水面に花弁

 ――九六九年 花季三節



 彼女曰く「全裸で水没していた」とのことであった。

 

 

 異変に気付いた彼女のおかげで生死の狭間をこれ以上彷徨わずに済んだことには感謝すべきであるし、その場に常連の一人のデリックが居合わせた幸運にも感謝すべきだとは思うのだが、せめて彼女以外の誰かに見つけてもらいたかった。『ヤドリギ』はいつもよりはるかに長く伸びきってしまっている蔦で毛布を手繰り手繰り、苦い顔をせざるを得ない。

 一通り体内の水を吐き出し、今にも死にそうな顔で震えている『ヤドリギ』のために、温かく食べやすいものを作ってやろう、というデリックの申し出をありがたく受け、今、『ヤドリギ』は常連の二人と火にかけられた鍋を眺めている。

 デリックは鍋をかき回しながら、半ば驚き、半ば呆れたような調子で言う。

「とりあえず、水没しても死なない辺り、やっぱり人間離れしてるよな」

「俺も……、まさか生きているとは思っていなかった……」

 自分で言っていては世話がないと思うのだが、率直な本音である。『ヤドリギ』は未だに自身の生態について全てを知っているわけではないので、頭の片隅に位置する「己の生態」の項目に「水没しても簡単には死なない」ないし「死ねない」を追加しておく。

「比較的新しいキャンプ跡と荷物があったから、この辺りにいるのかなとは思ってたけど。ここまで蔦だけ這ってきたのは流石に驚いたわよ」

 と、彼女は肩を竦めて言う。彼女がキャンプ跡を検めている時に、伸びきった蔦の一本が助けを求めるように彼女の足を引っ張ったのだそうだ。そして、蔦に導かれるようにそちらに向かうと、蔦だけを地面に投げ出した形で洞窟内の泉に沈んでいる『ヤドリギ』がいたのだという。

「そろそろ一週間経つからもう大丈夫でしょ、って思ったらこれだもの。あたしも胆が冷えたわよ。自殺でも試みたんじゃないかって」

「脅かせたようですまない。ただ、いくら世を儚んだとしても全裸で水死は俺の望むところではない……」

「普通は誰も望まないと思うわよ?」

 そもそも『ヤドリギ』に自殺する気など全くなかったのだ。単なる不幸な事故、もう少し正確に言うなら『ヤドリギ』の自己認識の甘さから来た不注意による事故であったといえよう。

「そういや、ここしばらくとんと上層の方で噂を聞かなかったな。何かあったのか?」

「あたしも『絶対に、一週間はここに近づくな』って言われてただけ。それとあんたが全裸で沈んでた因果関係がさっぱりわかんないんだけど?」

 デリックと彼女が口々に言う。当然疑問に思われてしかるべきだろう。このような醜態を晒してしまったなら、尚更。

 とはいえ、あまり大声で言いたくはない類の話であるだけに、『ヤドリギ』はまだ少しだけ湿っている頭を掻く。その時、おそらくは髪に絡まっていたのだろう、花弁が一枚毛布の上に落ちた。焚き火の赤に照らされてもなおはっきりと青色をしているとわかる、厚みのある花弁。

 そう、全ての元凶は「これ」なのだ。どうしようもないとわかっていても、つい眉を寄せて花弁を睨みながら、重たくなりがちな唇を開く。

「どこから話すべきかは悩ましいところなのだが。この、右腕……、正確には俺と共生している『これ』は、ある程度、俺の意志に従っている」

「使いこなせてはいないけどね。さっさと自分で髭くらい剃れるようになりなさいよ」

「……努力はしている」

 彼女の指摘はもっともだった。自分でも色々と試してはいるのだが、不器用な左手だけではどうにも頼りないし、右腕の蔦にダメで元々というつもりで剃刀を持たせてみたら、案の定力加減が上手く行かずざっくり顎を切る羽目になったので、未だに髭を剃る時には彼女の手を借りるのが常となっていた。

「とにかく、『これ』は勝手に動いている時もあるが、それは俺が意識を離している間の話であって、意識している限りは大まかな制御ができる。……ほとんどの場合は、そうだ」

「つまり、例外があるってことか」

「ああ。俺の意識に反して『これ』が動く、……というよりも、言ってしまえば『これ』が俺の体を乗っ取ってくる時期が一年に一度だけある」

 乗っ取る、という言葉が全く正確ではないということも『ヤドリギ』はわかっている。『ヤドリギ』とその体に宿る名も知らぬ植物は二つで一つの命であって、厳密に区別できるものではなくなっている。もはや、どちらが欠けても生きてはいかれないもの。

 故に、今回の件でも、『ヤドリギ』の生命の危機に際して、かろうじて自由になっていた蔦の部分が彼女に助けを求めたのだろう、ということもわかっている。

 とはいえ、『ヤドリギ』の主観ではどうしても「乗っ取られた」と言いたくなってしまうのだ。

「……それを、俺は『開花時期』と呼んでいる」

「開花?」

「そう、この蔦は花を咲かせる植物だ。この花びらのような、青い花を」

『ヤドリギ』は自らに宿る植物の本質は「蔦」ではなく「花」なのであろうと思っている。ただ、花を咲かせる時期が極めて短いために、今まで誰にも――それこそ『ヤドリギ』以外の誰にも観測されえなかったというだけで。

「人にとっての花とはその姿形を愛でるものだが、植物にとっての花とはその形や色、香りをもって虫や鳥といった花粉を媒介する者を呼び寄せて、種子を作り次代へと繋げるための『仕組み』だ」

 もっと露骨な言い方もしようと思えばできたが、『ヤドリギ』の理性はどうしても婉曲的な表現を選ばずにはいられなかった。

「俺の一部であるこの植物も、当然同等の性質を持っているため、開花している一週間程度は俺の体を乗っ取ってでもその本能に従おうとする」

 花である以上は当然であろうと『ヤドリギ』も頭で理解はしている。が、理解したところで飲み込めるかというと、それはまた別の話なのだ。

「問題は、通常の植物と違い、『これ』はどうも次代へ繋げるための手続きに必要なものが『俺と対になりうる人間』であると認識しているらしいことだ」

 そう、これがとにかく最大の問題であった。いっそ植物相手であってくれればどれだけよかったか、と思うのだが、それはそれで問題があったかもしれない。どうにせよ、体内の植物の本能は『ヤドリギ』の意志に反して『ヤドリギ』を操るわけで――。

 それ以上を言葉にできずに口を噤む『ヤドリギ』に対し、ぽってりとした唇に指を添えていた彼女が「つまり」と言う。

「見境なく女を犯したくなる、年に一度の発情期ってことね」

「正しすぎる要約をありがとう。しかし俺がここまで婉曲的な表現を使ってきた理由を少しは考えてみてくれないか?」

 彼女に見つかりたくなかった理由の一つはそれだ。彼女はどうにも『ヤドリギ』からすると慎みというものに欠けるところがある。それとも『ヤドリギ』の感覚が世間的に見て古いものなのだろうか。その辺りはどうにも判断しかねるところであった。

 それはともかく、彼女に「一週間は近づくな」と厳命した理由がこれだ。仮に開花している間に彼女が近づきでもしたら、『ヤドリギ』がどれだけ制止したところで花を咲かせた蔦は彼女を捕らえて離そうとはしないだろうし、その後のことは考えたくもなかった。つまりそういうことだ。

 今の説明と彼女とのやり取りで十分状況は理解してくれた――あまり理解されたくなかったが――らしいデリックが、少々引きつった笑顔で言う。

「っていうか、一週間乗っ取られてるって、その間ずっとこう……、なってるわけか?」

「遺憾ながら。開花中はそれ以外何も考えられなくなる。睡眠や食事も満足に取れない」

「だから……、力尽きて沈んでたのか……」

 そう。花が散り、理性を取り戻した時点で、乾ききった喉を潤して、それから花から滴り落ちた蜜やら何やら、ありとあらゆる体液でどうしようもない状態になっていた体を清めようと思ってしまったのが運の尽きだった。せめて一旦「休む」という選択肢を採るべきだったのだろうが、とにかくその時の『ヤドリギ』は開花の痕跡から逃れたいという思いだけで泉に這っていき――そして力尽きたのであった。

「何とも……、難儀な体質だなぁ」

「本当に」

「まあ、まずはこれでも食って落ち着けよ。ゆっくり食えよ」

 デリックから渡された椀を左手で受け取り、とりあえず汁だけを啜る。その優しい味わいと喉から胃に落ちていく温もりに、やっと『ヤドリギ』も人間的な感覚を取り戻せた思いになる。

 その一方で、同じようにデリックから椀を受け取った彼女は、いたっていつもの通りの調子で問いかけてくる。

「ちなみに、今まで誰か襲っちゃったことあるの?」

「無い! その手の間違いを起こさないために逃げているんだ!」

 体内の「花」はつがいを得られずいたって不満そうだが、『ヤドリギ』のなけなしの理性がそれを許さない。開花の兆候があると、常人ではまず近づかないような『はらわた』の奥底に隠れて一週間をやりすごすのが『ヤドリギ』の常となっていた。

 思い出したくもない、どうしようもない一週間だ。ただただ体内の熱に煽られて獣のように暴れることしかできない一週間。自由にならない意識の一方で、瞼の奥に焼きつく、視界いっぱいに咲き乱れる青い花。

「咲く花だけは、綺麗なんだがな……」

 ぽつりと。

 膝に落ちた花弁を見つめながら『ヤドリギ』は言葉を落とし、あとは一週間ぶりとなる人間らしい食事に専念することにした。

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