第32話 選んだならせめて

 日野先生の車は、軽の黒いワンボックスタイプだった。内装は黒をベースに白のカップホルダー等の小物が設置されていた。


 楓が助手席に乗り、僕は楓の後ろの席に乗った。


 日野先生の車の中で僕は質問した。


「先生は、どこまで雪乃のことを知っているんですか?」


「それは家庭環境のこと、ということでいいですか?」


 僕はその一言で察してしまった。それは日野先生の中で、何のことを聞かれたのか、聞き返さなけばならないほど雪乃ゆきののことを知っているということで、日野先生はきっと、僕より雪乃の事情を知っている。僕よりずっと前から、雪乃を気にかけていた。張り合うつもりはないけど、親友のかえで以外には、雪乃のことについては負けたくなかった……。いや、楓にも負けたくないのかもしれない。これをなんという感情なのかわからないけど、誰にだって、雪乃のことについては負けたくなかった。


「はい」


 僕はなんとなく一言だけ返事をした。


「雪乃さんはあの子と雰囲気が似ていました。柏木かしわぎ君も、早坂はやさかさんも……去年のことは覚えていますね」


「はい」楓が真剣な表情で言葉を返した。


「わたしは、あの子が自ら命を絶ったあの日から、心に決めました。いつでも笑顔で、生徒たちが気軽に相談できる教師になろうと……。そんな時に雪乃さんがあの子に似ていると思ったんです。どこか寂しそうで、でも人に弱いところは見せない不器用な性格。わたしは雪乃さんを放っておくことが出来ず、何度も話し相手になろうとしました。でも、うまくいきませんね、結局、大丈夫としか言ってくれませんでした。わたしは、あなたたちの先生なんです。みなさんには笑っていてほしいんです。今、雪乃さんの家族に何が起ころうとしているのかはわかりません、ただ、関係ないと言って、知らないふりはしたくありません」


 日野先生の言葉には強い意志が込められていた。


「先生は頼りになりますよ、みんな恥ずかしくて言葉にできないだけで、先生があれからどんなに頑張ってきたか、みんな知ってます。あれからの先生のことに気が付かない生徒はこの学校にはいませんよ。……一年生以外は」


 僕は日野先生の言葉につられて、そんな言葉を口にした。言った後少し恥ずかしくなった。


「春人の最後の言葉は余計だわ」


「なんか恥ずかしくなっちゃって……」


 楓の言葉に僕は返した。


「二人とも仲がいいですね」日野先生が言う。


「でも、あたしも結衣も、教師の中で一番、先生が好きですよ」


「早坂さん……さあ、雪乃さんの家に向かいますよ」


 車をしばらく走らせると、雪乃の家に着いた。


「ここにいったん停めます……」と、日野先生は雪乃の家から少し離れた公園の駐車場にとめた。日野先生は一度雪乃の家を見に来たことがあるようで、雪乃の住んでいる家には車を駐車するスペースがないことを知っていた。


  僕たちは雪乃の家に向かった。雪乃の家は長屋住宅で、一階建てのかなり古い建物だ。警察の黒いセダンが見当たらない。明日、逮捕状が出るということで監視を解いたのだろうか。警察の事情はわからないが、いてくれた方が何かあったときに頼れたんだけど……。


「雪乃さんはもう帰っているのでしょうか?」日野先生は不安げな表情で言った。


「結衣、すぐ帰ってたから……」


「ベル、押してみるか?」


 雪乃たちは、僕たちに家に来るなと言っていた。そんなことを言うのは義父が原因なんだと思うが、とりあえずその義父に会わずに、済ませたいところだ。


「居るのが結衣だけ、だったらいいけど……」


「ふざけんなよ!」


 楓の言葉が終わると同時に男の怒号どごうが聞こえた。


「先生、今の……」楓はドアに手をかけた。


「待ってください! 少し様子を。わたしたちが入って余計なことになるかもしれません」


「でも……」楓はそういいながらもドアから手を離した。


「姉ちゃんのいうとおりだ! それに姉ちゃんが渡してる金、もうやめろよ! もうあんたなんか」


「うるせーぞ! この!」足音を激しく鳴らしてこちらへ向かってきたかと思うと、今度はさらに足音を鳴らし、遠ざかっていった。


「う、うわ!」


啓介けいすけ! いやー!」雪乃の激しい叫び声とともに、悲鳴が響いた。


「雪乃……雪乃!」


 僕はドアを激しく開け放った。


「な、なんだ、あんたらは……」男が僕たちを見ながら言った。その男の手には包丁が握られていた。


「そ、そんな! 啓介君!」楓が奥で倒れている雪乃弟を一目見て叫び声をあげた。


 彼は腹部をおさえてうずくまっていた。


「雪乃!」僕は思わず叫んだ。


「みんな!? 早く! 救急車を呼んで! 啓介が!」


 雪乃弟は腹を手で押さえいる。その手からは赤い液体が流れていた。


「な! 先生! 救急車!」


「わかりました。今すぐに!」


「よ、余計な事すんじゃねえ! 余計な事したら!」


 男は雪乃に包丁を向けた。


「刺すつもりはなかったんだ! 言うこと聞かねえこいつらが悪いんだよ!」


 日野先生はそれを見ると、ひるんでしまった。


 男は本当に刺す気はなかったのか、ひどく取り乱していた。ろれつもややおかしく、目つきも、何と言ったらいいか正常な様子ではなかった。この男が雪乃たちの義父で、雪乃たちはこの男とどんな未来を描いたのか。もし、一緒の未来を描いていたとしたら、これはあまりにも残酷な結末だ。


源太げんたさん」


 雪乃が声を発し、そのまま続ける。


「私は、お母さんが選んだあなたを信じていました。あなたとお母さんと啓介と私、四人でいつか家族になれるって信じていた。いえ、家族になれたと思っていた。だけど、どんどんあなたは変わってしまった。そしてあなたは……私たちはなにがいけなかったの? 気に入らないことがあったなら言ってください。そして……お願い、啓介を」


 雪乃の言葉は懇願こんがんするようだった。


「気に入らないことがあったらだ? 俺は、俺はな! 由香子ゆかこさんだけを選んだんだ。俺も最初はやっていけると思ったんだ。だけど、わかったんだ、俺は、お前らは選んでないんだよ」


 それを聞くと雪乃はうつむいてしまった。選んでいない。その言葉は雪乃にとってどれほど重いか。


「あ、あ……ぐ……あああああああああああ!!!」


 雪乃弟は痛みと悲しみに耐えるような声をあげた。


「お母さんを選んだなら、せめてお母さんだけでも、守ってよ……」雪乃がつぶやくように言う。


「なに?」男が返す。


「お母さんが身体が弱いのに毎日遅くまで仕事をしてくれて、無理して倒れたじゃない。せめて選んだというなら、私たちのことはいいから、お母さんだけでも守ってあげてよ」


 雪乃の目尻がうっすらとひかる。


「ああああああ! うるせえ、どいつもこいつも! もう後戻りできねえんだ。そのうち警察もくるんだろ! 知ってんだよ! 警察の連中が俺を監視してるって 一人も二人ももう変わらねえんだよ!」


 男は叫びながら、雪乃へ包丁の刃を向けた。


「雪乃さん!」


 その刹那、日野先生は雪乃に向かって飛び込んだ。そして、日野先生の脇腹に、包丁の刃が突き刺さった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る