おとしもの

 ――九六九年 実季三節



 大切なものがいつの間にか手元から消えていた。

 常に身に着けていたつもりだったが、基本的に「使うもの」ではなかったから、なくなったことに気付くのがいささか遅かったのかもしれない。『ヤドリギ』がそれに気付いて慌てて『獣のはらわた』の中を探し回ったものの、それらしいものは全く見つからなかった。

 他の人間にとって価値のあるようなものではないから、盗まれるということは考えづらい。『はらわた』に住まう獣とて、それをどうこうするとは思えない。ただ、『ヤドリギ』にとっては何よりも大切なものであった。

 一週間前までは確かにポケットに入っていた。いや、三日前にも確認したはずだ。なのに、どうしてそれが見当たらないのか。

『ヤドリギ』の日付の感覚はどうにも曖昧だ。ただ、流石にここ数日のことまで忘却してしまったとは思えない。ならば、いったいどこに行ったというのか?

 もう一度。未だに諦めきれない『ヤドリギ』は、瞬きひとつで左手に持ったランタンに火を入れる。まだ探していないところはあっただろうか、あるとすれば、それは――。

 その時、遠くから足音が聞こえてきて、思わず身構える。明らかな、人間の足音。警戒するように外套の下でざわめく右腕を宥めつつ、『ヤドリギ』は声を張る。

「誰だ?」

『はらわた』の住人だろうか。だが今現在の『ヤドリギ』のねぐらは『はらわた』で肩を寄せ合う家なしたちの集落からかなり離れている。ここまで来るのも一苦労のはずだ。

 それに、そもそも足音が聞こえてくる方向がおかしい。この先にあるのは『ヤドリギ』が知る限り地上への「出口」のひとつ、だけ。つまり地上からやってきた誰かがいるということか。そこまで考えて『ヤドリギ』はフードの下で難しい顔をする。先ほど確認した懐中時計は深夜を示していた。……このような時間に『はらわた』に用事がある者など、大概はろくでもない案件を持ち込んでくるに決まっている。例えば「常連」であるどこぞの怪盗だとか。

 しかし、返って来たのは想像していたような声ではなかった。

「そっちこそ、誰?」

 洞の中に凛、と響く女の声。否、少女の声と言った方がいいだろうか。

 その声に『ヤドリギ』は聞き覚えがあった。先日、この先の「出口」――密かに、女王国最大の劇場『ハー・マジェスティ・シアター』の楽屋に繋がっている――から気まぐれに外に出た『ヤドリギ』に誰何の声を投げかけた少女の声。そして、それ以前にもどこかで聞いたことがあると感じた声、だ。

 あの「出口」は危険こそないが相当入り組んでいて、道筋を知らずしてこの場所までたどり着くのは難しいはずだ。『ヤドリギ』は緊張を解くことなく、右の蔦の一つにランタンを絡ませて左の手でフードを深く被りなおす。このような場合は、左手を自由にしておいた方がまだマシだと経験則で理解している。

 遠くから明かりが近づいてくる。向こうもランタンらしきものを持っているようだ。それも青白い光を放つ霧払いのランタンではなく、赤い炎を灯したもの。『ヤドリギ』が「誰」という問いかけに対する答えを探している間に、その光の主は『ヤドリギ』の視界の中に踏み込んできた。

 常に暗くじめついた空気に包まれている『はらわた』にはあまりにも似合わない、汚れ一つ見えない柔らかそうな金髪に、白い肌の少女。着ている服は簡素ながら、動きやすそうである……、何故だろう、妙に既視感のある姿。そして、ぱっちりとした――おそらく綺麗な青色をしているのだろう目が、真っ直ぐにこちらを見つめた。

 そう、こちらから向こうが見えたということは、向こうからもこちらがはっきり見えるということであって。

 少女の表情が、驚きと、一拍遅れての恐怖に歪む。

「ば、化物……!」

 化物呼ばわりは慣れっこだ。……傷つかないわけではないが。ともあれ『ヤドリギ』は一歩退いて、片手を挙げることで害する意図のないことを示す。相変わらず右腕の蔦は自由気ままなものだが、それでも『ヤドリギ』に危害が加えられない限り、蔦も下手に相手に触れようとしないことはわかっている。意外とシャイなのかもしれない。

 そんな冗句を魂魄の片隅で考えながら、『ヤドリギ』はごく丁寧に言葉を紡ぐ。

「見ての通り化物の身ではあるが、君に危害を加える気はない。そちらがそのつもりなら、話は別だが」

 びくり、と少女の体が震える。何も脅したつもりはないのだが、向こうにはそう聞こえてしまったかもしれない。どうも剣呑な相手ばかり相手取ってきてしまったせいで、どうも言葉の選び方が偏ってしまいがちだ。

 ただ、少女も『ヤドリギ』に気圧されているばかりではなく、きっと睨むように『ヤドリギ』を見上げて言う。

「そんなことを言って、『はらわた』の奥に引きずり込むんじゃないでしょうね」

「そういう化物もいないわけではないがな」

 事実、『ヤドリギ』も数度目にしたことがある。人の形を模した、けれど明らかに人ではない何か。一体どのような仕組みなのか、人の姿を巧妙に真似て、たどたどしくも人の言葉すら扱ってみせる。けれど、その本質は人喰いだ。「人間」という獲物を確実に狩るために、自らの姿を変化させる不可思議な生物。ただ、連中は『ヤドリギ』よりもよっぽど人間の真似が上手い。最低限、右腕が蔦だったりはしない。

「だが、俺は残念ながら人を引き込んで食う趣味はない。主食はもっぱら缶詰だな」

 随分『はらわた』の生物の調理にも造詣が深くなったとは思うが、やはり缶詰の手軽さには敵わない。保存が利く、調理をしなくてもそのまま食べられる、温かなものが食べたければ缶ごと温められる、食べた後の油に火を灯すことすらできる。残った缶の始末だけが現時点の課題であろうか。

『ヤドリギ』は戦争を奨励する気は全くないが、戦争の中で必要に駆られた結果としての携帯食糧の多様化、保存状態の向上には率直に感謝している。もし缶詰をはじめとした携帯食糧がなければとっくに『ヤドリギ』は人らしい食生活を諦めていただろうから。

 少女は『ヤドリギ』から一瞬だけ視線を外し、処分に困っている空き缶の塔に視線をやった。暇にあかせて積み上げて遊んでいたのが一目瞭然で、少しばかり気恥ずかしい。

「……嘘、にしては妙に現実味のある光景ね」

「そう思っていただけたなら何よりだ」

 事実しか喋っていないのだから当然といえば当然だが、それでも「信じてもらう」のはなかなか難しい。その程度には『ヤドリギ』は己の人間離れぶりを自覚している。

「とにかく、『はらわた』は地上の者が気安く足を踏み込むべき場所ではない。偶然『俺がそうでない』というだけで、事実、そのような化物はいくらでもいる。どうして、君はこんな場所までやってきたんだ?」

 少女はしばしむっとした表情で『ヤドリギ』を睨んでいたが、やがて口を開いた。

「落し物の持ち主を、探しに来たの」

「落し物?」

「そう。もしかして、これは、あなたのもの?」

 そう言って少女がランタンを持っていない方の手で差し出したのは、折りたたまれた布だった。正確にはハンカチーフと言うべきもの。

 そして、それは――紛れもなく『ヤドリギ』が捜し求めていたものだった。

「あ、ああ。確かに、それは俺のものだ」

 しまったな、と『ヤドリギ』は己の失態を改めて思い知る。地上に出たことを知られただけでなく、明らかな痕跡まで残してしまった。これで場所と相手が異なれば詰んでいたところだった。

 それでも「自分のものでない」と言うことはできなかった。この一枚の布だけは『ヤドリギ』が今の今まで、唯一手放せずにいるものであったから。

「届けてもらったことには感謝する。……返してもらってもいいだろうか」

「その前に、質問に答えて」

 やはり、すぐに返してはもらえないか。『ヤドリギ』も覚悟を決める。自らの失態から来たことである以上は、責任を取らなければならない。最低限、目の前の少女を納得させるという義務がある。

 少女は『ヤドリギ』が手を出してこないと認識したのか、一歩、それからもう一歩、踏み込んできて『ヤドリギ』を見上げて……、目を見張った。おそらくランタンの生み出す陰影でよく見えていなかった、『ヤドリギ』のフードの下を目にしたのだろう。『ヤドリギ』は改めてフードの縁を掴んで視線を隠すように引きおろす。正確には、原型をほとんど留めていない顔の右半分を隠すように。

「申し訳ないが、じっと見られると、流石に気恥ずかしい」

「ご、ごめんなさい」

 彼女も見てはならないものを見たかのように、目を逸らす。露骨に目を逸らされると少しばかり悪いことをしたような気分になるが、この見目ばかりは仕方がない。その上で、少女はあくまで毅然とした声で言うのだ。

「この前。……夜の舞台で、ピアノを弾いたのは、あなた?」

「弾こうとしていたわけではないな。結果としてそうなったのは事実だが」

 あれは自分自身がぼんやりとしていた間に蔦が勝手に動いただけで、『ヤドリギ』が弾こうと思ったわけではない。この右腕の蔦は時折『ヤドリギ』の想定を裏切った動きをする。今は普段通り、不規則に蠢いているだけではあるが。

「あなたは、いつも劇場にいるの?」

「いや、あれが初めてだ。普段はずっとここにいる。地上に出ることはない」

 本当にあの日の行動は「気まぐれ」としか言いようがなかったのだ。自分でもどうかしていたと思っているし、もう二度と劇場に足を運ぶこともないだろう。彼女のように、迷い込んでしまう者が出ないように、出口を塞いでもよいかもしれない。

 ただ……。今はそれよりも、どうしても意識は少女の手の中にある布に目が行ってしまう。

「それは、どこに落ちていたんだ?」

「あなたを追いかけて、途中で姿が見えなくなったから、きっと楽屋から『はらわた』の方に逃げたんだと思って。それで『はらわた』の中に入ってみたら、分かれ道のところに落ちていたの」

 その言葉には、『ヤドリギ』の方が驚く番だった。

「君は、楽屋が『はらわた』に繋がっていることを知っていたのか」

「ええ。以前、ちょっとした騒ぎがあって。一通り落ち着いた後に、解決してくれた人が教えてくれたの」

 ちょっとした騒ぎ。それは怪盗カトレアが唯一「しくじった」事件を指しているのかもしれない。『ヤドリギ』の案内で『はらわた』を介して楽屋に忍び込んだはいいが、盗むべきものが最初から「盗まれていた」という珍事。もしかすると、そこに少女も居合わせていたのだろうか。想像を広げることはできるが、確信には至らない。

 その間にも、少女は更なる問いを投げかけてくる。

「劇場にいたのは、何か目的があったの?」

「いや、何も。……気まぐれに舞台を覗きたくなった、くらいしか説明のしようがない」

 本当にそれだけなのだが、もちろん少女は「納得いかない」という顔をする。だろうな、と『ヤドリギ』も思う。もし、少女と『ヤドリギ』の立場が逆であったら、そんな説明で納得できるはずもない。だから、どれだけ言葉を重ねても無意味だとは思いながら、つい、口を滑らせてしまう。

「ピアノが好きなんだ。ここからピアノのプログラムが聞こえてきて、実物を見たくなった。理由らしい理由といえば、そのくらい」

 少女はその言葉に不思議そうな顔をする。

「ピアノが好き、なの……?」

「芸術を解する化物がいてはいけないかな?」

 少しばかり意地の悪い言い方になってしまっただろうか、と思いながらも少女の反応を窺えば、少女は不思議そうな顔のまま、ゆるりと首を横に振った。

「いけないなんてことはないわ。少しびっくりしただけ。……弾けるの?」

「趣味として嗜む程度だが。とはいえ、見ての通り、今となっては左手もまともに動くかわからない」

 引きつったような痕がいくつも残る左手を握って、開く。たどたどしく主旋律を奏でるくらいならできるだろうか。楽譜の読み方すら、まともに覚えているかどうか。何せピアノの弾き方など、長きに渡る『はらわた』での暮らしでは必要のないものであったから。

 感傷。そう、全ては感傷に過ぎない。過ぎ去ってしまったもの、もう取り戻せないものへの、感傷。それらを首の一振りで打ち消して、少女に向けて左手を差し出す。

「……ともあれ、それを、返してもらえると嬉しい。そのために俺ができることなら何でもしよう。君が望むなら劇場への道を塞いで、二度と俺を含めた『はらわた』の者が劇場に立ち入ることのできないようにしてもいい」

 本当はそうすべきだったのだ。最初から。気まぐれなど起こす間もなく、行く手を塞いでしまえばよかったのだ。

 しかし、少女はハンカチーフを握ったままじっと『ヤドリギ』を見据えて、やがて口を開いた。

「本当に、何でも、してくれる?」

「俺にとって極端に理不尽なものでなければ」

 例えば命を絶て、だとか。『はらわた』から出て行け、だとか。いくら自分に責があるといえど、そのような要求は呑みかねる。

 ただ、少女の唇から放たれた言葉は、『ヤドリギ』の想像とはまるで異なっていた。

「なら、明日の夜、舞台袖まで来てくれる?」

「何だって?」

「私、夜に劇の練習をしてて……、それに、付き合ってほしいの」

 あのような夜更けに声をかけられたのは、彼女が密やかに練習をしていたからなのか、と『ヤドリギ』もやっと合点がいった。合点はいったが、しかし、それは何も『ヤドリギ』でなくてもよいのではないか。

「どうして俺に?」

「あなたは芸術を解する化物なのでしょう?」

 少女はにっと白い歯を見せて笑ってみせたが、すぐに表情を引き締めて言う。

「私、立派な女優になるのが夢なの。……でも、人と同じようにしていたらすぐに追い越されちゃうでしょう? 今の私にできることは何だってしたくて、夜、一人で練習をしてるの。でも、一人きりじゃ限界を感じてて。だから、あなたに確かめてほしい。私を知らない、あなたに」

 その凛とした立ち姿に、目標となるものを見据えるひたむきさに、『ヤドリギ』は覚えがあった。身近すぎるほどに身近な記憶として。もしくは、彼女の手の中にあるハンカチーフのように、いつしか『ヤドリギ』自身が取り落としてしまった「何か」として。胸を締め付けられるような思いと共に、『ヤドリギ』はほとんど無意識に頷いていた。

「わかった。なら、明日の夜に」

「本当?」

「約束は約束だ。何でもすると言ったのは俺も同じだからな」

 言葉を違えるということは『ヤドリギ』にはできない。これは何も誰かに強いられたわけでもない、『ヤドリギ』自身の矜持のようなものだ。

 少女はぱっと表情を輝かせて、それからふと自分の手にしているものに気付いて、慌てて『ヤドリギ』の左手に載せる。

「それじゃあ、これは返すね。……そんなに大切なものなの?」

 ああ、とだけ答えて『ヤドリギ』は布の表面に刺繍された文字を指先で確かめる。端はところどころ焼け焦げてしまっているけれど、奇跡的に大半が残っていたハンカチーフ。『ヤドリギ』が『ヤドリギ』になる前から持っていた、数少ない一つ。

 それを、今度こそなくさないように外套の内側のポケットに収める。これまで手放してしまったら、本当に、過去の自分を思い出せなくなってしまいそうだったから。

 少女はどこか不審げに『ヤドリギ』の一連の挙動をじっと見つめていたが、ふと、思い出したように口を開いた。

「そういえば。……まだ、あなたの名前を聞いていなかったわ。何て呼べばいいかしら」

「『ヤドリギ』。そう呼ばれている。君は?」

 問い返されて、少女は逡巡したようだった。おそらく『ヤドリギ』に名乗ってもよいか迷ったのだろう。別に『ヤドリギ』も本当の名前を聞きたいわけではない。単に少女を識別するために呼び名があった方が楽だ、という程度の話だ。

 それでも、少女の躊躇いはごく一瞬のことで、背筋を伸ばしてよく響く声で言った。

「アイリーン。アイリーン・サイムズ」

「アイリーン……」

 聞いたことのある名前だ、と思った。聞き覚えのある声だとも思った。そして、彼女の姿を見て、見たような気がしたとも思ったのだ。『ヤドリギ』は少女――アイリーンに問いかける。

「アイリーン、君は、以前にも『はらわた』に来たことがあるだろうか」

「え?」

「君の姿を地下で見たことがあるような気がする。俺の気のせいでなければ、だが」

 アイリーンは二、三度瞬きをしてから、改めて『ヤドリギ』を見つめる。今度は、『ヤドリギ』の顔から目を逸らすことはしなかった。どちらかというと『ヤドリギ』の方が気恥ずかしくなってしまうくらいには真っ直ぐに、『ヤドリギ』の左だけしか光を宿していない目を見つめていた。

「今までに二度、『はらわた』を通ったことがあるの。一度目は、何も知らないまま『はらわた』に潜って、……危ないところを誰かに助けてもらった、って友達に教えてもらったけど、その人の姿は見てない。二度目は、その人が作ってくれた地図で『はらわた』を通って外に出て、おかげで劇団に入ることができたんだけど」

 もしかして、とこちらを見上げてくるアイリーンに、『ヤドリギ』は口元に少しばかり苦笑を浮かべる。

「その様子なら、かろうじて、読める文字は書けていたかな」

 何せ『ヤドリギ』は字が下手だ。とにかく下手だ。案内のために『はらわた』内部の地図を描き、色々と注意書きをした記憶はあるが、果たしてそれが読めるものであったかどうかは自信がなかったのだ。

「……あなたが、助けてくれたの?」

「偶然だけどな。今、君が望んだように在れているならば、よかった」

 これは心の底からの思いだ。彼女の「夢」がどのようなものであるのか、当時の『ヤドリギ』は具体的に問うことはしなかったけれど、今のアイリーンを見ていればわかる。あの日の少女は、今まさにあの日見ていた夢を叶えようと、前を向いて、己の足で歩いていこうとしている。

『ヤドリギ』には眩しく、けれど、どこか懐かしい感覚だ。瞼の裏に焼きついた、こちらに向けて手を伸ばしてくれた誰かの記憶と結びついている。それは同時に『ヤドリギ』が取り落としてしまった全てでもあったのだけれども。

 そんな感傷を振り払い、『ヤドリギ』は右の蔦に絡めたランタンを翳して言う。

「途中まで送ろう。明日は同じくらいの時刻に向かえばいいかな」

「え、ええ」

 懐中時計の螺子を巻き忘れないようにしなくては、と『ヤドリギ』は思う。『はらわた』の中で生きていくだけならば困らないだけに、どうしても忘れがちなこと。それでも何一つ問題ないはずであったこと。

 けれど、今の『ヤドリギ』は、あれだけ遠いものに思われていた地上に、気まぐれ以外の理由で踏み出そうとしている。今までの自分では考えもつかなかった形で。

 一歩、二歩と、『ヤドリギ』は普段よりもいくらかゆっくりとした調子で歩いていく。アイリーンの歩幅に合わせるように。斜め後ろから、小さな足音と、それから――囁くような声が、聞こえてくる。

「あの時は、ありがとう。私、助けてもらったのに、あなたに何も言えなかったから」

「どういたしまして。こちらこそ、届けてくれたことに感謝する。……あまり、危険な真似はしてほしくないがな」

 今回はそう危険な経路でなかったからよかったものの、足を滑らせたり、道に迷う危険性は十分にあった。その場合、『ヤドリギ』がアイリーンを見つけ出せたかどうかは、わからないのだ。あの日のような偶然に二度目があるとは限らない。

 アイリーンもそれは重々承知しているらしく「これからは気をつけるわ」と少し沈んだ声で言ってから、すぐに明るく言い放つ。

「でも、明日からはあなたの方から来てくれるのでしょう? なら、危ないことなんてないわよね、『ヤドリギ』さん?」

 果たして、今の自分はどういう顔をしているだろう。『ヤドリギ』は自分で自分の顔が見られるわけではないから、全く想像もつかなかったけれど。

「ああ、それもそうだな」

 きっと、いつもよりはずっと上手く笑えていただろうと、思っている。

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