす。


「おぉ、よしよしよし。良い子だねー。ん、男の子なのね」


 わさわさ、もしゃもしゃと。されるがままの子犬はすっかり気持ち良さそうにしていた。


「お前、親は居ないの?」


 子犬を一通り撫で尽くした後、その顔を覗き込みながら聞く。


「くぅぅん……」


 切なげな子犬の鳴き声の意味が、ベルには伝わった。


「そう……なら、一緒に行く?」


 寂しげな子犬の頭を撫でながらの質問に子犬は目を輝かせた。


「わぅん!」


 子犬の元気な返事に、ベルの声も弾む。


「それじゃよろしくね! 私はベル。お前の名前は……どうしようか」


「わぅ?」


 子犬はベルの次の言葉を待つように、その身を預けたままだ。


「うーん……よく考えたら私こういうの苦手なんだった……」


 森に居た頃、動物達に名前を付ける機会はあったが、そのどれもが何故か人に笑われたベルだった。


「むむむ……ドドメルキ……ペムンシュカ……」


「わふ!? くぅぅん……」


 ベルの口から漏れる名前らしき候補に、子犬は不安げにしている。しかし必死に名前を考えている彼女にそれが気づかれる事は無かった。


「もっとカッコいい感じのが良いかしら……ウリサムスルタン、カリーヌスコッツヌガー……」


 気づけば子犬の体は震え始めていた。そして更に必死に名前を考えるベルにそれが気づかれる事は、やはり無かった。


「あんまり長いのも呼びにくいかしら……?」


「わ、わんわん!」


 ふとしたベルの一言に、子犬は同意するように吠えた。


「あら、短い方がいい?」


 その同意は奇跡的に彼女に届いた。


「わぅ」


 子犬は少し安堵したようだ。


「それじゃあ……ウリヌ……パンズ……テオ――」


 ベルのあげて行く候補の一つに反応するように子犬が吠える。


「わぅ! わんわん!」


「ん? テオがいいの?」


「わぅん!」


 返事をした子犬は懇願するように、自分を抱くベルの目を見つめた。


「私としてはイマイチ、パッとしない気がするけど……」


「わぅわぅ」


「お前が選んだなら、その方が良いか」


「わっふぅ……」


「うん? でもまぁ、これで寂しい思いをしなくて済みそうね、お互い」


 心底ホッとした様子の子犬を不思議がりながらもその頭を撫でつつ、彼女は新しい旅の仲間の事を喜んだ。


「それじゃあテオ、これからよろしくね!」


「わん!」


 ベルは子犬を顔の前に掲げ、そう言うと――




 再度、世界に腹の虫の声が轟いた。



「わふ!?」


 あまりの音にテオはビックリしている。ベルが空腹を忘れていられるのもいよいよ限界のようだった。


「そうだ、テオ。私すごいお腹空いてるの。ここで生きてるお前なら何か食べ物があるところ知らない?」


 子犬に食べ物の在処を聞く大人の姿は、はたから見れば異様な光景であっただろう。しかし周囲には誰も居らず、ベルは動物の隣人エルフだった。


「わんわん!」


 ベルの声に答えたテオは、抱えられていた腕の中から飛び降り、駆け出して行く。


「あ、待って待って! 置いていかないでー」


 思いの外に素早いその動きに焦ったベルは、慌ててその後を追いかけた。


 廃墟の建物の間をするすると抜けて行くテオ。ベルははぐれない様についていくのがやっとだった。




「それにしても、本当に何なのかしらここ」


 テオが潜り抜けた金属で出来た網のような壁を乗り越えながら、ベルは再びこの場所の不思議さに驚いていた。


 道に土が見える部分は殆ど無いに等しく、その大部分は灰色の石の様な物で覆われている。所々割れてはいるが、無事な部分を見ればそれが石畳ではない事は明らかだった。特筆すべきはその平坦さ。石畳に付き物の足を取られる凹凸が無く、真っ平と言って良いほどだ。土より硬いが非常に走りやすかった。


 そんな走りやすい道の上にも邪魔な物はあった。そこかしこに馬が不在の馬車の様な物が点在していたからだ。それらはめいめいに傾いたり、車輪が潰れたりしているため、機能としては死んでいるのだろう事だけが辛うじてわかる。


 そして周囲の建物もまた、ベルの記憶にあるどれとも様式が異なる不思議な物だった。その多くは直線的な形をしており、聳え立つと表現する他無いような高さで山脈の様に連なり整然と建っている。更に不思議な事に、その建物の壁に直接或いは看板の様な物に、絵や文字の様な物が必ずと言って良いほど描いてあった。それが何を意味するのか元々あまり文字が読めないベルには皆目見当がつかないのだった。


 ただ、いくつかの絵が食べ物や人間を驚くほど精緻に描いていてベルを驚かせた。


「あの絵の食べ物? よく分からないけど、見てると凄いお腹が空くわ……」


 思わずそう呟いたベルの視線の先には、赤地に黒い文字の様な物で『家系ラーメン』と書かれている。彼女には読めないが、それは店の看板の様にも思えた。


「あの器に盛られたのは麺類かしら? 叶うなら食べてみたいわね」


 今自分がいる場所は廃墟のようだが、ここ以外には人が居るかもしれない、そしたらあの絵の食べ物もあるかもしれない、見つけたら絶対に食べてみたいとベルは思った。


 テオを追って街中を走りながら、どんどんとお腹を空かせていくベル。


「どこまで走るの……テオ……私……そろそろ死んじゃう……」


 空腹に耐えかね、走る気力も限界に近づき、頭がくらくらし始めた頃。テオは大きな建物の前でようやく速度を落とした。


「ここに食べ物があるのね!?」


「わん!」


 少しだけ気力を取り戻したベルにテオは頼もしく答えた。


 開いたままの入り口と思われる場所から建物に入る。入ってすぐに人ひとり通れる程度に半端に開いた透明なガラスの引き戸が目に入る。


「え? これまさか硝子だったの? こんな綺麗で大きいなんて……これ一枚で豪邸が建ちそうじゃない」


 人よりも大きく透明な一枚板のガラスなど見た事も聞いた事も無かったベルは、ここに来るまでに見た窓に嵌っていた物がガラスであると言う事に今まで気付かないでいた。それもそのはず、彼女の知るガラスはお金持ちの家の窓に嵌っている物ですら黄ばんでいて小さい物だった。


「何この引き戸、結構重たいわね……こんなおっきな硝子使うなら、取手ぐらいつけておきなさいよ……っと」


 高そうなガラスにぶつかって割りたくなかったベルは、入り口を広げようと引き戸に手を掛けるもその重さに驚いていた。


 入り口付近は埃っぽかったが、奥の方は綺麗なままだった。


 テオはベルが着いて来てる事を確認すると、迷いなく建物の中を進む。階段を上がるようだ。


「何この階段、どこまで続いてるの?」


 上を見上げれば折れ曲がった階段が延々と続いている様に見えた。その姿に絶望を隠せないベル。


「テオ、私一番上までは登れないかも……」


「わんわん」


 心配無いとばかりにテオは小さい体で器用に階段を登っていく。テオはすぐ上の階で通路へと出た。


「あ、良かった。ありがとう、テオ」


 通路には扉が等間隔にいくつも並んでおり、テオはそのうちの開いたままの一つに入って行く。


 後に続き扉を潜ったベルは、今まで感じられなかった人の営みを初めて感じた。


「人が住んでた部屋のようね……イスやテーブル、ソファなんかもあるわね。何か良く分からない物も一杯だけど」


 見慣れた形をした家具がある事に安堵するも、天井からぶら下がる半透明な物体や壁際に置かれた黒っぽい板のような物、良く分からない白い箱の様な物がベルの興味を惹いてく。


「わぅ!」


「あ、ごめん。テオ」


 ベルがボーっと部屋を眺めていたらテオが怒ったようだ。


 テオは部屋の奥へと進んでいくと、そこは鍋や見覚えのある調理器具などが並んだ空間だった。


「ここは、キッチンかしら?」


 さらにその奥の小部屋へとテオはベルを誘導した。


「ねぇ、テオ? ここ……?」


 パントリーのようなその場所は、既に何者かに荒らされた後だった。その様子に不安を隠せなくなる。


「わう!」


 しかしテオは自信ありげなようだった。


「確かに食べ物があったようだけど……どれも牙みたいな痕が……って、もしかしてテオが食べたの?」


 床に散らばる袋の様な物には全て犬が噛んだような痕が付いていた。ベルが恨めしげにテオを見ると、彼は何かを咥えていた。


「あら! これ私にくれるの?」


「わん!」


 咥えていた何かをベルの前に置いてテオは自慢げに吠えた。


「よしよーし! ありがとうねー、テオ!」


 褒めて欲しそうな雰囲気で待っているテオを、ベルは撫でまわした。


「――で、コレは何かしら?」


 ベルは一通りテオを撫でた後、目の前の物を改めて見る。それは何か書かれた黒い紙が巻かれた銀色の金属の様な物体だった。ベルの目にはおよそ食べ物であるようには見えなかったが、とある感覚が興味を惹く。


「甘い匂いがする……」


 目の前の不思議な物体が、砂糖を使ったお菓子の様な甘い匂いを放っている事にベルは気付いた。


 ――甘味、それは今まで立ち寄ったどの町でも高級品であり、おいそれと手が出せる値段では無く、ベルにはついぞ食べる機会を得られなかった物だ。しかし、店の前で店主に怒られるまでこれでもかと嗅いだ匂いにも似たものが、目の前の不思議な物体から漂っている。


「まさか、甘味だととでも言うの……!」


 否応なしにベルの期待が高まる。夢にまで見た憧れの甘味に、こんな訳の分からない場所で出会う事になるとは、彼女は思ってもみなかった。


 逸る気持ちを抑え、いざ謎の物体を手に取ると、金属の様な見た目の割に思いの外軽い事にがっかりする。しかし鼻腔をくすぐる匂いが強くなり、すぐにそれは期待に取って代わる。


「ど、どどど、どうやって食べるのかしら……」


 ベルは手に取ったそれを興奮を隠しきれない様子で見つめる。やがて、テオの牙が当たったのか銀色の物体に一ヶ所穴が開き、茶色っぽい何かが顔を覗かせているのに気付いた。


「この銀色の、紙みたいに薄いのね」


 ベルは穴を広げて、中の物を露わにしていく。途端に甘い匂いも強くなる。


「わっ! 凄い良い香りだわ」


 興奮しながら銀色の紙を剥いていく。空腹も最高潮だ。


「でも……これ、食べ物なの……?」


 出てきた物の見た目は、タイルのように細かな細工が施された茶色い板だった。木の板の様にしか見えない、自分の知っている食べ物とはかけ離れた見た目に意気が挫けそうになる。


 食べ物に装飾を施すと言うのは、宮廷料理などにそう言ったものがある、という程度には知っているベルだったが、目の前の板がそれと同じような物にはとても思えなかった。


 しかし甘い匂いは間違いなく目の前の物体から漂ってくる。その事実だけで木に見える理解不能な物体に齧りつく事を、ベルが決心しかけたその時。指先に違和感を覚え、ふとそちらを見ると茶色い物が着いてるのに気づいた。


「え? 溶けてる?」


 細工された木の板の様な物は、掴んだ指の形に凹み、溶けた物が指先に付着していた。そして自分の指先からは、求めてやまなかった甘味の匂いが漂う。


「えぇい! 女は度胸!」


 いよいよ我慢が出来なくなったベルが、その指先を舐める。



 その瞬間――


「んぅぅ――――――――――――――!!!!」


 生まれてから今まで、感じた事も無い衝撃がベルの脳内を弾けまわる。


「な、なにこれ! なにこれなにこれ!?」


 第一印象は『甘い』第二印象は『良い香り』その後はひたすら『美味しい』だった。


 これ程の食べ物を知らずに生きてきた今までの人生は、どれほど無味乾燥だったのか、と己の人生観の根底を揺るがしかねない衝撃にベルは耐えていた。


 嗅いだことのない独特な香りは、その上品な甘さを引き立てつつ、ベルの鼻を優しく、しかしこれ以上に無いほど強く突き抜ける。口の中を通った空気すら甘露だった。


「こんなに甘くて美味しい物が存在したなんて……」


 最早ベルには目の前の物体が不思議でも謎でも何でもなく、極上の甘味にしか見えなくなっていた。


「いただきます!」


 略式の感謝の祈りを素早く森の神に捧げ、茶色い板に噛り付く。見た目の通り堅い感触が歯に返ってくるが、すぐさま小気味よい音と共に砕けた。


 食感まで美味しい事実にベルは震える。一口、二口と小さく、一気に食べてしまわない様に気を付けながら、味と感動を共に味わって行った。




 半分ほど食べた所で、空腹でフラフラだった体に力が戻ってきている事に気付く。この世の物とは思えないこの甘味は、少し口にしただけで人を回復させる効果があるのかとベルは思った。


「これはもしかして天界の食べ物なのでは……」


 神話の中には、一口食べればどんな怪我も病も治す不思議な食べ物が出てくる物もある。ベルには目の前の茶色い板がそれと同じ物のように感じた。


 体に力が戻ってきた事で、テオがじっと自分を見ている事にようやく気付いた。


「そうね、テオのお陰だもんね。お前もお食べ?」


 彼女はそう言って今回の功労者に、ようやく手に入れた食べ物を分け与えようとした。


 しかし、テオは差し出されたその黒い板状の食べ物の臭いを嗅ぐなり、プイッとそっぽを向いた。


「あら、テオはこれが嫌いなの? 甘くて美味しいのに……」


 自分にとって経験した事の無い極上の甘露を与えてくれた食べ物が、仲間の理解を得られなかった事を悲しむ。


 しかし――


「じゃあ、全部私が食べちゃって良いわよね!」


 この茶色い板状の食べ物を独占できる喜びには勝てなかった。


 廃墟の部屋には暫し、ベルが板を齧る小気味いい幸せの音が響いていった。





 やがて幸せの茶色い板を食べ終えたベルは勢いよく立ち上がる。


「それじゃ次はテオの分を探さないとね! お前の鼻に期待してるわよ!」


「わん!」


 彼女の声にテオは元気に答えた。


「行こう! テオ!」


 エルフと一匹は、灰色の建物が森のようにそびえ立つ、もの哀しげな廃墟には似つかわしくない雰囲気で元気に歩き出して行った。

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